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関連ページへのリンク  2006/05/08の日記 三ツ木城 伝安達盛長館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態2 探し易さ4 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合24
所在地
埼玉県桶川市末広2丁目
歴史と沿革

足立氏館跡の伝承と館跡の存在
 「桶川市史」によれば現在は消滅した通称一本杉と呼ばれた老木の辺りに文化6年に再建された足立遠元の館跡であったことを伝える石祠が所在していたということです。また同所において板碑が確認されていることから館の墓地であった可能性が指摘されています。その本拠地であったかどうかは別にして、これらの事柄から鎌倉時代の初期に活躍した足立右馬允遠元( あだち うまのじょう とおもと )を中心とする足立氏に関連する館の一つであったことは恐らく間違いないものと思われます。
■足立氏について
 本拠地とされる館跡はその支配地域であった桶川市・旧大宮市などを中心として何ヶ所か存在し、鎌倉の有力御家人である安達氏と同族という説もあります。しかし一般には武蔵国足立郡を本領とする地方豪族であるとの説が有力なようです。足立遠元の時には平治の乱で敗れた源義朝方に加わったために一時は零落を余儀なくされましたが、その後源頼朝の旗揚げに際して武藏の武士としてはいち早く頼朝に従い、鎌倉幕府成立後は東国武士として唯一の公文所寄人となり文武兼備の宿老として重きをなしました。 しかし、弘安8年(1285)霜月騒動において、当主の足立直元は敗北した安達泰盛方についたため本領である足立郡の所領を失いその嫡流は没落しました。
 一方傍流の孫である遠政は丹波国氷上郡佐治郷に所領を有しその家系は戦国時代の末期まで勢力を維持しましたが、天正7年(1579年)の織田信長の丹波侵攻のため居城山垣城を羽柴秀長・明智光秀の軍勢により攻略され滅ぼされました。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■「桶川市史 第3巻 古代・中世資料編」によれば、旧耕地名を「小山」と呼ばれた桶川市総合福祉センター一帯の殆ど平坦な住宅地で、昭和30年代頃には幅1m深さ最大2m程の規模の堀跡が存在していたと記されています。したがって、館跡に繋がる遺構が存在していたことは確かなようですが、いずれにしても直接足立氏に関わるものと云うものよりも、一般的には後の戦国時代の在地領主のものである可能性の方が高いものと思われます。

文化財指定
訪城年月日
2006/05/08
訪城の記録

( 2006/05/08 )
石碑のみが館跡の存在を示す
 倉田氏館の途中から霧雨は次第に小雨に変わり始め、このためやむを得ず訪城計画を縮小することに。そのような事情で、おそらく館跡の石碑以外にはなにもなさそうなこの場所を敢えてこの日の最終目的地に選定。傘を差しながら動き回るのも面倒なので、ここは素直に車を停めた館跡と推定されている桶川総合福祉センターの敷地内の市の教育委員会で「石碑」の所在地を確認。するとなんと石碑はすぐ隣の総合福祉センターの建物の脇に鎮座しているとのご回答が。ご多用の中を現地までご案内もいただき、この場をお借りしてあらためて感謝申し上げる次第。さて記念撮影を敢行すべく碑文の文面をよく読んでみると、「往時の館跡の伝承を今に広め後世に伝える」というような趣旨で桶川市により建立されたとのこと。期せずして自分のHPの趣旨とも符合していることに思い当たったという次第なのでありました。伝承が次第に消滅したとしても、確かにこの石碑があれば館跡の存在の傍証となることは間違いなさそうです。

記念撮影
クリックで石碑裏側の解説へ

 1983年に個人の篤志家の方の寄付により、桶川市の教育委員会が建立した「伝足立右馬允遠元館跡碑」と刻まれた石碑。表側の揮毫は当時の桶川市長によるもののようです。石碑の解説によると館跡の伝承が消滅していくことを憂いて建立した旨が刻まれています。ちなみに石材業者名は「新編武蔵風土記稿」の加納村に記されているこの地域の旧家の姓と同じでした。
 なお「一本杉」と呼ばれた古木は、この石碑の奥の白い建物のあたりであったということです。(2006/05/29追記)
                   画像クリックで石碑の裏面へ

( 2006/05/08 撮影 小雨 )
訪城アルバム
■1■桶川市総合福祉センター
 この桶川市の中核施設の周辺の道路は宅地化に伴う新しいものなのですが、異常とも思えるほど幅員が狭くて2度ほど曲がるべき路地を行き過ぎました。念のため堀跡との関係があるかどうか小雨の中を傘も差さずに少し歩いてみましたが殆ど無関係のようでした。
交通案内

・国道17号線北東側、桶川市総合福祉センター・教育委員会の敷地に上記の石碑が所在。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類記述の状況
「新編武蔵風土記稿」
 桶川宿の項に「旧蹟 屋敷蹟 足立右馬允が居住のよし 今は林となれり その中に石の祠立れども 文字なければその由を知りがたし 昔 屋敷跡と思しき所より武器陶器など掘り出せしこともありという...」と記されています。この記述がこの館跡に関するものと考えられているのの、足立氏の館跡としての存在はあくまでも伝承の域を出るものではないということになります。しかし、この館が足立氏の本拠地であるかどうかは別にすれば、足立氏に関連する館跡の一つである可能性はけっして低くないものと考えられます。
「武蔵志」
 「足立右馬允藤原遠元 桶川駅の地神明の傍にあり、地形今存」
とのみ記されていますが、この記述については桶川市内のもう一つの足立氏の館跡推定地である「JR高崎線沿いの神明の地」である可能性が高いと考えられます。
凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「桶川市史 第3巻 古代・中世資料編」(1985/桶川市)
「桶川市史 通史編」(1990/桶川市)
「武蔵武士(下)」(2004/成迫 政則著/まつやま書房)足立氏関連の館跡と丹波の足立氏の足跡などが詳しい。 
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