( 2007/03/04 )
凸 台地先端部の屋敷・館跡
台地の東部の北端に所在し、現在は関越自動車道嵐山小川バイパスの開通に伴う国道254バイパスとの連絡道路がすぐ北側を通過。このため元来の地形がかなり掴みにくくなっていることは否めませんが、以前は麓との比高差約5m(水田面からは約10m)ほどの台地として存在していたことが窺われます。宅地開発に伴う発掘調査により、縄文・弥生・古墳時代の遺物とともに中世末期から近世初期と推定されるL型の溝に区画された掘立柱跡、井戸跡、志野焼の焼物類が確認されているとのことですが、堀跡が検出された個所にはすでに住宅が所在しています。このため周囲の道路からちらりと拝見するにとどめて、以前の台地先端部全体の地形を想像することと相成りました。また当該地域には「屋敷跡」としての伝承が残されているとのことからも、村落の有力者階層の居館・屋敷としての存在を想定することは至極妥当であると考えられます。
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堀跡が確認された台地(右側)と越畑城方面
( 2007/03/07 撮影 ) |
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凸1 杉山城
「日向遺跡」の台地は、この杉山城から直線にして西側僅か900m付近に所在しています。
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凸2 杉山城の郭跡
南西方向に視界が開けているのは2ヶ所であることから、井戸跡上部の井戸郭さもなくば北2の郭付近かと思われますが些か心許ないのであります。
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凸3 左側の台地に堀跡が
写真手前が関越自動車道嵐山小川ICで、この道路を進むと国道254線小川バイパス中爪交差点の丁字路に行き当たります。付近の小字名には「馬戸場」(的場?)、榎戸などの中世城館との関わりの深そうな地名が現存しております。
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凸4 おおむね堀跡が所在した辺り
「発掘調査報告書」を見る限りでは左側が延長約25m、右側が約40mのL字型を形成することから、本来は方形の屋敷の構堀のようなものであったものと推定されます。
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凸5 比高差はおよそ5m
現状ではこの辺りで比高差5mほどの地形ですが、国道254線小川バイパスと関越自動車道の嵐山・小川ICとの連絡道路の建設により、道路の拡張や地下道の整備などが急速にすすみその景観が著しく変化していることから旧情を想像することは最早困難と化しているようでありました。 |
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凸6 東側から眺めた日向遺跡台地
水害の不安もなく、かつ市野川右岸に所在していたと推定される中世の集落群を俯瞰するには十分すぎるほどの比高差を有しておりました。
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凸7 遠ノ平山方面
南側に所在する宝城寺・志賀神社の裏山(写真左、標高128.7m)および遠ノ平山(右、標高200m)方面で、いずれも中世城館の立地条件に相応しい雰囲気の地形なのでありました。
なお、嵐山町の「遠道遺跡」(発掘調査により中世の館跡としての可能性が指摘)は写真左側の山の反対側の南麓に所在しています。
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凸8 ふたたび杉山城
日向遺跡の所在する台地東側の麓の水田地帯からも、このように杉山城をはっきりと肉眼でとらえることが可能な位置関係にあります。越畑城とともに何らかの歴史的な関係がありそうにも思えるのですが、具体的なところは委細不詳。
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・国道254線中爪交差点より東へ約900m。
・いつもガイド の案内図です
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凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
比企郡中爪村の項に屋敷跡などについての具体的な記述はありません。
■武蔵志
中爪村の項に「古城 連山の頂にあり 庄主水と云人住しとも..」との記述がありますが、「越畑村」に所在する越畑城に関する記述部分とその文面がほぼ同一であることから恐らくは誤って転記したものと推定されます。
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凸主な参考資料
「小川町の歴史 通史編上巻」(小川町/2003編集発行)
「小川町の歴史 資料編2古代・中世1」(小川町/1999編集発行)
「小川町の歴史 資料編1考古」(小川町/1999編集発行)
「小川町の文化財」(小川町教育委員会/2001年編集発行)
「町内遺跡発掘調査報告書7」(2001/小川町教育委員会)
・2007/07/23 HPアップ
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