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古尾谷氏館(善仲寺館)
関連ページのリンク  200/01/17の日記      
所在地
埼玉県川越市古谷上堀ノ内4136
歴史と沿革

■「新編武蔵風土記稿」の記述によれば地名の古尾谷は古谷とも称するとのことであるが 、何時からそうなったのかは不明のようである。この一帯は「古尾谷荘(庄)」とも呼ばれ、古谷上村以外に、古谷本郷を始めとして木野目、高島、古市場、澁井などの十三か村を含んでいたようである。古尾谷氏(古谷氏とも)はその名称の通り古尾谷荘の当初からの領主層であり、出自は不詳の模様であるが鎌倉幕府の御家人となった。しかし、その足跡は断片的であり全容がつかめないが、「川越市史」などによれば次のようになる。
(1)1221年の承久の乱では執権北条泰時に従い戦いに加わり、「承久記」などによれば宇治川の合戦に加わった河越氏、金子氏、勝呂氏、小代氏、小越氏、仙波氏、宿谷氏などと共に一族の「古谷八郎」の名が見える。
(2)南北朝時代の貞治元年(1362年)の「金沢文庫古文書」に「古尾谷刑部大輔入道」の記述。
(3)当地にある曹洞宗善仲寺の開基である「古尾谷近江太郎信秀」が応永6年(1399年)に没している。
(4)「小田原衆所領役帳」に「古尾(谷)周防」18貫文の記述。
 後北条氏支配の時代「新編武蔵風土記稿」によると、古谷本郷の領主の中氏(中筑後守資信は岩付城の太田氏に属していた模様)は「古谷殿」と呼ばれ古尾谷氏の家臣とされているが、その関係も明確ではないらしい。

確認できる遺構
土塁、空掘
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■荒川・入間川右岸の水田地帯の中に所在する東西3町(約300m)、南北2町(約200mの)水堀で囲まれた長方形の区画が館跡。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「川越市史 中世編」(1985年/川越市編集発行)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988年/埼玉県編集発行)    

文化財指定
訪城年月日
200/01/17
訪城の記録

( 2005/01/17 )
国道16号線の近くにしては、よく残っています。 
 昨日一夜漬けで調べて、古尾谷氏=古谷氏という事実を始めて知ったという次第。相変わらず事前の準備が不足しているのであります。さて、城館跡の所在地は当然古谷上とあります。愛用の「昭文社版の埼玉でか字」地図で調べると南古谷の北の方角で国道16号の北側に所在しています。しかし、地図で見る限りどう見ても迷路状態のようです。実際に現地に行ってみたらやっぱりかなりの迷路で。
 道路自体は良くぞここまでというぐらいに丁寧に舗装されていますが、「堀の内」の地名の通り四方が水路で囲まれています。善仲寺の境内を目指すには車の場合だと、西側からのクランク状のたった一つのルートしかない模様です。後で地図をよく見てみると、そのまま方形館の外堀が用水路になっていて、こうしてみると外形的にはよく残されていると見るべきでしょう(^^)
 城館跡は善仲寺境内。墓地の拡張といういやな予感も杞憂に。墓地の北側には低いながらもしっかりと土塁の一部が残されています。ただし裏側は水路のため、しっかりとコンクリートの擁壁がありますけど。墓地の東側には高さ2mの土塁らしき遺構も一部残っています。もしかすると、形状から見て古墳かも知れませんけど(^^;
 堀跡は一部を除きコンクリートの工事が。西側、南側の堀跡は往時の面影も散見できます。元々余り期待しない訪城なので、望外の収穫がありました。お地蔵さんのほのぼのとした写真も撮れたことだし....

Best Shot?

 コンクリートの擁壁で補強されている部分が多いのですが、堀幅自体は約2間ほどあります。
 国道16号線の北側400m足らずの地点であることを考慮に入れれば、四方の掘割は埋め立てられることなく外形的には殆ど残されており、全体としてよく当時の雰囲気を伝えているように思います。
 西側の堀を北側から撮影、撮影位置のところで左側からのびる北側の堀と合流している。( 2005/01/17 撮影 晴 )
交通アクセス

・JR南古谷駅から北へ徒歩25分。川越養護学校の東、古谷小学校の西側。  MapFan Web の案内図です


( 2005/01/17 撮影 )

■墓地の北側に明確に残されている土塁の一部で、こちら側での高さは約80cm位です。
■土塁の北側には堀跡もありますが、このようにコンクリートの擁壁でしっかりと固められています(^^;
■本堂の北側、墓地の東側に変則的に残る土塁と思われる遺構の一部。高さは約2m程度。形状がどうも円墳の形に見えてしまうのですが。
■当時の堀跡に見えなくもありませんけれども、後世の農業用水のようです。
■南側の堀跡の一部。堀幅はせいぜい1間ぐらいしかありませんが、この辺りが最も改変されていないような印象があります。
■当日は天気もよく風もあまり無かったので日差しがポカポカと暖かかったのですが、六人のお地蔵さんはこのように完全防寒対策をして日向ぼっこをしていました。
■館の跡にある善仲寺の全景。山門脇から本堂にかけて微妙な連続した地面の高まりがありますが、土塁跡であるという確信が持てません。
 周辺には「馬場」「御門」「的場」「堀ノ内」などの中世城館の名残を伝える小名が残る。
■「秩父の山並み」
 二日続きのみぞれ模様の生憎の天気の翌日、空は晴れ渡り武甲山を始めとする秩父、奥武蔵、奥多摩の山並みがくっきりと視界に捉えることができました(^^)
 
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