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アクセスありがとうございます。 学術的な城館遺構ではなく主に「素人の思い込みと勘違い」によるものです。
関連ページへのリンク  2007/03/04のブログ 腰越城 中城 八幡台遺跡
所在地
埼玉県比企郡小川町大字大塚字鳩ノ峯
遺構まがいの地形
土塁
城館遺構の可能性
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

土塁には相違なく
 「弟6次八幡台発掘調査」の報告書などによれば、その出土した寛永通宝や土器などの遺物の存在から「近世の流鏑馬の儀式のための土塁跡」と性格付けられております。遺構は八幡神社の南側の町道沿いに高さ約1.2mほどで、途中道路により寸断されているものの長さ150mという長さにわたって所在しています。南北を兜川と槻川に挟まれた広大な八幡台の中心部に所在する東西南北共に100mを超える位置する広大な境内を有する八幡神社そのものにも何やら曰くありげに思えてならず、さらに強いていえば東側の民家の前には長さ15m、高さ0.8mほどの小さな土塁状地形もなども存在。なおこの八幡神社は中城の西側僅か約600mの地点に所在しています。 

訪城年月日
2007/03/04
訪城の記録 記念撮影

( 2007/03/04 )
 「流鏑馬の土塁」との見解ではありますが
 八幡台の最高地点である鳩ノ峯に一直線の形状で東西方向に所在し、恰も八幡神社境内の南側を防御するような位置関係。北側は現在は町営グランドが造成されておりますが、ご神木の大欅とともに歴史の謎に包まれた一帯と形容しても良さそうな佇まいを見せておりました。考古学的見地からは確かに「流鏑馬の神事に伴う土塁」との見解が示されていますが、部分的な調査であることから何処となく釈然としないものが感じられるのでありました。
 なお、八幡神社の起源については「新編武蔵風土記稿」および「大塚仲太郎資料」(小川町の郷土史家の先駆者とされています)などによれば、鎌倉幕府最後の将軍である守邦親王あるいはその庶子であるとされる梅王子が勧請したとの伝承を紹介していますが、このこともまた史料としての裏付けが確認できないとされています。(「小川町の歴史 通史編上巻」より)
 一方この点について「小川町の歴史 別編 民俗編」では、守邦親王は鎌倉幕府滅亡後に京都から源氏との縁深い慈光寺を頼り、ついで源義経の家臣であった猿尾氏に庇護され梅王子と名乗り再起を図ったものの再挙ならずこの地に没したこと、また現在の神職を継承する片岡家は守邦親王の子孫とされるとの社伝などを紹介しています。
 さてこのあと南側の穴八幡古墳に立ち寄り、春霞と夕方の逆光のために霞んで見える腰越城の本郭を眺めて帰還することに。2人の年齢を合わせれば四捨五入すると既に120歳。同行者共々お互いにそう若くはない年頃なのでこのあたりから些か足に疲労が蓄積気味となり、やや重たい足取りでよろよろトボトボと町立図書館の駐車場を目指していったのでありました。

八幡神社南側の土塁 クリックで拡大します
八幡神社南辺の遺構で、「流鏑馬の土塁」との見解
( 2007/03/04 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで拡大します
 東側へ一直線に延びる土塁遺構⇒画像クリックで東側の謎の土塁へリンク
凸1 大塚八幡神社参道
 中世には猿尾氏、近世には旗本金田氏などの篤い信仰と庇護を受け、慶安2年(1649)には10石2斗の御朱印が下賜されています。なお、昭和8年(1933)10月に村社から石碑に刻まれているように郷社へと昇格し、近年までは流鏑馬神事が奉納されていたとのこと。
 因みにこの流鏑馬は守邦親王の命日である9月19日の例大祭に行われていたとのことです。
 
凸2 南辺土塁の東側部分
 八幡神社の南東のこのあたりは宅地の造成により土塁の南側斜面のみが遺されている形となっています。
 画像クリックで八幡神社東側の謎の土塁の画像へリンクします(南側なので民家の風除けでもなく、流鏑馬の神事に使用されたにしては規模が小さく..) 

八幡神社
画像クリックで拡大します
凸3 八幡神社東側
 寄進された石柱に刻まれた住所地は大塚地区の地域名のひとつと思われます。なおこの東側の部分は道路面よりも1mほど嵩上げの造成がなされているようですが、植樹されている杉の幹回りの大きさから推定すると200年は経過していない印象なのでありました。
 
凸4 穴八幡古墳
 八幡神社の南側直線にして50mほどの位置に所在する埼玉県指定史跡の長径約30メートル円墳形式ですが近年の学術調査によれば二重の周溝を伴った7世紀後半の方墳であることが解明されたとのこと。腰越城・古寺砦並びに小川盆地を俯瞰する物見台としてはまさに格好の立地条件。

画像クリックで拡大します
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凸5 石室は板碑と同じ素材
 石室に使用されている石材は同町下里地区にて切り出された緑泥片岩が使用されています。
凸6 腰越城と笠山
 
穴八幡古墳の頂上から眺めたもので、画像の中央部分が腰越城で樹木のまばらな個所が主郭部分。直線距離にして約1.8kmほどの至近距離に所在。
 

交通案内

・小川町立図書館から西へ徒歩10分ほど。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 


凸主な参考資料
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「小川町の歴史 通史編上巻・下巻」(小川町/2003編集発行)
「小川町の歴史 資料編2古代・中世1」(小川町/1999編集発行)
「小川町の歴史 資料編1考古」(小川町/1999編集発行)
「小川町の文化財」(小川町教育委員会/2001年編集発行)
「小川町の歴史 別編 民俗編」(小川町/2001編集発行)守邦親王、猿尾氏などの伝承に関して詳述
「町内遺跡発掘調査報告書7」(2001/小川町教育委員会)
 

・2007/07/22 HPアップ
・2007/07/24 「伝承」関係の記述を追加

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