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関連ページへのリンク  2006/11/07のブログ 白岡氏館 北鬼窪氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合22
所在地
埼玉県南埼玉郡小久喜中村933周辺
歴史と沿革

野与党南鬼窪氏館跡の比定地のひとつ
 高麗の聖天院に所在する応仁2年(1468)の鰐口に「久伊豆御宝前 武州騎西郡鬼窪郷佐那賀谷村」、白岡八幡宮の享徳5年(1456)の鰐口に「武州騎西郡鬼窪八幡宮鰐口」と刻まれているものが現存し、鬼窪郷とは現在の白岡町の実ヶ谷・小久喜・白岡地域を指し在地名を名乗った野与党鬼窪氏の本貫地と推定されています。(「新編武蔵風土記稿」「白岡町史/通史編」)
 南鬼窪氏は野与基永の孫にあたる行親が鬼窪郷の南部に居住したことに始まるとされ、「吾妻鏡」によれば、この行親は元暦2年(1185)3月14日に源頼朝の命に従い鎮西である源範頼への使者として西国へ赴いたとされる記述があります。なお、「鬼窪氏系図」では、この3代後に白岡氏の祖とされる白岡禅師澄意(しらおかぜんじずいい)の名が記されています。
 その後の鬼窪氏の事蹟としては、観応の擾乱(1350-1352)の「武蔵野合戦」(羽祢倉合戦、阿須垣原合戦、人見原合戦、高麗原合戦など)に際して鬼窪弾正左衛門、鬼窪左近将監などの名が足利尊氏方として加わっていることが確認されます。(「高麗経澄軍忠状」日高市町田家文書より) また、時代はやや下って康暦3年(1381)の鳩井義景の所領訴訟に関して鬼窪某が事実関係を調査すべきことが命じられています。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

元の地形の面影は微塵も無く
 本来は元荒川左岸の白岡台地の東端部に位置し西側を除く三方が侵食谷により囲まれた土地柄で西方には鎌倉街道が通過していると云うことですが、現在の地形からは到底窺い知ることが難しい状況です。 なお、館跡の南側には「馬場」の小字名が残されています。

文化財指定
訪城年月日
2006/11/07
訪城の記録 記念撮影

( 2006/11/07 )
八幡の社叢は何処に
 南鬼窪氏の館跡と推定される場所は、概ね鬼窪八幡の祠を南限とした市街地一帯。 そうはいっても現在は病院やマンションが立ち並ぶという、実に殺風景な景色があたり一面に広がっています。 古い鬼窪八幡の写真が掲載されている「白岡町史」からは、屋敷林などの光景が多少なりとも残っていることを期待していたものの、鬼窪八幡の西側は宅地開発され分譲の真っ最中で、その東側はアスファルトの駐車場に変貌..
わずかに残された「ご神木」と思われる1本の銀杏の木と小祠だけが往時の様子を伝えているという侘しさなのでありました。
 さて予想を遥かに超越した殺風景な光景に落胆しているうちに次第に日没の時刻も迫りはじめたので、重たい足を引きずりつつとぼとぼと帰路に。 スーパーの駐車場に止めてきた愛車に戻ると、何やら懐かしい奇妙かつ強烈な異臭が社内に充満..事の真相は、白岡八幡神社の参道のギンナンが、折からの強風にあおられてパラパラと落下。 そのギンナンをがしがしと踏みしめつつ、その参道を4往復余りもうろついていた由にて至極当たり前の話にて候(笑) このあとこのスーパーにて簡単な食料などを買い求めて車中にて腹ごしらえを。

「鬼窪八幡」 クリックで拡大します
ぽつんと残された観のある「鬼窪八幡」の所在する一角
( 2006/11/07 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで神社の解説へリンク
■1■久伊豆神社
 神社の起源は不詳とのことですが、大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)、豊宇気姫命(とようけひめのみこと=伊勢神宮外宮の穀物神)などを祭神としています。 地理的に見ても他の久伊豆神社同様に野与党鬼窪氏の信仰を集めていたものと推定され、其の社殿は南鬼窪氏館の推定地の直ぐ西側に所在しています。
■2■東側から眺めた「鬼窪八幡」
 祠の所在する東側はこのようなアスファルトの駐車場に変貌し、これ以上のコメントのしようがありませんが、黒っぽく見える大木の下が「鬼窪八幡」の祠です。
■3■南側からの遠景
 南鬼窪氏館が所在していたとされる西側付近の様子ですが、かつての畑や平地林はものの見事に整地され往時の面影を止めているのは南西の一角に僅かに遺されている「鬼窪八幡」の辺りだけの模様です。 なお、大きなマンションの手前付近にその後裔の方と思われる「鬼窪」姓の旧家がいまも所在していました。
■4■みかん
 特に撮影した意味はありませんが、折からの秋の夕日に「みかん色」がさらに鮮やかに映えていたのがとても印象的でした。 −「南鬼窪氏館跡」の近辺にて撮影−
交通案内

・JR東北本線白岡駅の南東約600m、久伊豆神社の東側。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 埼玉郡小久喜村の旧家として「旧家者文平 氏を鬼窪と称す、先祖を鬼窪を鬼窪尾張繁政と呼び、天正19年正月八日歿し、壽光院秋月齋孤居士と号し、今の文平まで十代当村に住し、名主の役を奉り、かれが家より分れし民五軒ありと云のみにて、家系を傳ざれば其家の事實詳ならず、されど當国七党の内野与党の譜に、鬼窪六郎定綱と云人を載す...」と記され、こうした鬼窪氏の後裔の存在からも鬼窪氏の本拠地であった事情が推察されるものと考えられます。
■武蔵志
 南埼玉郡の記述は欠落しています。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)・「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「白岡町史 通史編(1989/白岡町)」・「白岡町の文化財 第5集 地名考」(1980/白岡町教育委員会)
「白岡町史資料 地誌」(1982/白岡町教育委員会)・「ふるさと白岡」(1984/白岡町教育委員会)
「神社辞典」(白井 永二ほか編 1997/東京堂出版) 

・2006/12/25 HPアップ

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