凸石川氏、白河結城氏との関わり 笹目平館は袖ヶ城の西方約1.5km、旧大信村(現白河市)との境、釈迦堂川支流隈戸川左岸に所在する標高290mほどの低丘陵東端部に所在しています。 当該城館跡については「日本城郭大系」のみならず「矢吹町史」などにも収録されていないもので、県教委実施の「中世城館調査」により別途その所在が確認されたものと思われます。 当該調査に基づくものと思われる「福島県文化財データベース」の情報によりますと、標高320mを有する低丘陵の山頂部から東方にのびる丘陵先端部に所在しているものとされ、麓の水田面との比高差は約20mを示し、おおむね東西約300m、南北約200mの範囲に所在していることなどが記されております。 また「角川地名大辞典 福島県」によりますと、城館名の「笹目平」(ささめだいら)および所在地名の「堰の上」(せきのうえ)の地名は当時の大和久村の小字名として明治15年の地籍図等に見ることができますが、これらが中世に遡る地名であるか否かについては定かではありません。 なおその歴史的な経緯に関しては委細不明の模様ですが、恐らく戦国時代後期にはその地理的な条件から見る限りでは、石川氏あるいは白川結城氏等に帰属する在地領主階層の館として利用されていたものと想定することが妥当なものと考えられます。
( 2009/06/15 ) 凸 遺構未確認 「福島県文化財データベース」によれば、耕地整理された水田地帯南部の丘陵地帯に空堀跡が所在するとの情報。 ところが北麓の畦堀のようにしか思えない溝部分を除けば、丘陵上には横堀、堀切、竪堀を含むいずれの地形も確認するには至らず。かくしてこの日も前日に続き、いささかモチベーションが低下傾向を示し始めてきたのであります。 また当該丘陵地帯は周囲の丘陵地帯と比較しても標高が20m以上低く、南方に所在する大和久館の立地条件と比較しても眺望自体は決して良好とは言い難いものがあります。 一方北側の谷を隔てた丘陵地帯などの周辺部には、当該城館よりも遥かに城館の立地条件として相応しいと思われる地形が数ヶ所ほど確認できましたが、藪の状況と足元の具合を勘案して即座に踏査を断念。
・いつもガイド の案内図です