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茨城県常総市の城館索引へ戻る 菅生城遠景 菅生城-常総市-茨城県 菅生城の舟入
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/04のブログ 
所在地
 茨城県常総市菅生町平松
歴史、人物、伝承

菅生氏、横瀬氏の居城とも
 「東国戦記実録−横瀬長氏菅生城を攻め取る事」「北相馬郡志」等によると菅生越前守胤貞の居城とされている。しかし菅生氏の事跡については、永禄3年(1560)に弓田城の染谷氏と合戦に及び落城の上、討死をしたと伝わるのみで定かではない。
 なお諱に相馬氏の通字である「胤」があることから、必然的に守谷城を本拠地とした相馬氏との関係が想定されるが、これも想像の域を出るものではない。ただし「守谷町史」では「相馬一家連盟帳」(「相馬文書」)を引用しその名が記されている胤貞を相馬一族として捉え、かつ守谷城の支城として位置づけている。また相馬氏系図の一つである「相馬左近・民部系図」に菅生越前守の名が記されているが、相馬氏一族との関わりについては記されていないという。
 また、その後この合戦に功のあった横瀬長氏(永氏とも、染谷氏の婿とされる−「由良・横瀬氏系図より」(「水海道市史」))が城主となったが、天正年間の中頃に多賀谷氏の南進により落城し廃城となったともいうが、上野の横瀬氏の移住という事実関係を含めて、廃城に関する正確な経緯と時期については余り明確であるとはいえないものと考えられる。

確認可能な遺構
 主郭、堀跡、舟入、切岸、腰郭?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年12月04日 8時30分から10時30分
訪城の記録 記念撮影

 藪よりも湿地に注意
 利根川を渡る際に渋滞に巻き込まれて初っ端から予定は30分の遅延。元来さほど著名な城館でもなく、所在地自体も極めて難解な部類に含まれるのかとも。当てにしていた道路も車両通行不可能。さらに地形の酷似した台地が各所に散在。水田地帯の農道の幅員は狭く、最初の30分は所在地探しと駐車場所の確保と没頭するような始末。
 結果的には最初に当たりをつけた台地先端の樹林帯が正解。残存する遺構は堀跡、郭跡、舟入等のはずですが、城跡北側の舟入そのものは、広すぎることと湿地帯のため手前から確認したのみ。その代わりに主郭北側の切岸、削平地、土塁まがい地形などを確認。まさに「菅生」の地名が示す如く、予想通り主郭の内部は密生する笹薮などのために地表の様子は全く見えず。
 周辺は深田の低湿地のため、この時期にもかかわらずあちこちに小さな池が点在。低台地とはいえども、台地続きの西側を除く三方を低湿地に囲まれた要害としての実効性を再認識しました。このあと西方の別雷神社へと赴き、城域の範囲、全体の地形、位置関係等を再確認。 実際にはこの時点で初めて菅生城訪城という事実に確信を持ったような次第で(苦笑) かくして何はともあれ記念すべき茨城県の第一歩をそっと踏み出したのでありました。

( 2008/12/21 )記述

「菅生城」の主郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
菅生城の主郭
( 2008/12/04 撮影 )
訪城アルバム
「菅生城」南西方向からの遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
「菅生城」東側からの全景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 南西側からの遠望
 正面が主郭で、左側が2の郭となるようですが、舟入といわれる谷津の地形規模等から、西側の城域が仮に下記の別雷神社までであるとすると東西方向に約800mの広さを有することになります。南北方向も200m前後の長さを有することから、数千人を収容することが可能な広さとなります。
 この結果、数か村を支配するような土豪クラスの居城としては余りにも広すぎる規模となってしまい、当該塁線を防御するには人手不足の観が否めないのであります。
凸2 東側からの主郭全景
 東西約100m、南北約60メートルほどの楕円形で水田面との比高差はおよそ10mほど。しかし元来が低湿地に囲まれた地形であるために、主郭西側の堀跡とあわせて当時としては正しく難攻不落の地形であったものと考えられます。
 ただし別雷神社北側の台地続きの北西部は防御性の弱い平坦地であることから、大規模な空堀と土塁による防御ラインの構築が想定されますが、耕地化・宅地化等のためそうした痕跡を捉えることはできませんでした。

「別雷神社」 ⇒ 画像クリックで境内北側の土塁状地形へリンクします
「馬場」という地名が残されている付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 別雷神社
 常総市指定文化財の別雷神社境内北側に土塁状の地形を認めることができます。神社境内などではよく目にすることができる地形のため、菅生城に関連する遺構であるかどうかについては断定をしかねます。
 ただし、「物見櫓跡」との伝承が残る(「図説茨城の城郭」)こと、この神社の境内地が台地先端部に位置していること、境内に人工的な段築等の形跡が残されているように捉えられること等から、中世城館遺構との関わりを否定する材料は見当たりません。
凸4 馬場
 こちらも一般には中世城館との関わりが想定される地名ではありますが、耕地整理等のために画像の通り表面観察上からは、遺構らしき地形を確認することは殆どできません。地形図等の資料と現地の地形を照合しますと、画像中央の山林付近が菅生城の主郭部分に相当するものと思われます。また二の郭がどの辺りまでなのかは、この地形からは到底見当がつきません。
 なお現在は用水路の建設工事が行われていますので、かつての堀跡と誤認することの無いように注意せねば。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「図説茨木の城郭」(2006/茨城城郭研究会/国書刊行会)

■郷土史・歴史関係
「図説茨城の歴史」(1989/河出書房新社)、「茨城県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典8茨城県」(1983/角川書店)、「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)、「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)
「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)、
「常総戦国史」(川島 建/2002/崙書房)、「東国戦記実録」(小菅與四郎/1926/崙書房)
「東国戦戦見聞私記」(1997/常野文献社)、「北相馬郡志」(1975/野口如月/崙書房)

「図説伊奈のあゆみ 伊奈町史通史編」(2007/つくばみらい市)、「伊奈町史 資料編1」(2001/伊奈町)
「龍ヶ崎市史中世資料編別編2 龍ヶ崎市の中世城郭」(1987/龍ヶ崎市)、「守谷町史」(1985/守谷町)
「水海道市史 上」(1983/水海道市)

■史料
「関東古戦録」(槙島昭武/2002/あかぎ出版)

■その他


・2008/12/21 HPアップ
・2008/12/26 記述追加訂正
・2019/06/13 画像ズレ補正
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