■「新編武蔵風土記稿」の記述によれば地名の古尾谷は古谷とも称するとのことであるが 、何時からそうなったのかは不明のようである。この一帯は「古尾谷荘(庄)」とも呼ばれ、古谷上村以外に、古谷本郷を始めとして木野目、高島、古市場、澁井などの十三か村を含んでいたようである。古尾谷氏(古谷氏とも)はその名称の通り古尾谷荘の当初からの領主層であり、出自は不詳の模様であるが鎌倉幕府の御家人となった。しかし、その足跡は断片的であり全容がつかめないが、「川越市史」などによれば次のようになる。 (1)1221年の承久の乱では執権北条泰時に従い戦いに加わり、「承久記」などによれば宇治川の合戦に加わった河越氏、金子氏、勝呂氏、小代氏、小越氏、仙波氏、宿谷氏などと共に一族の「古谷八郎」の名が見える。 (2)南北朝時代の貞治元年(1362年)の「金沢文庫古文書」に「古尾谷刑部大輔入道」の記述。 (3)当地にある曹洞宗善仲寺の開基である「古尾谷近江太郎信秀」が応永6年(1399年)に没している。 (4)「小田原衆所領役帳」に「古尾(谷)周防」18貫文の記述。 後北条氏支配の時代「新編武蔵風土記稿」によると、古谷本郷の領主の中氏(中筑後守資信は岩付城の太田氏に属していた模様)は「古谷殿」と呼ばれ古尾谷氏の家臣とされているが、その関係も明確ではないらしい。 |