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茨城県つくばみらい市の城館索引へ戻る  筒戸城の遠望 筒戸城 筒戸城の土塁
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/04のブログ 守谷城 菅生城 
所在地
 茨城県つくばみらい市筒戸(字中城1022ほか)
歴史、人物、伝承

相馬氏支城のひとつと推定
 天正年間に相馬氏一族と推定される筒戸氏により築城されたと伝わるようですが、その詳細については必ずしも明確とは言い難いものがあるようです。(「日本城郭大系」「日本城郭全集」「茨城の城郭」「現地解説板」など)
 「守谷町史」「取手市史」などによれば、戦国期の守谷城を本拠地とする相馬氏の支城の一つと断定乃至は推定しており、城跡を中心に中城、馬場などの中世城館に関連する地名が残されています。
 現地解説板(平成4年7月に設置された旧谷和原村当時のもの)によりますと、「城館の歴史 筒戸城は、永禄2年(1559)筒戸氏によって築城され、天正17年(1589)筒戸御門(⇒「北相馬郡誌」では衛門と表記)城主たりし頃下妻多賀谷家重、大曾根(の)白井全洞により攻められて天正18年(1590)落城し以後廃城となる(北相馬郷土史)」と記されています。
 なお、「守谷町史」によれば、多賀谷重経の牛久攻め(天正16年か)と前後して、白井全洞が相馬氏の居城である筒戸城を攻撃したが、城主の兄にあたる相馬親胤の援軍により退却した」と記されています。双方の記述が些か相容れないようにも思われますが、天正18年(1590)の後北条氏滅亡により小田原城に参陣していた相馬氏と命運を共にし廃城となったことだけは間違いがなさそうです。

確認可能な遺構
 土塁、堀跡、郭跡?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年12月4日 10時55から12時00分
訪城の記録 記念撮影

 断片的に遺構が残存
 低湿地に北側を除く三方を囲まれた南側にのびた台地先端部に所在し、曹洞宗禅福寺を含む周辺が城跡と推定され土塁遺構はやや断片的に存在しております。合併前の旧谷和原村では所在が確認できる恐らくは唯一の中世城館跡と思われます。このほかには小絹城福岡城などの存在が伝わるようですが、近世の軍記に合戦の舞台として現れる以外その具体的所在地や経緯の詳細については明確ではない模様です。
 顕著な遺構は禅福寺南方の2箇所の土塁跡ですが、 このうち南西側の部分については主郭外側では元来の台地地形を利用したもので最高地点では約8mほどの高さを有しています。このほかには同寺東側に所在する主郭北側の堀跡(寺院に向かう堀底道の参道)及びこれに平行する土塁跡など。また関係資料によれば北側には外郭部分を形成する堀跡が残されていたとのことですが、残念ながらその現在の状況からは確認できませんでした。また遺構としての真偽は不明ではありますが人為的な印象の折を有する切岸等も見受けられます。
 2の郭に相当する禅福寺の西側道路沿いには詳細な解説版が所在しておりますが、後日同市域を探訪した限りではつくばみらい市唯一の解説板であると思われます。東側の水田側から望む弧を描いた低台地の形状もなかなかに印象的で、南側には「つくばエクスプレス」の車両整備基地も隣接するのでこれが一番分かりやすい目印であると思われます。  

( 2008/12/31 記述 )
筒戸城の土塁遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
筒戸城主郭の土塁
( 2008/12/04 撮影 )
訪城アルバム
筒戸城の全景 ⇒ 画像クリックで拡大します
筒戸城2の郭乃至は外郭に相当する禅福寺の境内に向かう参道 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 筒戸城全景
 画像右手の水田面との比高差は大目に見ても3mほどで、画像手前の台地先端部に至っては2mほどの比高差を有するのみです。
 現状の地形からその要害性を感じるには程遠いものがあるようで、この地域特有の周辺を池沼に囲まれた舌状台地であったことさえも忘れてしまうような平坦でのどかな田園風景が広がっておりました。
 画像の左手が主郭の東側にあたり、正面が「中馬場」でその右側に「遠馬場」という地名が残されているようです。
凸2 臨済宗禅福寺
 平将門の創建と伝わり、その当時は真福寺と称されたとのことです。(「守谷町史」より)2の郭もしくは主郭北側の外郭に相当する部分とされていますが、地形上の際立った遺構は確認できません。しかし画像正面の参道とは別に画像左側のカーブした幅員の狭い道路が堀跡の折の存在を物語っているようにも思われました。
 なお、「谷和原村の歴史 史料編」(2001/谷和原村)では画像左側の手前付近を主郭の小口部分と推定しています。

筒戸城主郭西辺北端部の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
筒戸城主郭東側部分 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 筒戸城主郭の土塁
 逆光のため見辛くなっておりますが、画像左側民家の生垣の向こう側に低木などに覆われた主郭西辺の北端部と推定される土塁が見えます。
 なお縄張り図付きの現地解説板はこの手前の辺りに所在しています。
凸4 筒戸城主郭東側
 主郭先端部付近の様子で、因みに車の屋根の高さが約1.7mです。
 戦国時代当時には、この地域特有の地理的な条件から川船を使用した軍事行動が前提と考えられますので、守谷城などに比べると、池沼に囲まれているとはいえその防御性は不足しているように思われます。

筒戸城主郭西辺の高さ8mの土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
筒戸城主郭北辺部の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 筒戸城主郭西辺の土塁
 主郭の外側から眺めたもので、自然地形の台地を利用しているために画像のやや右寄りの部分の高さは8mを超えています。
 また主郭内部での高さも3mから4mを有し、筒戸城の遺構としては最大の見所の筈なのですが何分竹林等の樹木に隠れてその全容が掴みづらい状態でした。
主郭内部から撮影した土塁 ⇒同左
土塁の遠景 ⇒土塁の南端部

凸6 筒戸城主郭北側の土塁
 主郭北側堀跡の内側に平行する土塁遺構で、後世の改変の可能性も濃厚ですが櫓台を連想させる幅広い地形を見ることができます。
 もし仮にこの地形が櫓台跡に関連するものであるとすれば、画像「2」の禅福寺参道脇のカーブした道路の形状の存在と相俟って、小口部分を特定する有力な材料になりそうなのですが。
交通案内

・つくばエクスプレス車両整備基地の北側台地

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「図説茨木の城郭」(2006/茨城城郭研究会/国書刊行会)

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典8茨城県」(1983/角川書店)、「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)、
「常総戦国史」(川島 建/2002/崙書房)、「東国戦記実録」(小菅與四郎/1926/崙書房)
「東国戦戦見聞私記」(1997/常野文献社)
「守谷町史」、「谷和原村の歴史 史料編」(2001/谷和原村)、「水海道市史 上」(1983/水海道市)
「茨城県遺跡地図」(2001/茨城県教育委員会)⇒県内全域を網羅、ただしA3版2分冊のために持ち運びに不便。
「北相馬郡誌」(1918/野口如月編著/1975に崙書房より刊行された影印版)、
⇒「筒戸の戦争」と題した記述がありますが、相馬家家臣である本多越中の太平記・講談本のような武勇伝、相馬氏勢を援軍合わせて大将分(士分か)8百、雑兵2万8千余人と記すなどの著しい誇張が見られます。しかし「東国戦記実録」等と同様に、読み物として目を通すに分には興味深いものがあります。

「関東古戦録」(槙島昭武/2002/あかぎ出版)
⇒下総国相馬郡の守谷・筒戸の城主相馬左近治胤は幼名を小次郎といい平将門の子孫であった。下妻の多賀谷修理大夫は近年武威を誇り天正17年(1589)の秋大曾根の白井全洞に命じて猿島郡坂手村樋内台へと向い沼地を経由して筒戸に攻め込んだ。筒戸には治胤の弟小三郎胤親以下本多越前守、川口播磨守が守っていたが初戦に敗れ守谷へ注進した。治胤は横田民部少輔を大将として援軍を出し全洞を坂手村まで退却させた。(以下略)なお、教育社版の「関八州古戦録」は底本の違いからこの項については収録されていない模様です。
■史料
なし
■その他
なし

・2009/01/01 HPアップ
・2019/06/13 画像ズレ補正
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