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アクセスお礼申し上げます。  素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。  お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。  
1歴史・伝承 2残存遺構 3地理的条件 4訪城記録 5アルバム 6交通案内 7文献の記述 8参考資料 9更新記録
関連ページへのリンク  2007/03/26のブログ 根古屋城(机ノ城) 永田城 
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態8 探し易さ4 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯2 印象5 総合30
所在地
埼玉県秩父郡横瀬町大字横瀬8095−1
歴史、人物、伝承

根古屋城の詰めの城あるいは物見砦か
 「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、「上杉家の家臣永田外記が居住した」との地元の伝承が記されているだけで詳細は不明で。おそらくは戦国期の山内上杉氏時代のことと想定されますがその具体的な根拠を示すだけの材料が見当たらないようです。また「秩父志」の寺尾村の項には「此村に永田と云う所あり、此に永田山永福寺と云る真言の古刹ありて...此寺地は東は荒川にして西北は小澤をまわし自然の深溝なり。南を表して長300間ばかりなる地なり。往古永田林四郎と云うもの居迹なりと云う..」と記されていますが、永田という地名並びに姓が符合するのみであり、古御岳城永田氏の伝承との関わりは余り明確であるとはいえないようです。

確認可能な遺構
郭2、堀切2、腰郭1(2段)
地理的特徴

果たして何処から攻めのぼるか
 根古屋城の南南東約800mの生川と天狗沢に南・西・北を囲まれた標高480mの細長い峻嶮な岩尾根上に所在する山城です。その郭の規模から想定すれば根古屋城の詰めの城あるいは、妻坂峠から生川沿いの往還を監視する物見砦のような役割であったものとも想定されます。
 仮に城攻めを想定した場合には、天狗沢から方面から遡及して古御嶽城を目指すとすれば、下記画像の左手の堀切付近を目指すか、西郭北側の腰郭の所在する急峻な尾根筋に取りつくかが常道ではないかと推定されます。ただし削平されている郭部分の広さについては東西の郭を合わせても500平方メートル足らずの規模であり、そのうち小屋がけできそうな個所については西郭側はあまりに幅が狭いことから最高地点である東郭の一部のみと考えられます。このことから仮に水の手、食糧などの要素を除外し短期間の籠城であると想定したとしても、50人以上の在城は難しいものと考えられます。
 また、北側の「根古屋城」とは焼山方面から派生した三角山(標高623m)の個所で尾根続きとなっていることから、かつては三角山の北側に巻き道が所在し相互の連絡を取ることができたのではないかとの可能性を勝手に妄想。しかし西側の岩場を体験したばかりなので、勾配のきつい深い谷に加えかなりの岩尾根続きの難路であることも予想され、下手に迷い込んだら低山といえども命の危険が充満しているのかも知れず実況検分などはとても難しい状況でした。ただし「新編武蔵風土記稿」の「要害澤」の記述の中でも、これに類似した限りなく憶測に近いような記述が見られるのは、それだけ魅力的な地形が内在していることの証左なのかもしれません。

文化財指定
横瀬町指定史跡 1973年1月31日指定
訪城年月日
2007/03/26
訪城の記録 記念撮影

( 2007/03/26 )
 岩場に慌てる我が身の情けなさ
 「登り口に関する情報不足」と「西側の郭直下の巨大な岩場の難路」(「中世北武蔵の城」より)との情報から訪城を躊躇していた経緯が。然し、最早それほど若くもなくかつ心肺機能を始めとする総合的体力が確実に低下の一途を辿っているのは確実でありましたが、幸いにしてこれに先立ち登り口について「儀一の城館旅」(「赤服の紳士」)管理人殿より情報をご提供いただき基本的問題を解消。
 とはいえこの日はすでに「根古屋城」にて大方の探訪時間を消費するとともに、あわせて貧弱な体力も青信号点滅状態に。このため時刻は既に午後2時30分で、ルート不案内な岩場が存在する難路を行くには些か微妙な時間帯に突入。けれどもここで行かねば何時行けると、頭上の武甲山稜線に沈むであろう太陽の現在位置などの諸事情を勘案し決然と探訪を敢行。かくして儀一殿のご教示どおりにセメント工場脇に所在する送電線の保守管理用の山道から入山。

 地形図からの情報から比高差は約220メートルで根古屋城(机ノ城)の約2倍ほどの規模。己の体力並びにその他の条件から、城跡の所在する山頂までの所要時間は休憩含めて凡そ50分程度と推定。ところが、いきなりの急登の連続に忽ち呼吸が追いつかず、加えて根古屋城めぐりで既になかば無力化した状態の両膝を抱えていたため3歩進んでは小休止の繰り返し。
果たして山頂まで行き着けるものであろうかと我ながら不安が頭をよぎり始め..それでも登り始めて30分ほどで漸く西側からの尾根筋と合流。ここで念のため下り道の目印をマーキングさせていただくことに。
 ふと目の前に広がる尾根筋の急坂を見上げると、右手前方の疎林に何やら切り立った巨大な岩塊が見え隠れ。山道から右手方向に幾分ずれていることから、このままごく普通の岩尾根が続く程度と思いきや、無情にも山道は真正からその岩塊に進路を阻まれ、結局は比高差約15mの岸壁を登りつめる羽目に。高所恐怖症気味の方の場合には些か無謀かと思われる地形のような趣も。若い時分の僅かばかりの夏山登山での岩稜歩きの経験が生かせるかどうか極めて微妙な状況。まずはとりあえずデジカメなどの荷物をザックに一纏めにして身軽に。また岩を掴むような登攀が予想されるため厚手の作業用手袋を装着。昨日の降雨の影響による落石・浮石などに注意しつつより慎重な行動パターンに切り替え。カラビナ、、50mザイルなどは予め用意していたものの、概ねこの程度ならば下山さえ慎重に行動すればほぼ不要と判断。

 然し肝心のこういう時に限り、何と常用の標準小売希望価格1万6800円也のトレッキングシューズを自宅に置き忘れてくるという不始末。従って本日は遥かに摩擦係数が劣る安物の予備の方にて(多分半分の値段)。途中で落下すれば生命の危機は別としても、間違いなく行動不能状態に陥る危険が濃厚。以前のように両膝が完調なれば問題なく這い上がれる自信があるものの、今や三重・四重サポーター装着の身なれば片足で全体重を支えることも儘ならず、80cmほどの岩場の段差を登り切るのも一苦労。
 そうしたなか登攀すべきルートを取違え岸壁の中腹で一時フリーズ状態に突入。右ひざを踏ん張り足場を確保すれば良いだけのことであるにもかかわらず、たったこれだけのことさえ思うに任せぬ我が身の腹立たしさ。それでも何とか横へ横へとトラバースして当面の危機を脱出し、山岳信仰や民間信仰関係の石碑が点在する危なげな斜面を経由したのちに漸く西側の郭へと到着。幾分不測の事態が発生したものの、ここまでの所要時間は予想通りの50分少々。

 西郭
 さて標高480mほどの西側の郭は思ったよりも平坦に普請?され(元来の自然地形である可能性もあるような)ているという印象で幅5m弱、長さ40mほどの細長い地形。しかし小屋を建てるには余りにも幅が狭く不便な印象が濃厚。この西郭から北側方向に2段ほどの半円形の規模の大きな腰郭が所在するものの、元来が急傾斜の尾根筋のためその積極的な存在意義に大きな疑問も浮上。いずれにせよ登攀ルートは東西方向の尾根筋のみで、南北方向からのアプローチは絶対に不可能な傾斜角度50度以上の急勾配の斜面。加えてその西側の直下には高さ15mほどの岸壁が屹立し、その存在だけで防備はほぼ完璧かと推察する次第。

 東郭
 小さな堀切を挟んでヤセ尾根上には概ね同様の規模で多少幅の広い東側の郭が所在。小屋がけの利便性のみで考えれば、この東側の郭が主郭に相当するのかとも。さらにその東側には幾分大きめの堀切が普請。また些か驚いたことには、東側の郭上には「町指定の文化財」の標柱が所在。まさかこのような山頂にて本格的な文化財標柱に出会えるとは感激の至りにて。この標柱など設営道具一式を背負って、あの完璧な岩壁を登攀された方にただただ敬服する次第。
 
 遺構と呼べるものは以上のみで、堀切などに伴う「竪堀」は確認できないというよりも、寧ろ南北方向の斜面が急勾配のためそのような必要が全く無いという状況かと推察。
さてそうした中「水の手」はというと、稜線付近には湧水の可能性は考えられず、恐らくは急斜面の中腹や谷川の源頭部などと推定を。
 さて、帰路は岩場のルートを間違えることも無く所要時間35分ほどであっという間に下山を完了。なお、問題の岩場には太めの針金を巻きつけた形跡が残されておりましたので、やはりこの個所の上り下りには苦労されたのかもしれず。途中左膝に激痛が走るも装着しているサポーターのお蔭で何とか無事に車まで帰還。膝の限界を痛切に思い知った探訪と相成共、久方ぶりに達成感に包まれた至福の訪城となった次第。

クリックで拡大します
西側からの古御嶽城遠望
( 2007/03/26 撮影 )
訪城アルバム
古御嶽城の登り口画像
ごく普通の尾根筋の画像
凸1 登り口
 一見するとごく普通の登山道のようにも見えるのですが、実際には送電線保守のための専用ルートであると思われます。
 登り口 の案内図 地図サイトいつもガイド
北西麓の八坂神社と猿田彦神社(右)の画像へ(古御嶽城への谷筋からの登攀ルートのひとつと考えられ「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、何らかの防備がなされたとの伝承に関する記述がみられます)
凸2 普通の尾根筋
 この辺りはハイキングコースではないものの、ごく普通の尾根筋。然しこの少し先の個所で右側からもう一本の尾根筋(別途道はありますが距離の短い分だけ傾斜がこちらよりも急勾配)が合流し、尾根筋を登りつめるとやがてその行く手には些か当初の予想を超えた岩壁が立ちはだかるのでありました。


木立の中に見え隠れする岩場
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凸3 岩場
 2つの尾根筋が合流した辺りから次第に山道は傾斜の度合いが厳しくなり、その行く手の右側には単に眺める分には格好の切り立った岩場が見えてきます。この辺りまでは他所ごとのように、まさかこの岩場そのものを登攀することとなろうとは思いもよらず。

岩場の画像へ(向って右手から回り込むのがベター)
岩場の画像へ(ハイキングコースならば鎖場かと)
漸く岩場を突破 取敢えず人心地、しかし帰りが..
 
凸4 山岳信仰の石碑
 岩場の麓やその上の尾根筋には様々な山岳信仰・民間信仰関係の石碑が林立。その方面の関心も無くはないものの次第に余裕がなくなってくるのでありました。この比較的新しい石碑の所在する個所で安全な山道は消滅し、ほぼ行き止まりのような状態になります。一瞬ここが古御嶽城かも知れないなどと淡い期待を抱きましたが、資料や地形から判断すればそうでないことは明確。これから先は文字通りの自己責任による岩壁登攀となるのでありました。
石積みの小口には非ず(石碑の礎石部分と推定)


画像クリックで西郭北側の腰郭画像へ
画像クリックで少し西側からの拡大画像へ
凸5 養蚕大神の石碑
 養蚕の盛んな土地柄を示す民間信仰の石碑。ここまで来れば間もなく西側の郭へと到達します。

⇒画像クリックで西郭北側の2段から3段ほどの腰郭の拡大画像へ
 北側に僅かに張り出す稜線も冒頭の画像のように谷底からの傾斜は十分過ぎる程にあるので、この腰郭の普請が疑問に感じられるほど相当に用心深い性格の縄張です。
凸6 西郭
⇒画像クリックで少し手前からの拡大画像へ
 
 西郭は幅5m前後、長さ40mほどの東西方向に細長い形状で、南北方向の斜面は人工的に切り落とされた感のある急斜面を形成。また西側は先ほどの岩壁を有する地形。このため安全に接近するとすれば東側の尾根伝いから接近する以外には方法がなさそうです。

画像クリックで拡大します
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凸7 西郭と東郭の間の堀切
 明確に岩尾根を穿った形跡の堀切部分で、堀切の深さは現状でも左側で約2m、右側で約1.5mを測ります。この堀切から東へ25mほど尾根筋を進むと右側画像の東の郭へと到達します。西郭と概ね同様の規模ですが場所により多少幅の広い個所を有する東側の郭が所在。
小屋がけの利便性のみで考えれば、この東側の郭が主郭に相当するのかもしれません。
さらにその東側には幾分大きめの堀切が普請。

西郭と東郭の間の痩せ尾根  25mほどの長さ
東郭の西側手前部分
凸8 東郭の文化財標柱
  些か驚いたことには、東側の郭にこのように立派な「町指定の文化財」の標柱が所在。まさかこのような峻嶮な山城の山頂にて文化財の標柱に出会えるとは感激の至りにて。この標柱など設営道具一式を背負って、あの完璧な岩壁を登攀された方にただただ敬服を。
 なお、この標柱を設置したのは地元の高齢者事業団の方々との情報を得て2度吃驚。我が身の不甲斐無さとこの地の年配者の方々の強靭な足腰に敬意を表するのであります。こちらの方が西郭よりも標高が4mほど高いことから主郭としてとらえることが妥当かもしれません。

東郭  石碑の礎石部分のみが東側へ張り出しているため、結果的に横矢の構造となっているようにも見えます。
東郭御岳講石碑群

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凸9 東側の堀切
 東郭から東へ25mほど下るとこの堀切部分に到達します。「7」の堀切部分よりも明らかに自然地形を生かしていることから規模が大きく感じられ、完全に尾根筋の鞍部を断ち切るという役割を果たしています。
⇒西側の尾根筋上から眺めた東側堀切
東側の堀切から眺めた大机山方面
凸10 東郭北側斜面
 この近辺の斜面は下るというよりも滑落するといった方が正解で、無事に下ることも上ることも不可能な傾斜を有しています。
東側の堀切下部から見上げた東郭  堀底からは10mほどの比高差を有しています。
 仮に天狗沢から方面から遡及して古御嶽城を目指すとすれば、左側画像の堀切付近を目指すか、西郭北側の腰郭の急峻な尾根筋に取りつくかの二者択一。

画像クリックで拡大します
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凸11 武甲山
 南東側の生川対岸には武甲山の稜線が大きな壁を形成するように聳え立っています。古御嶽城の西側は岩壁、南側も急斜面。古御嶽城に攻め登るとすれば猿田彦神社の辺りから天狗沢沿いに南東に向い谷筋を遡上して東側の堀切を目指すのが常道かと思われます。
凸12 古御嶽城と大机山
 地形図などで見るよりも大机山との間に大きな鞍部が形成されているように見えてしまいまが、しかし実際には堀切部分は古御嶽城の稜線の陰になっているために発生する地形上の錯覚のようです。
 あくまでも大机山の山頂部分から西側に派生する細長い尾根筋が大きく落ち込む先端部分に普請されているのでありました。
古御嶽城遠望
古御嶽城遠望


交通案内

・生川橋手前を左折し秩父石灰工業の先を右手の尾根筋から登る。
・上り約40分、下り約30分、麓の公道から比高差約220m、根古屋城(机ノ城)の倍の比高差を有する要害堅固な山城。
・ただし西郭西側岩壁の登り降りには注意が必要
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 横瀬村の項に「小御嶽(古御嶽城を指すものと理解) 武甲山の東北にあり、生川を隔てて一区の山岳を形成し、雑木が生い茂る険阻な地形である。その道は狭い山道で棘に塞がれた険しい九十九折りの坂が続く。およそ10町ばかりを経て頂上に到着すると百坪ほどの平坦地が所在しその辺りは岩場であり松が多く茂っている。そこから峰伝いに南東の方角に向って次第に10町ほど登っていくと大机山に至る。この間に堀切が3か所ほど所在し、この城址の由来は地元の伝承によれば上杉家の臣永田外記というものが居住していたとのことで、字中野という場所で討ち死にしたといわれている」と記されています。
 あくまでも古文書などの史料的な裏付けの無い伝承に過ぎませんが、根古屋城(机ノ城)などの上杉憲政の伝承等と符合している部分もあります。なお、古御嶽城への山道が稜線伝いのものを指すのか、天狗沢(要害澤か?)からの谷筋の道を指すのかは明確ではありませんが、いずれにしても古御嶽城までの距離と大机山までの距離は明らかに過大に記されており現実にはそれぞれその半分ほどの距離に過ぎません。こうした誤解は恐らくはその地形が険阻であることによるものと解されます。
 
 また同村の項の続きである「要害澤」の個所にはなかなか興味をそそられる次のような壮大な記述もみられます。
 「要害澤 古御嶽の麓で東の方角の澤を云い、永田氏が小御嶽城に居城していた時に警備した場所であるといわれている」 ⇒ この「要害澤」の記述については、地形的な条件から推定した場合には現在の猿田彦神社(神楽などでは天狗の面をつけて舞うのが通例です。こうしたことから天狗と同一視されることの多い神)の小祠が所在する天狗沢のことを指すものと考えられます。現在でも祭礼の際には西側の岩壁を通過することなく、古御嶽城北側の沢筋から登っていくとのことで、その意味からも防御する必要性を有する場所であると考えることができます。
 これに続いて、机平 これより東に続き机平という場所があり、登りは1町ほどで1町四方の平坦地があり周りは雑木に囲まれている」 との記述があります ⇒ 古御嶽城の北側に所在する天狗沢対岸に地形上からは2か所ほどの候補地が想定されますが、現状では残念ながら未確認のままです。
 さらに続いて天王 これより3町ほど南の方へ登り杉の木に覆われた所に僅かな平地が所在し、石垣の上に天王の小祠がありここを登れば前に記した大机山に至る」 ⇒ 八坂神社の祭神でスサノオノミコトにも喩えられることの多い牛頭天王と推定され、因みに天狗沢の下流には猿田彦神社と並んで八坂神社の小祠も祀られています。
 続いて「愛宕社 さて机の平より一の澤を隔てて、北東の方角の所から1町ほど登ると200坪ほどの平地があり、松の木とともに愛宕社の小祠が所在する。ここから次第に稜線伝いに上ると同じく大机山へと至る。ここから一の澤(恐らくは「城谷澤」の誤りか)を隔てて根古屋の城址が所在する。考えるに、昔は何某かの居所であり本城を机の平に構え2の丸は愛宕祠の所在する辺りで、3の丸は根古屋(根古屋城とは別の個所を意味するものと考えられます)の辺りで、その間の渓谷に跳ね橋などを渡して通行できるようにしたと推定される」との記述があります。
 この記述をそのま信用すれば根古屋城(机ノ城)の規模をはるかに超える馬蹄形の巨大な山城が構築されていたとの解釈になりますが、情報不足のため地名と現地の地形についての絞り込みができておりませんので何とも言えないところです。想像上の産物と片付けてしまえばそれまでのことではありますが、ただ両城の中間に所在する並行する2本の稜線上には山城として中世城館に相応しい地形が多いことも事実で、一時的に物見砦のような施設が存在しても不思議はないものとも思われます。
 この他にも、桂淵 生川の水路、小御嶽より北西の麓にあり、この淵は小御嶽落城の時桂前という婦人の溺死した所であるという村人の伝承がある」責淵 この淵も桂淵より少し下流にあり、ここも落城の時城兵等が立て籠もった籠った所である」などの伝承などには事欠きません。しかし、これらの伝承が天文年間から天正年間のいずれの頃のエピソードであるかについては今となっては知る由もありません。(以上文意を略述し適宜見出しを付してあります)

■武蔵志
 横瀬村の項、古城址などに古御嶽城の記述は見られません。また「増補秩父風土記」にも該当するような記述は確認できません。

秩父郡誌(大正13年(1924)12月4日初版、昭和47年(1972)6月名著出版より復刻)
 横瀬村の項に「生川は..武甲山麓より発し古御嶽城の裾をめぐり横瀬川に入る。城址の西北生川の水路に桂淵あり。古御嶽城陥落に際し桂ノ前という婦人が入水したことから名付けたという」との伝承が記されています。この桂淵の所在地については「新編武蔵風土記稿」の横瀬村根古屋城・古御嶽城の挿絵図にも記されています。
 また古御嶽城については、「当村の南方にあり。天文年間上杉憲政の臣永田外記の築いたところであるといわれている」と明記されていますが、こうした記述はあくまでも「新編武蔵風土記稿」の記述を引用解釈したものであると思われます。

(−一部の表現を現代文風に変更−)

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)・「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「増補秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より) 

・2007/08/30 HPアップ
・2007/08/31 誤字・字句などの訂正
・2007/09/05 登り口案内を追加

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