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茨城県取手市の城館索引へ戻る  高井城遠望 高井城 高井城主郭
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/04のブログ 守谷城 筒戸城 菅生城 御出子城
所在地
 茨城県取手市下高井
歴史、人物、伝承

守谷城の有力な支城のひとつ
 千葉氏の系譜をひく相馬氏一族の傍流と推定される高井氏の居城とされていますが、詳細については明らかではありません。また、後北条氏に従い戦国時代最後の城主となった相馬治胤は高井氏の出身ともされる説もあるようですがその詳細は不明の模様です。
 相馬氏と高井との関わりは古く建武3年(1336)の「斯波家長奉書」に高井の地名が記され、相馬氏の支配が推定されています。また永禄9年(1567)の「北条氏政書状写」によると、高井氏が相馬氏の支配下に置かれてたことが確認されるといわれています。
 なお「相馬伝説集」によると高井氏の子孫は近世には帰農して広瀬氏を名乗り、広瀬家には後北条氏所縁の書状が伝わっていると記されています。
 また「市史」でも指摘しているように、現状の地形を観察する限りでは南側の頑強な備えに比べて北側の防御が薄い印象があり、守谷城と同様に多賀谷氏・佐竹氏との抗争の中で後北条氏の手による改修を受けている可能性も考えられます。別名を下高井城とも。                           

(以上「取手市史 中世資料編」を参考)
確認可能な遺構
 主郭、郭、腰郭、小口、堀跡、土塁ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年12月4日 14時40分から15時15分
訪城の記録 記念撮影

 小貝川沿いの舌状台地
 北側約300mを流れる小貝川沿いの低湿地に向かって突き出した台地上に占地。公園化されている部分はは南北約200m、東西約100mほどの広さであることから、本城とされる守谷城と比較すると遥かに小規模な印象があります。
 しかし、南側の台地の付け根、東側の集落一帯を城域として捉える考え方があり、現地解説板では200m四方余りとされています。また郭の配置等の縄張りは舌状台地に直線的に配置されるという守谷城の形態に酷似したものが感じられます。
 なお「日本城郭大系」では、南北の範囲について410mと記しています。仮にその場合には遥か南側に所在する県道251号線辺りまでの領域となり、東西の谷津地形による防御体制が成立しないこととなることから明らかな誤謬であると考えられます。
 ところでこの地を訪れた時間は既に午後3時前という時間帯。北側の傾斜地に立地し西側にも同様の高さを有する台地が存在するために、やたらに日差しが陰るのが早く小走りの探訪を余儀なくされました。従って踏査したのはあくまでも主郭周辺のみにとどまることとなり、東側の集落内の断片的に残存するという櫓台等の遺構を確認する時間はありませんでした。
 そうこうしているうちに早くも夕闇が迫り、主郭小口付近の土塁ではその威圧感が愈々濃厚に。さらには周囲の空気がどことなく心なしか重たくなってきたようにも感じ始め...このため早々の撤退となりました。
( 2009/01/03 記述 )

高井城の主郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
夕暮れ時の高井城主郭
( 2008/12/04 撮影 )
訪城アルバム
高井城へ向かう農道の入口
高井城西側からの遠望 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 高井城へ向かう農道の入口
 高井城へ下る緩やかな坂道の入口には、「高井城址公園」の立札と共に、「農道につき関係者以外進入禁止」との立札が建てられておりました。手持ちの地図によるとこの奥の左手の方に公園の駐車場が所在しているため、そのまま進ませていただくことといたしました。
 なお「日本城郭大系」の記述に従えば、このあたりも既に城域に含まれるものと思われます。

凸2 高井城の遠望
 画像手前の西側部分は小貝川の氾濫原ともなっていたと考えられる城址公園として整備されたかつての湿地帯。
 高井城が所在する舌状台地は、南側の台地続きの個所を除く3方向がこうした湿地帯に囲まれていたものと推定されます。このため比高差10m前後の台地とはいっても、その要害としての防御機能はけっして守谷城に劣るものではなかったものと推定されます。⇒南郭方面

高井城主郭手前の郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
高井城主郭の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 高井城主郭手前の郭
 現地の取手市教育委員会が設置した説明板によれば「枡形小口」という捉え方をしていますが、「茨城の城郭」では緩斜面を防御するための「腰郭」と推定しております。公園化に当たっては、園内の通路を含め多少の区画形質の変更が想定されますので、この現状の地形からは判断の難しいところかと思われます。⇒小口拡大画像
 然しこの個所が仮に主郭への小口に伴うものではないとすると主郭自体の小口は南側の1ヶ所のみとなりますので、枡形であるかどうかは別としても搦手の小口郭のような存在とみても良さそうに思えるのでありました。
凸4 高井城主郭の南側土塁
 高井城の主郭は東西50m、南北70mほどの不整形ですが、西側の一部を除いては土塁により囲まれている状態を確認できます。

⇒城址公園化により一定の整地が行われたと思われる主郭中心部の様子
⇒低土塁の存在がが認められる主郭北辺土塁の西端部


高井城主郭の南側小口 ⇒ 画像クリックで拡大します
高井城主郭と南郭の間の堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 高井城主郭の南側小口
 高井城の南側小口付近には櫓台跡と推定される基壇と、幾分ふくらみを見せてかつての城門の存在を示唆する地形も認められます。
 また土塁自体の高さも4m弱の高さを有しており、その堂々とした土塁の城壁からは独特の威圧感さえも伝わってきます。
 なお、この右手方向には年表と解説縄張図、城郭の復元イメージ図等が掲載された詳細かつ丁寧な解説板が設置され、訪れる者に対するきめ細かい対応を感じます。。
凸6 高井城主郭と南郭の間の堀跡
 画像左側の主郭切岸の高さは実際には最大8mほどの規模があり、木の幹にしがみつかない限り這い上がることは困難です。仮にこの方向から攻め寄せるとすれば、周面の土橋と主郭を含む左右の郭の三方から雨あられと矢玉が降注ぐ構造となっています。
主郭南側の切岸
主郭切岸と右手へ曲がり見通しの効かない堀底道
主郭南側の切岸

高井城南郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
堀底道から高井城主郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 高井城南郭
 辺縁部に腰郭状の地形が確認できますが、他に土塁などま目立った遺構は所在しない模様です。12月上旬ににも拘わらず、ご覧のとおり草木が元気に繁殖し地面の表面観察はほぼ絶望的なのでありました。
そうしたなか西側の堀底道沿い部分については、確実に2段からなる腰郭を認めることができます。
凸8 堀底道から高井城主郭
 肉眼では各所に城跡らしい地形を認めることはできますが、デジカメ撮影に関してはこの辺りが最も城跡としての地形を表現できるポイントなのかもしれません。
高井城主郭
高井城主郭
交通案内

・麓との比高差は約10mほどで下高井の集落に隣接しています。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)
⇒大字名から呼称された下高井城として掲載されています。
「図説茨木の城郭」(2006/茨城城郭研究会/国書刊行会)

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典8茨城県」(1983/角川書店)
「常総戦国史」(川島 建/2002/崙書房)
「東国戦記実録」(小菅與四郎/1926/崙書房)
「取手市史通史編」(1991/取手市)
「取手市史 古代中世資料編」(1986/取手市)
「守谷町史」
「谷和原村の歴史 史料編」(2001/谷和原村)
「茨城県遺跡地図」(2001/茨城県教育委員会)⇒県内全域を網羅、ただしA3版2分冊のために持ち運びに不便。

■史料
なし

■その他
なし

・2009/01/03 HPアップ
・2019/06/14 画像ズレ補正
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