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2007/03/26のブログ 根古屋城(机ノ城) 永田城 | ||
おすすめ評価 |
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埼玉県秩父郡横瀬町大字横瀬8095−1 | |
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郭2、堀切2、腰郭1(2段) | |
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横瀬町指定史跡 1973年1月31日指定 | |
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2007/03/26 |
( 2007/03/26 撮影 ) |
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・生川橋手前を左折し秩父石灰工業の先を右手の尾根筋から登る。 |
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凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿 横瀬村の項に「小御嶽(古御嶽城を指すものと理解) 武甲山の東北にあり、生川を隔てて一区の山岳を形成し、雑木が生い茂る険阻な地形である。その道は狭い山道で棘に塞がれた険しい九十九折りの坂が続く。およそ10町ばかりを経て頂上に到着すると百坪ほどの平坦地が所在しその辺りは岩場であり松が多く茂っている。そこから峰伝いに南東の方角に向って次第に10町ほど登っていくと大机山に至る。この間に堀切が3か所ほど所在し、この城址の由来は地元の伝承によれば上杉家の臣永田外記というものが居住していたとのことで、字中野という場所で討ち死にしたといわれている」と記されています。 あくまでも古文書などの史料的な裏付けの無い伝承に過ぎませんが、根古屋城(机ノ城)などの上杉憲政の伝承等と符合している部分もあります。なお、古御嶽城への山道が稜線伝いのものを指すのか、天狗沢(要害澤か?)からの谷筋の道を指すのかは明確ではありませんが、いずれにしても古御嶽城までの距離と大机山までの距離は明らかに過大に記されており現実にはそれぞれその半分ほどの距離に過ぎません。こうした誤解は恐らくはその地形が険阻であることによるものと解されます。 また同村の項の続きである「要害澤」の個所にはなかなか興味をそそられる次のような壮大な記述もみられます。 「要害澤 古御嶽の麓で東の方角の澤を云い、永田氏が小御嶽城に居城していた時に警備した場所であるといわれている」 ⇒ この「要害澤」の記述については、地形的な条件から推定した場合には現在の猿田彦神社(神楽などでは天狗の面をつけて舞うのが通例です。こうしたことから天狗と同一視されることの多い神)の小祠が所在する天狗沢のことを指すものと考えられます。現在でも祭礼の際には西側の岩壁を通過することなく、古御嶽城北側の沢筋から登っていくとのことで、その意味からも防御する必要性を有する場所であると考えることができます。 これに続いて、「机平 これより東に続き机平という場所があり、登りは1町ほどで1町四方の平坦地があり周りは雑木に囲まれている」 との記述があります ⇒ 古御嶽城の北側に所在する天狗沢対岸に地形上からは2か所ほどの候補地が想定されますが、現状では残念ながら未確認のままです。 さらに続いて「天王 これより3町ほど南の方へ登り杉の木に覆われた所に僅かな平地が所在し、石垣の上に天王の小祠がありここを登れば前に記した大机山に至る」 ⇒ 八坂神社の祭神でスサノオノミコトにも喩えられることの多い牛頭天王と推定され、因みに天狗沢の下流には猿田彦神社と並んで八坂神社の小祠も祀られています。 続いて「愛宕社 さて机の平より一の澤を隔てて、北東の方角の所から1町ほど登ると200坪ほどの平地があり、松の木とともに愛宕社の小祠が所在する。ここから次第に稜線伝いに上ると同じく大机山へと至る。ここから一の澤(恐らくは「城谷澤」の誤りか)を隔てて根古屋の城址が所在する。考えるに、昔は何某かの居所であり本城を机の平に構え2の丸は愛宕祠の所在する辺りで、3の丸は根古屋(根古屋城とは別の個所を意味するものと考えられます)の辺りで、その間の渓谷に跳ね橋などを渡して通行できるようにしたと推定される」との記述があります。 この記述をそのま信用すれば根古屋城(机ノ城)の規模をはるかに超える馬蹄形の巨大な山城が構築されていたとの解釈になりますが、情報不足のため地名と現地の地形についての絞り込みができておりませんので何とも言えないところです。想像上の産物と片付けてしまえばそれまでのことではありますが、ただ両城の中間に所在する並行する2本の稜線上には山城として中世城館に相応しい地形が多いことも事実で、一時的に物見砦のような施設が存在しても不思議はないものとも思われます。 この他にも、「桂淵 生川の水路、小御嶽より北西の麓にあり、この淵は小御嶽落城の時桂前という婦人の溺死した所であるという村人の伝承がある」、「責淵 この淵も桂淵より少し下流にあり、ここも落城の時城兵等が立て籠もった籠った所である」などの伝承などには事欠きません。しかし、これらの伝承が天文年間から天正年間のいずれの頃のエピソードであるかについては今となっては知る由もありません。(以上文意を略述し適宜見出しを付してあります) ■武蔵志 横瀬村の項、古城址などに古御嶽城の記述は見られません。また「増補秩父風土記」にも該当するような記述は確認できません。 ■秩父郡誌(大正13年(1924)12月4日初版、昭和47年(1972)6月名著出版より復刻) 横瀬村の項に「生川は..武甲山麓より発し古御嶽城の裾をめぐり横瀬川に入る。城址の西北生川の水路に桂淵あり。古御嶽城陥落に際し桂ノ前という婦人が入水したことから名付けたという」との伝承が記されています。この桂淵の所在地については「新編武蔵風土記稿」の横瀬村根古屋城・古御嶽城の挿絵図にも記されています。 また古御嶽城については、「当村の南方にあり。天文年間上杉憲政の臣永田外記の築いたところであるといわれている」と明記されていますが、こうした記述はあくまでも「新編武蔵風土記稿」の記述を引用解釈したものであると思われます。 |
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凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林) 「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・ 「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県) 「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店) 「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など 「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会) 「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)・「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会) 「秩父志」および「増補秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より) ・2007/08/30 HPアップ |
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