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素人 の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願いま す。

茨城県守谷市の城館索引へ戻る  守谷城遠望 守谷城 守谷城の堀跡
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/04のブログ 今城
所在地
 茨城県守谷市本町
歴史、人物、伝承

戦国期相馬氏の居城
 将門伝説の本場とはいえ、守谷城を平将門が築城したとの伝承は無論史実ではありません。しかし地理的には深いかかわりを有する地域であることには相違ありません。このため幕末の地誌学者である赤松宗旦は、「利根川図志」の記述のなかで守谷城の築城について将門との関わりについていたく拘泥をしています。
 さて史実として守谷城の築城に関わっているのは、鎌倉以来の名族千葉氏の系譜をひく相馬氏であるとされています。戦国時代末期の当主相馬治胤(1541-1602)の時代には、牛久城・足高城などを拠点とする岡見氏など周辺の中小領主と共に、上杉謙信の越山、後北条氏と佐竹・多賀谷氏の巨大勢力勢力争いの等の渦中で時代の波に翻弄され、天正18年の後北条氏の滅亡とともに北相馬の戦国領主としての相馬氏もその終焉を迎えました。
 その後、治胤の嫡子秀胤は5千石の旗本として徳川家に仕えますが、歴代当主が短命であったことなどの事情により次第に禄高も減じられて幕末には蔵米8百俵の給分となっていたようです。なお、南北朝期に争った奥州中村藩6万石の相馬氏は鎌倉時代末期に分かれた同族です。
 なお地名である守谷(もりや)の表記について、当時の古文書では、「守屋」「盛屋」「森谷」等がありますが、「守谷」と表記されるようになったのは17世紀後半の慶安年間以降ということのようです。(以上「守谷町史」「常総戦国誌」等より)別名を相馬城とも。

確認可能な遺構
 郭、小口、枡形小口、土塁、堀跡ほか
文化財指定
 1973年9月8日 守谷市指定史跡
訪城年月日
 2008年12月04日 12時25分から14時20分
訪城の記録 記念撮影

 めくるめく堀跡
 守谷城に到着した時点で既に当初の予定よりも1時間遅れとなりました。それにも拘らず、広々とした地形に遭遇すると突然方向感覚が狂い始めるという元来の性癖を如何なく発揮し、冒頭から城跡の所在地を誤認するような始末と相成りました。つまり早い話が直接関係の無い城跡北側の公園を暫しの間探索し、これがまた微妙な自然地形と人工地形が組み合さり如何にもそれらしく... かくて30分もの貴重な時間をむざむざと浪費する羽目に陥ったのでありました(苦笑)
 しかし次第に沼地等の位置から推定してどう考えても見当違いの場所であることに気づき、漸く低地を挟んだ東側の樹木の鬱蒼とした台地部分へと向かって行ったのでありました。
 将門伝説の本場とはいえ、守谷城を平将門が築城したとの伝承は無論史実ではありませんが地理的には深いかかわりを有する地域であることには相違ありません。このため管理人の本家筋などにも、当然の如く将門の一族の後裔であるというような伝承が残っております。また系図類が消失したためにその関連については全く不明ですが、戦国期の在地土豪の姓と同様の遠縁筋にあたる旧家があちこちに散在しております。
 さて本来の見所といえば、やはり城山地区の土橋付近の堀跡および主郭西側の堀跡周辺かと思われます。大規模な土塁跡も要所に所在し、3ヶ所のほどの主郭小口の防御構造も興味深く観察。取分け主郭と西側の郭との間の堀跡の素晴らしさには心底より感激を。また、このような戦国時代からの経緯を有する巨大な城跡が小貝川の対岸とはいえ亡父の実家から僅か1.5kmの位置に所在していたことに率直に驚くとともに、半世紀以上以前の子供の時分からごく最近までしばしば訪れていたにも拘わらず、何ら関心を払わなかったことに己の不明を恥じる次第にて。
 なお妙見郭先端部付近から城跡を撮影しますと、守谷市内の近代的な高層住宅が郭の北側にその姿を覗かせるため、結果的には非常にシュールな印象の画像が出来上がってしまい、あらためてこの地域の急速な都市化現象を再認識することとなりました。
 とはいえ、低湿地帯に細長く突き出した城跡故の強固な防御機能についてその認識を新たにしたのであります。このあと、先を急ぐあまり危うく忘れそうになった守谷小学校近くの土塁と城址碑を訪れて城域の西端部分を確認し、愈々日没までの残り時間は乏しくなっていったのでありました。

( 2008/12/24 )記述
「守谷城」の主郭と西側の郭との間の堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭と西側の郭の間の堀跡
( 2008/12/04 撮影 )
訪城アルバム
守谷城周辺の初冬の紅葉 ⇒ 画像クリックで拡大します
守谷城の東端の妙見郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 守谷城北側の紛らわしい地形
 守谷城の北側に所在する駐車場近くの公園付近には城跡と間違えそうな紛らわしい地形が点在しています。どちらともつかない近年の公園造成工事に伴うと思われるものなどのほかに、自然の台地を利用したものもあるらしく暫らくは頭が混乱状態へと陥りました(苦笑)
 暖冬のせいか気温が下がらずカエデの紅葉が丁度見ごではありましたが、12月の日差しは無情にもどんどんと傾いていきました。
凸2 守谷城東端の妙見郭付近
 現状では付近の水田面から10mにも満たないような比較的緩やかな比高差の台地ではありますが、往時には小貝川(子飼川、養蚕川とも)からの水流が流れ込んだ湖沼に囲まれた半島の先端部のような地形を呈していたものと推定されています。妙見社は相馬氏(千葉氏)の守護神として祀られています。
 なお手前の道路は後世に作られたものと思われます。


守谷城主郭東側の土橋付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
守谷城主郭西側の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 主郭東側の土橋と堀跡
 土橋の両側には東郭と主郭を隔する深い堀が廻らされています。また堀幅は約20mほどで堀底から主郭の郭まで約10mほどの規模を有しています。
 なおこの堀とは別に東郭側にも1条の堀が穿たれ、主郭と東郭は事実上は二重の堀により分断されています。
 なお、「取手市史」では東郭を主郭と推定していますが、比高差にしてこの郭よりも10m以上も低いというのが大きな疑問です。
凸4 主郭西側の土塁遺構
 主郭部分は南北150m、東西100mの不整形をなし、標高26mと城山地区では最高地点に所在し、標高約13mの東郭、標高約22mの西郭を見下ろす地形となっています。無論東側の郭を主郭とする説も有力ですが、城郭の中心部であること、最後の拠点であること、防御性の高さ、眺望が優れること等の事情から主郭とみなすこととしました。
 ⇒西側土塁の遠景主郭現地解説板縄張略図

守谷城主郭南西部の枡形小口 ⇒ 画像クリックで拡大します
守谷城主郭南西部の小口 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 主郭南西部の枡形付近
 主郭南西部に設けられた50m×20mという大規模な枡形小口の北側部分。
 主郭とは比高差にして5mほどの低位に所在し、上方の主郭から俯瞰されると共に、主郭土塁が大きく張り出しているため上方からの横矢がかかる構造なっています。
凸6 主郭南西部の小口
 左の「凸5」の枡形下方より主郭の小口を撮影したもので、向かって右側の櫓台を始めとして主郭の土塁部分が侵入するものを拒むように立ちはだかっているという印象を強く感じます。

守谷城主郭と西側郭の間の堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
守谷城西側郭の枡形状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 主郭と西郭の間の堀跡
 現状の守谷城の見所の一つである主郭と西郭の間の堀跡で画像右手の主郭側での堀の深さは10mを超えるような部分もあります。
 またこの個所も往時には周囲の湖沼と一体の地形であったものと推定されています。⇒少し先の方の別画像へ
 このため、始めは百数十年前に赤松宗旦が訪れた時のように足元を確かめつつ慎重に分入り....然し西郭経由で主郭の麓付近へと下りた辺りの平坦な草むらで何故か転倒を(苦笑)
凸8 西郭の枡形状地形
 西郭南西の櫓台を含む土塁に囲まれた枡形なのですが、この個所へと登って来るような道の形跡が見当たらず、暫くの間は首を捻って考えておりました。なお、「守谷町史」ではこの郭を戦国期の主郭と推定しています。
 左側「凸7」の堀跡は少なくとも2m以上は埋まっているものと想定されるので、ことによると舟入の関係かとも考えたのですが、仮にそうだとしてもこの斜面の傾斜では実際問題として降りるに降りられず....
 ⇒当時のの舟入(船着場)と推定されている付近の様子と、舟入だとすれば納得できる小口手前の細長い形状の斜面部分

北側からの守谷城の遠望 ⇒ 画像クリックで拡大します
守谷城西端の土塁遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 守谷城の遠望
 北側から眺めた守谷城遠望ですが、画像右側の標高の高い部分が主郭。
 その左側の低い部分が東郭、そのまた左の幾分奥まった感じの先端部分が妙見郭に相当するはずです。
凸10 城域の西端に所在する土塁
 守谷小学校の西側の道路沿いに守谷城の石碑と共に残されている土塁遺構。この辺りまでが城内とされ、この西側に城下町が所在したと考えられているようです
守谷城の領域図現地解説板土塁遺構
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「図説茨木の城郭」(2006/茨城城郭研究会/国書刊行会)

■郷土史・歴史関係
「茨城県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「茨城県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典8茨城県」(1983/角川書店)
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)
「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)
「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)、
「常総戦国史」(川島 建/2002/崙書房)
「東国戦記実録」(小菅與四郎/1926/崙書房)
「図説伊奈のあゆみ 伊奈町史通史編」(2007/つくばみらい市)
「伊奈町史 資料編1」(2001/伊奈町)
「取手市史通史編」(1991/取手市)
「取手市史 古代中世資料編」(1986/取手市)
「守谷町史」(1985/守谷町)⇒時折、史実と伝承の区分が分かりにくい個所が見られる。
「茨城県遺跡地図」(2001/茨城県教育委員会)⇒A3版2分冊のため持ち運びに不便。

■史料
「利根川図志」(赤松宗旦/1938/岩波書店)
 ⇒「平将門旧跡」の項に「昔の相馬小次郎師胤の城跡があり、今も空堀(戦国時代には水堀)、枡形などの地形が当時のまま残っている...畑の中道を東へ200m余り行くと、大濠、曳橋などという地名がある。平の台(主郭)というところは最も高い岡であり、ここに将門が住んでいた。まためくるめくばかりの深い堀を渡って八幡郭(妙見郭)に移る(以下略)」(現代文に翻訳)
「関東古戦録」(槙島昭武/2002/あかぎ出版)
「茨城県史料 近世地誌編」(1968/茨城県)
 ⇒「利根川図志」を所収

・2008/12/24 暫定HPアップ
・2008/12/27 記述追加
・2019/06/14 画像ズレ補正
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