( 2006/03/31 )
凸河岸段丘の崖地とクランクした形状の道路
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中村氏館と同様に秩父市内の荒川東岸の河岸段丘上に所在しますが、勿論こちらも河岸段丘の地形以外には城館跡であることを示すようなものは残されてはいません。ただ、少しだけ異なる点があるとすれば河岸段丘の斜面の一部が自然地形に近い状態で残されていることと、北辺の道路部分が不自然なクランク状の曲折を見せてい.るということでした。
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上の場所と同じ個所を南側から見たもので、河岸段丘の崖地を削平したものと思われる駐車場や工場の敷地となっているようです。辛うじて遺されている比高差5mほどの崖地の形状以外には城館の存在を感じさせるような要素を見出すことはできませんでした。
( 2006/03/31 撮影 晴れ )
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■1■伏栗城の南側付近
県道208号線が東へ一直線に伸びて、丹党中村氏がその造営に大きく貢献したとされる秩父神社や秩父駅へと向かっています。かつての秩父大宮郷の中心へと続く往還の一つであったと思われます。
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■2■秩父ハープ橋
城館めぐりとは全く無関係ですが、荒川の西岸から秩父ハープ橋と呼ばれる近代的な吊橋。対岸とのかなりの高低差を有する巨大な吊橋のたもとから眺める武甲山はなかなかの絶景です。伏栗城の位置はこの橋を渡った道路の左側あたりになります。
僅か120年ほど前の明治17年11月に発生した秩父事件では、このすぐ近くの「武之鼻の渡し」から荒川を渡河した秩父困民党の一隊が、当時の秩父郡の中心であった大宮へ侵攻し郡役所を占拠しました。
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■3■秩父の名峰武甲山
秩父市内の各所から眺めることのできる秩父地方の象徴的存在である武甲山です。この秩父ハープ橋のたもとからの眺望も見事ですが、石灰岩の採掘により年々その姿の痛々しさが増しているように思われます。
秩父市内から眺める山容が大きく変わり始めたのは1960年代からで、丹党中村氏が活躍していた時代には、当然のことながら現在のような大掛かりな採掘などは行われず、今頃の季節に相応しい新緑の鮮やかな山肌を見せてはじめていたものと思われます。
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・県道208号線北側の秩父市立病院の南側付近
・いつもガイド の案内図です
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凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、
「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本)
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
「秩父丹党考」(1991/井上 要/埼玉新聞社)
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