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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/11/21の日記 伝源経基館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態2 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合22
所在地
埼玉県鴻巣市糠田
歴史と沿革

安達藤九郎盛長の館跡との伝承があるものの
 「鴻巣市史」によればこの付近の館跡の主については足立郡糠田(鴻巣市糠田)を本領とする在地領主奴加田氏を比定しています。
 平重衡により灰燼と化した南都の諸寺が再興され、大壇越としてこれを援助した源頼朝は建久6年(1195年)3月10日の東大寺の大仏殿落慶供養会に参列するために南都に赴きました。「吾妻鏡」によれば、畠山重忠・和田義盛を先頭とするこのときの随兵に奴加田太郎の名前が記されています。また、この行列には上記の安達藤九郎盛長、あるいは足立左衛門尉遠元も同様に含まれています。

■安達氏について
 藤原北家魚名流とされる安達氏は陸奥国安達郡と関わりがあるとされ、盛長の時に安達氏を称しました。盛長(1135-1200)は頼朝の乳母比企尼の娘婿で頼朝の挙兵の当初からこれに従いその功により元暦元年(1184年)上野国奉行人となり、三河守護も歴任しました。頼朝の死後出家して蓮西と号したが将軍頼家のとき御家人の訴訟を扱う13名の有力御家人の一人となり鎌倉幕府初期の政権安定に貢献しました。しかし、3代後の泰盛(1231-1285)のとき北条家得宗の外戚として幕政の中心を占めるものの、内管領平頼綱と対立し謀反の疑いにより一族は滅びました(「霜月騒動」)

■足立氏について
 本拠地とされる館跡は桶川市などに何ヶ所か存在し安達氏と同族と云う説もあります。しかし一般には武蔵国足立郡を本領とする地方豪族であるとされています。遠元の時には平治の乱で敗れた源義朝方に加わり、その後源頼朝の旗揚げに際して武藏の武士としてはいち早く頼朝に従い、鎌倉幕府成立後は東国武士として唯一の公文所寄人となり文武兼備の宿老として重きをなしました。
 しかし、上記の霜月騒動の時に当主である足立直元は安達泰盛方についたため足立郡の所領を失いその嫡流は没落しました。一方傍流の孫である遠政は丹波国氷上郡佐治郷に所領を有し戦国時代の末期まで勢力を維持しましたが、天正7年(1579年)に居城山垣城を羽柴秀長・明智光秀により攻略され滅ぼされました。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■荒川の自然堤防と思われる微高地に所在し、東南東1.5kmには「伝源経基館」があります。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「鴻巣市史 通史編1」(2000/鴻巣市)
「鴻巣市史 資料編1考古」(1989/鴻巣市)
「鴻巣市史 資料編2古代・中世」(1991/鴻巣市)
「武蔵の武士団」(安田元久 著 1984/有隣堂)

文化財指定
訪城年月日
2005/11/21
訪城の記録

( 2005/11/21 )
安達氏、足立氏そして奴加田氏
 伝源経基館からこちらまでの道が地図上では直線にして1.5kmほどなのですが、その道のりが結構分かりづらくて2度ほど間違えつつ漸く到着。館跡と推定される場所の中心部に位置すると思われる放光寺には安達藤九郎盛長の復元された墓所を見学できると共に埼玉県指定文化財の盛長の木像も所在ししています。また館跡の南側の荒川の堤防沿いには氷川神社の境内があり二、三百年以上はありそうな樫、欅、銀杏、樅などの巨木に囲まれ館跡との直接的な関わりは不明なものの歴史を感じさせる落ち着いた佇まいを見せていました。
 しかし、本来の館跡とされているところはもう少し西よりの荒川の河川敷の中のようで、「鴻巣市史」では足立郡糠田を本領とする在地領主である奴加田氏を比定しています。

記念撮影



 「安達公の墓所」という石碑や墓所の由緒が刻まれた石碑が設置され、しかも礎石部分や囲石などについては昭和58年に当時の伊豆修善寺町に所在していたものを移設したものだそうですので、結果的には伝承を事実が追いかけるような具合になっているようにも感じました。

 
( 2005/11/21 撮影 晴れ )
訪城アルバム
画像クリックで方光寺の解説版へ
■1■
 鎌倉の有力御家人の一人である安達藤九郎盛長が開基と伝わる方光寺ですが、安達盛長と伝わる坐像(埼玉県指定指定有形文化財)も所在していることから、そうした伝承と史実の区別がつきかねるところです。
■2■
 銀杏、けやき、モミ、樫などの大木が鴻巣市の保存樹木に指定されている氷川神社。
画像クリックで二礼・二拍手・一礼へ
■3■
 館跡とは直接の関連がなさそうではありますが、方光寺の南側の荒川の堤防近くに所在している氷川神社の社殿。摂末社も多く社務所・神楽殿も所在していますが少し寂しげな印象です。人家も近いのですが日中にも拘らず全く人の気配が感じられず静寂の時がゆったりと流れていました。
■4■
 「鴻巣市史」によれば、奴加田氏の館が所在していたと推定されている方光寺の西側に広かる荒川の河川敷。
画像クリックで神社の解説板へ
■5■
 氷川神社の細長い参道。両脇には古塚などの地面の起伏が目立ち、気になるところではありますが。
■6■シュールな光景その1
 可愛らしいというよりも、決して打ち捨てられたというわけでもないのに、何故か哀愁の漂う氷川神社近くの畑の中の「ミッフィー」(時計機能付き・・・多分壊れていそうな)
■7■シュールな光景その2
 同じ場所で見つけた「鳥除けのクマのプーさん第2の人生」。
 この家庭菜園はどうもユニークな印象がつよくて、ちょっと油断するとこれらのシュールな光景だけが頭の中に残りそうで弱りました。
■8■
 例によって「かつての堀跡」などといいたいところですが、単なる湾曲する道路かと。(方光寺の東側の道路)
交通案内

・比企郡吉見町より県道76号線の荒川に架かる糠田橋をわたった直ぐ西側付近
MapFan Web の案内図です  

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