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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/04/07のブログ 笹目平館
所在地
 福島県西白河郡矢吹町
歴史、人物、伝承

多賀谷左兵衛尉の居城とも
 大和久館は戦国時代末期には石川氏の支配下にあったとものと考えられる「袖ヶ城」の南西約1.5km付近の丘陵地帯にあり、現在は矢吹町北西部に所在する工業団地北東の一角に所在しています。また北西約600m付近には「笹目平館」が所在し、西南西700m付近にも中世城館の存在の可能性を示唆するものと考えられる「北ノ内」(旧大信村、現白河市)の小字名も残されています。
 「矢吹町史通史編」などによると、文保2年(1318)の関東下知状において、大和久が白河荘内郷村でありその地頭職が結城盛広である旨が示されています。(「熱海白川文書」/福島県史7巻より)
 16世紀半ば過ぎの戦国時代には、この地域は石川氏と白川結城氏の勢力が拮抗していたものと推定され、「白河古事考」「矢吹町史通史編」などによると、永禄年間(1558-1570、永禄3年とも)に白川結城氏と二階堂氏の間に争いが起こり、石川氏・佐竹氏の支援を受けた二階堂勢の攻撃により、この当時最前線に所在していた白川結城氏重臣である多賀谷左兵衛尉の大和久館が落城したとの伝承もあるとのこと。
 なお「目で見る矢吹町史」では、この大和久館落城について「文禄年間」(1592-1595)の出来事である旨が記されていますが、この点について地下人階層などによる一揆等を別にすれば、豊臣秀吉の全国統一以降において発生した事件であるとは些か考えにくいものがあるのではないかと思われます。
 当該城館遺構については「矢吹町史通史編」の記述によりますと、「海抜323.5mの丘陵上にあり土塁は一辺50m四方で周囲に空堀をめぐらせ、大手口は東に通じ大和久の集落に続く」との記述がなされています。実際に当該遺構は概ね丘陵山頂部分とその東側の緩斜面に一帯に残存している様子が窺われます。
 また隣接する笹目平館と同様に隈戸川西岸の丘陵地帯に所在しますが、対岸に所在する袖ヶ城方面を含めて東側の眺望は遥かに良好であり石川氏、二階堂氏等の敵対勢力に対する白川結城氏の拠点のひとつであったことが窺えます。
 近世初期の蒲生氏検地目録である「蒲生高目録」では大和具265石余とされていることから、おそらくは当該大和久地域の延戸数20戸ほどの集落を直接その支配下においていたものと推定されます。近世の大和久は奥州街道(奥州道中)の宿駅となったことから、従前に於いても交通の要衝であったものとも推量されますが、その戦国期の状況については余り明確とはいえない模様です。

確認可能な遺構
 空堀、主郭、土塁、腰郭(2の郭)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年4月7日 14時25分から15時10分
訪城の記録 記念撮影

( 2009/06/18 )
 見通しが...
 直前の笹目平館では不発のためかなり凹んでいたことから、現地到着後やにわに昨日購入したばかりの「矢吹町史」を車の中で取り出して、これでもかとばかりに山頂部分の残存遺構の状況について再三再四確認とモチベーションを鼓舞。無論眼前には突入を躊躇うような、何やら底知れない趣を醸し出している「篠竹の藪+荊」の頑強なる防御線が行く手を阻害。意を決して可能な限り楽をしてアプローチをすべく、南東方向の比高差の少ない篠竹が密生する地帯から突入開始。
 篠竹の枯葉や蜘蛛の巣を顔面に受けつつ、やや緩斜面に構築された人工的な削平地(推定腰郭)と思しき地形を直進し、そのまま北側へと進路をとり最も遺構が明確な遺構である北側の堀跡へと到達することに成功。
次にその堀跡に沿って愈々その密度を増す篠竹(アズマザサ)と荊の密生地帯を西進して主郭北西部コーナーへと到達。ここで西側の一部については、どうにか確認できたものの途中で藪と荊のため立ち往生したために、当初描いていた反時計回りによる踏査計画を断念。
 こうなれば深さ最大3m前後の空堀の底に下り立ち、そのまま主郭の縦断へと方針変更。しかし、アズマザサと荊を中心とした藪の密度が余りにも濃密なため、またしても視界と進路を阻まれて立往生。このため主郭部を南側へと縦断する気力さえも薄れ、そのまま北側の堀跡沿いに東側へと後退を余儀なくされることに。次に南側を踏査すべく東の腰郭と考えられる緩斜面の削平地から回り込もうと試みたものの、殆ど視界が確保できず再び言いようの無い疲労感と挫折感を味わうことに。
 実のところ、この時点では既に遺構南部の状態を踏査確認するための僅かばかりの気力さえもあらかた喪失していた模様なのでありました。さて、よくよく思い巡らせば、連日で当該遺構が通算6度目となる藪漕ぎの敢行。加えてこの日は年甲斐も無く午前5時半からの探訪開始という暴挙を企てていたために、正しく気力・体力も最早完全に限界点に達していたのでありました(苦笑)

東側からの大和久館全景 ⇒ 画像クリックで拡大します
大和久館の全景 −A−
( 2009/04/07 撮影 )


(注) 「矢印と番号」は、だいたいの撮影地点と方向を示していますが厳密なものではありません。
大和久館残存遺構の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
主郭北側の空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭北東部 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 主郭北側の空堀
 正直なところ、これが唯一城館遺構らしい画像であります。一応画像右側が主郭部に相当しますが、季節を問わず殆ど見通しが利きません。深さは主郭側で2.5mから3m弱、幅は約8m前後というところです。
 なお主郭側には0.5mほどの低土塁が確認できましたが、幾度も角度を変え篠竹を足で押え撮影を敢行しましたが写っているのは篠竹の藪のみでありました。
 このような状況に対応すべく、予めゴーグル、ヘルメット、枝払い用品等一式を携行しておりましたが、体自体が前へと進まずこの空堀跡を踏査することはほぼ絶望的でありました。
凸2 主郭北東部
 この画像も一応主郭部の北東角付近と東側の空堀跡を撮影しているつもりでなのですが、こちらもご覧のとおりの無残な画像となっております。
 主郭部の切岸の高さは未来足で約2mから3mを測ります。なお、この東側から主郭内に突入することもまた同様に不可能なのでありました。
 かくしてこうした事情が幾重にも重なりあい、とうとうこの日は予定を切り上げて帰宅する段取りとなっていったのでありました。

主郭東側 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭東側腰郭(2の郭) ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 主郭東側
 主郭の東側には主郭より一回り規模の小さな人工的削平地(腰郭、あるいは2の郭)が所在しています。
 これも大変分かりにくい画像ですが、画像手前の幾分明るい部分が腰郭に相当する切岸直下の緩斜面なのであります。
凸4 主郭東側腰郭(2の郭)
 東側の腰郭部分を東側から撮影したものです。淡い緑色に見える篠竹の部分が主郭の東側切岸部分で、手前の杉の植林部分が腰郭の中心となるはずなのですが何とも分かりにくい画像となっております。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)

郷土史関係等
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「西白河郡誌(1)」(福島県郡誌集成第6集/1966/福島県史料叢書刊行会)
「矢吹町史第1巻通史編」(1980/矢吹町)
「目で見る矢吹町史」(1975/矢吹町)

史料
「白河古事考 天・地の巻」
 同じく広瀬典が文政元年(1818)に編纂した近世地誌で、「白河風土記」の編纂の際に収集した古記録・古文書等に基づくものとされている。「福島県史料集成第1巻」(1953/福島民報)、「白河郷土叢書上巻」(1976/歴史図書社)に収録。

その他
福島県文化財データベース
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。


・2009/06/18 HPアップ
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