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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/04/07のブログ 柳堀込 笹目平館 大和久館
所在地
 福島県西白河郡矢吹町舘沢
歴史、人物、伝承

石川氏重臣矢吹氏の居城
 戦国期には石川氏重臣矢吹氏の居城であったものと考えられていますが、矢吹氏あるいは矢吹という名称が歴史上に登場するのは、僅かに建武3年(1336)石川義光若党矢葺頼道軍忠状、天文19年(1550)の古河公方重臣である梁田清助書状、および天正17年(1589)10月の伊達政宗による二階堂氏攻略の際に、これに加わった石川昭光家老矢吹薩摩守が落城後の須賀川城代に任じられた時期などの数度に限られているようです。
 また、天正13年(1585)とされる「白河義親家頼礼式帳」によりますと、白河結城氏の家臣の一人に矢葺左衛門尉という名が見えることから、矢吹氏の一族のうちには白河結城氏に従った系統もあったものと考えられます。
 その後天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥羽仕置により主家である石川氏は伊達氏に従い角館へ移り、矢吹氏の一部もこれに従ったととされ、これにより名実ともに袖ヶ城はその中世城館としての役割を終えたものと考えられています。
 また「矢吹町史」などによりますと、矢吹氏は石川有光の四男光孚(みつざね)が、鎌倉権五郎景政の子である景経の娘を妻として下野守基時と名を改め矢吹地方を領有したことに始まると伝わります。(「大和源氏石川家譜略」−石川町長泉寺蔵−より)しかし、鎌倉権五郎に関する部分については、ほかの事例と同様に多分に伝承としての要素が多いものと考えられます。
 袖ヶ城は東側の居館である「柳堀込」を含めて国道4号線西側に所在する20mから30mほどの比高差を有する独立丘陵上に所在し、別名を一水館狐が館袖が館とも。

確認可能な遺構
 主郭、腰郭、土塁、空堀ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年4月7日 11時45分から13時30分
訪城の記録 記念撮影

( 2009/06/24 ) ■篠竹の藪+荊ともに大量
 ここも篠竹、荊の道
 先ずは南側水田の農道からアプローチし、東西にのびた丘陵の南麓から最も比高差が少ないと思われる稜線から直登開始。昨今いくら心配機能や足回り等が衰えてきたとはいえ、僅か斜度30度弱・比高約30mに過ぎない見通のよい至って歩きやすい斜面。このため虚弱体質の管理人でも、ものの3分ほどで稜線へと到達。今回の一連の矢吹町遠征が、この程度であればどれほど楽であったろうになどど独り言を。

 それでもこの地域ではお馴染となった藪と荊は、西方の「詰め城」側へと向かう尾根筋の中ほどからは次第に最悪モードに変貌。無論その反面、困難に立ち向かうという何処か嬉しさもあるような...それは兎も角として、密生する篠竹のため、毎度の事ながら先が見えない進めないという事態に直面。お蔭で愛用の水性ボールペン1本を紛失。多分過半数の方々は訪れたとしても、途中撤退するのではと思うくらいの物凄い集密度。目前の遺構の存在が確実なので、ここで昨秋からの藪突入に関する実地訓練が大きく効果を発揮。即ち「藪突入グッズ一式」(ゴーグル、棘が刺さりにくい作業用手袋、方位磁石、拡大地形図、篠竹排除用秘密兵器等々)は常時車載携行。「一般に方向さえ誤らねば、けっして抜けられない藪はない」という今シーズン千葉、茨城、群馬方面にて通算にして延5kmほどの様々な藪を突破した実体験に基づく「座右の銘」も愈々完成の域に。

 とはいえ、南側はかつての石切り場のため垂直10m以上となる露岩の断崖。また予想通り北側には、言葉に尽くせぬほどに濃密な植生の篠竹が蔓延りほぼ進入不可。かりにこの場において鉈鎌(木鎌とも)を風車のように振り回したとしても、安全に1m進むのに数分はかかりそうな按配。あ、竹木の許可なき伐採は不法侵入に加え、かつて「禁制」が認められたように正しく「器物損壊罪」に該当するものと思料いたします。それはともかく篠竹の密度ということならば、このあとで訪れた「大和久館」と並び賞される逸物。

 このような次第で速やかに直進作戦を諦め、転落事故を起こさぬように配慮しつつ篠竹の植生を利用して南側斜面より迂回。先端部分まで到達した限りでは、寧ろこの北西の腰郭先端部から這い上がった方が無難かとも。当該郭の規模は、各資料等に記されているよりも遥かに小規模で、郭内は南北5m×東西15mほどの楕円形。堀切とこれに続く横堀跡も現存はしているものの、想像を絶する濃厚な篠竹の藪は視界を8割方遮断し堀底の踏査確認はおろかデジカメ撮影も事実上不可能な状態。なおこの「詰め城」と呼ばれている個所は、その構造と規模から見るがぎりでは、寧ろ物見としての役割が相応しいという印象が濃厚でありました。

 さて、この篠竹の藪については東側の主郭部でもほぼ同様のため、たちまち空堀直進横断作戦を断念。ただし主郭部分については南側から空堀沿いに迂回し、同好の方々がつけたと思しき踏み跡を辿ると篠竹の密生した堀跡の中で唯一容易に堀跡を越えることのできる個所へと到達できるのであります。なお大手の位置が二の郭が所在する東側方面とすれば、この篠竹に隠された小口ルートはおそらくは搦手になるものものと考えられます。さて予想を遥かに超えて主郭からの眺望は極めて良好というよりも絶景に近く。加えて草木の伐採等の管理のために北側緩斜面麓の民家側からは、二の郭付近まで直接車で上ってくる林道が完成しているのでありました(苦笑)

袖ヶ城遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
袖ヶ城の遠望(南側から) −A−
( 2009/04/07 撮影 )


(注) 「矢印と番号」は、だいたいの撮影地点と方向を示していますが厳密なものではありません。
概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
主郭北西部の平場 ⇒ 画像クリックで拡大します
堀切 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 主郭北西部の平場
 このきれいに削平されている状況からは多分に人工的な印象を受けます。土塁、堀切、切岸等が施されたような形跡は殆ど見当たらず、あくまでも郭跡の存在を連想する削平地です。
 なお、「城郭大系」では「約40平方メートルの平場」と記されていますが、これは明らかな誤植と考えられ、「中世城館報告書」に記載されている「約40m四方の平場」の方がより正しい表現であると考えられます。
前方に潜む篠竹の薮
凸2 堀切
 平場の西端方面には、「詰城」とされる遺構との間に尾根筋を横断する堀切状地形が存在しています。
 なおこの地形はそのまま北側へと回り込む空堀に続き、全体としては「詰城」の北辺斜面に普請された横堀の一部を構成しています。
 ただし、篠竹の密生度には余りに想像を絶するものがあるため、事実上踏査の実施は不可能でした。
堀切に付随する掘上げ土塁

稜線北西先端部の腰郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
「詰城」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 稜線北西先端部の腰郭
 「詰城」とされる小規模な土塁遺構の先端部には2段ほどの腰郭状の地形を認めることができ、この画像は下段部分の腰郭状地形となります。
 なお幾分傾斜の急な坂道ですが、このまま下へと向かえば丘陵先端の麓へと到達するものと思われます。
 当該城館の使用年代によっても異なりますが、一般には「詰城」部分が勢力圏の先端に突出しているということは考えにくく、その立地条件や規模からは隈戸川を挟んで笹目平館、大和久館をその支配下に置いた「支配圏を接する白河結城氏等に対する物見砦のような存在」と考えたほうが無難のように思われまました。
凸4 「詰城」
 関係資料によりますと一般には「詰城」と呼称されている個所ですが、土塁の内側部分では目測・歩測共に南北約5m、東西約15mに過ぎない楕円形状の地形で極めて小規模な郭跡という印象です。
 なお、この遺構規模については「東西30m×南北20mの土塁」(「日本城郭大系」)、「150m四方の土塁をめぐらす詰めの城」(「矢吹町史」)、「30m×20mの平場を土塁が囲んでいる」(「中世城館調査報告」)と様々な記述が見られますが、その遺構の規模に関しては総じて過大なものとなっているようです。
「詰城」の全景 
「詰城」の郭と土塁

「詰城」南側の急崖 ⇒ 画像クリックで拡大します
南東の主郭方面 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 「詰城」南側の急崖
 関係資料には比高差20mとの記述で統一されていますが、高度計、地形図、目測等から判断しますと実際には麓の水田面からは明らかに30m前後の比高差を有しています。
 なお、この南側の露岩部分には数基の横穴が存在しているとのことから、「中世の矢倉群(墓穴)」と考えられている模様です(「矢吹町史」)
凸6 南東の主郭方面
 「詰城」とは正反対の南東方向の稜線部最高地点(約300m)に所在し、主郭、二の郭から構成される郭群と関連遺構が現存しています。
 ただし、明確な遺構が残存する西側部分を中心として篠竹の藪は「詰城」周辺以上に更に濃密な状況です。深さ3m以上、上幅10mを超える個所もある空堀跡ですが、体をこじ入れるのがやっとで堀底踏査と画像の撮影は殆ど絶望的でした。

主郭南側の外部土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 主郭南側の外部土塁
 主郭西側から南側にかけて大規模な空堀とこれに伴う土塁が現存しています。
 画像は南側の外部土塁部分で、画像の20mほど前方で土塁地形は消失し、画像左手に主郭へと向かう小口と推定される通路を確認することができます。
搦手付近の空堀
主郭側から見下ろした空堀 
凸8 主郭付近
 関係資料の縄張図上では主郭と二の郭から構成される郭群のはずなのですが、林道の整備、耕作、植樹などにより地形改変が進行しているらしく、それぞれの遺構範囲については些か分かりにくくなっておりました。
 この点について、強いて言えば画像の左側が主郭部分で、その右側が二の郭部分に相当するものと考えられます。
二の郭東側
大手へと続く小口付近
主郭西側の空堀
僅かに地形の段差が残る主郭付近
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)、「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)

郷土史関係等
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)、
「西白河郡誌(1)」(福島県郡誌集成第6集/1966/福島県史料叢書刊行会)
「矢吹町史第1巻通史編」(1980/矢吹町)
「目で見る矢吹町史」(1975/矢吹町)
「ふくしま紀行 城と館 武者たちの舞台 上巻」(2007/福島民報社)
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
⇒沼舘氏の論考に登場する「矢吹舘」については、「矢吹町西側台地に所在する屋敷型の平舘とし、低地に所在することから地形的防御性を欠く」との記述があります。須賀川市からの距離・方位など 所在地としては袖ヶ城の居館部分である柳堀込におおむね合致する部分も見受けられますが、低地ではなく低丘陵上に所在していることから同一の遺構と捉えるには幾分無理がありそうに思われます。

史料
「白河風土記 全14巻」
 白河藩の儒学者である広瀬典が江戸時代の寛政年間(1789-1801)に編纂した白河郡、岩瀬郡、石川郡に関する地誌。「福島県史料集成第4巻」(1953/福島民報)、「白河郷土叢書下巻」(1976/歴史図書社)に収録。なお、昭和初期に復刻された和装本は古書による入手が可能。

その他
福島県文化財データベース

・2009/06/25 HPアップ
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