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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/02/22の日記  2006/02/27の日記 寺山砦 竜ヶ谷城 秩父氏館(鳥方城)
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象4 総合28
所在地
埼玉県秩父市下吉田字小暮3281から3309
歴史と沿革

歴史的な経緯は全く不詳
 「秩父・中世吉田の城'01」(2001/吉田町)、「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)などによれば、「平成11年に新たに確認された城郭で、築城は長尾景春の乱の起きた15世紀後半で、後北条氏の支配した時代まで継続した」という可能性を示しています。「新編武蔵風土記稿」や「秩父志」などの近世の地誌にも全く記述がなく、その伝承さえも残されていないという謎の城郭です。

確認できる遺構
土塁、小口?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■東西100m、南北50mから70mほどの長方形の台地上に所在し、台地続きの西側部分以外の三方向を深い谷が囲む地形。遺構としての土塁は北側の台地辺縁部分を中心に高さ1mから2m、総延長にして130mほどの規模が残されている模様です。また、秩父氏館と規模こそ異なるものの極めて類似性のある地形上に立地しています。
 秩父氏館との距離の近さを考えると、やはり秩父氏に関係する城館のひとつであるとともに、後北条氏の戦国時代においては更に南に所在する奈倉館との間を繋ぐ役割も担っていたものとも考えられるのですが。 

文化財指定
訪城年月日
2006/02/22
訪城の記録

( 2006/02/22 )
20年以上前の記憶
 「釜の上」という地名と台地上の周辺の景観に見覚えがあり、よくよくおぼろげな記憶を辿るとやはり20年近く前に幾度か度ほど「ぶどう狩り」に来ていたことを思い出しました。この小暮城跡はなんとその場所から僅か南へ600mも離れていない場所に所在していることに改めて驚きと感慨が。城跡へは西側の台地続きに所在している自動車修理工場の方からも行けそうでしたが、人気のない北側の沢に架かる橋から失礼しました。ただし、橋が架かっている個所は郭内部でも道路となっているため残念ながら北側の土塁はその部分でぷっつりと切断されていました。
 しかし、何分にも立ち枯れの草丈が高く、また池などの湿地帯もあちこちに点在しているので迂闊に枯れ草の中に踏み込めず、墓地の所在する南側の行き止まりの通路まですすんで再び丈の高い枯れ草や笹薮に視界と進路を阻まれ退却。
 さて、この城跡に関してはまず城跡とは無関係の2つの疑問が。ひとつは郭内には墓地とかつての耕作地しか所在しない状態であるにも拘らず、立派なコンクリート製の橋が架けられていること。もうひとつは西側の台地続き以外は深さ十数メートルほどの深いい谷が刻まれ、さほどの広さがあるわけでもないにも拘らず台地上は水が豊富で池などの湿地帯が所在していることです。
 もっとも、城跡そのものと思われるような土塁が台地の辺縁部分に明らかに所在しながら、その事実がごく最近まで明らかにはされてこなかったこと自体も大きな謎のひとつですが。

( 2006/02/27 )
再度突入するもまたもや失敗に
 前回余りの枯れ草や笹薮のため奥深く立ち入ることができなかったことなどもあり再訪した次第です。しかし、今度も笹薮と枯れ草に加えて荊や桑の枝に進路を阻まれ、古墳とされる高さ3mほどの塚の上まですすんでみたものの見通しはさほど変わらず、更に前日の雨の影響で足元はグズグズの状態に。このため結局は北側の谷の様子を確認できた程度で、実際には余り得ることもなくふたたび退却の憂き目に。それこそ所有者の方に許可をいただき大規模な草刈でもしないことには、とても遺構全体を目にすることはできそうもありませんでした。

記念撮影




 南側の前の沢の湾曲部分は谷幅も30m程度に狭まり、谷の深さも7、8mぐらいとなり要害としての要素は減じられますが、「秩父・中世吉田の城'01」(2001/吉田町)ではこの湾曲部付近に小口が形成されていた可能性を示しています。(写真左側が郭内)

( 2006/02/27 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■城趾にかかる兎田橋
 幅6m、長さ50m程のコンクリート製の立派な橋ですが、この先にはかつての桑畑などの耕作地と墓地が所在するだけです。この下の谷川の名称が土橋沢という名称なので、かつては簡易な土橋が谷底に近い低位に架けられていたものと思われます。
■2■土塁の断面
 「1」の橋を渡りきった両側に土塁の断面がぽっかりと口をあけていました。この写真のものは「1」の写真の向って右側の部分に相当します。このあたりの土塁の高さはおよそ1m前後ですが、旧吉田町が作成した「小暮城跡実測図」によれば50mほど西側の個所では高さ2mを超える個所もあるようです。
■3■西側から郭内を撮影
 以前は一部畑などがあって耕作されていた模様ですが、現在はこのように笹薮と枯れ草が蔓延り、湿地帯なども点在するため迂闊に踏み込めませんでした。なお、正面の山は城館跡とは関わりのない標高320メートルほどの浅間山(せんげんやま)あたりかと思われます。
 山の手前に見える茂みは直径20m高さ3mほどの富士塚と呼ばれる古墳で、吉田町の資料によれば西側の台地続きを地形的に区切る土塁の代用の役割を果たしているとされています。。
■4■北側の土橋沢対岸からの様子
 肉眼ではだいたい土塁状の高まりが確認できるのですが、写真にするとこんな次第で、土塁など存在しないという前提で見ると確かになかなかそれとは分かりません。
■5■城跡の北東の角部分(土橋沢)
 谷川が城跡の西側を蛇行しているのがはっきりと確認できます。このあたりの谷の深さは目測でおよそ15mほど。また谷幅は橋上で歩測してみたところでは、大体40mから50mぐらいはありました。
交通案内

・秩父氏館の南1.5キロの県道283号線沿い東側で、西側の台地続きには自動車修理工場が所在。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)、「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「皆野町史 資料編3」(1981/皆野町)「増補秩父風土記」を所収、「秩父・中世吉田の城'01」(2001/吉田町) 

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