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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/04/07のブログ 三城目城 古館 佐久間館
所在地
 福島県西白河郡矢吹町須乗丸の内(舘山)
歴史、人物、伝承

白川氏一族小針氏の居城と伝わる
 「白河古事考」「矢吹町史」などによりますと、白河結城氏の異母兄弟であった滑津城主である小針山城守頼広が築城し、天正年間の初めに滑津から居を移したとされていますが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置の結果白河氏が没落し廃城となったものと考えられているようです。
 滑津館(現西白河郡中島村)の規模と比較した場合には、防御的側面を別にすれば明らかに前者の方がより広域支配をすすめる上で都合のよい立地条件であることから、隈井城から三城目城へと移転した中畑氏の問題と関連して、白河結城氏重臣層内部での配置換えを余儀なくされるような何らかの事情が存在した可能性も想定されます。
 この点については佐竹氏の侵攻に伴う白川氏内部での対立抗争である「天正の変」をその背景としてあげることができますが、無論あくまでも憶測の域を出ないものでありその相互関係の詳細については不明です。
 なお城主であった小針氏の子孫はその後帰農して中畑村の庄屋を務め、その中畑村には幕末に棚倉藩から分かれた松平氏の旗本陣屋(中畑陣屋)が置かれていたことなどが現存する近世史料からも明らかにされています。

確認可能な遺構
 土塁、空堀、小口、主郭
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年4月7日 6時15分から7時45分
訪城の記録 記念撮影

( 2009/06/13 )
 遺構さえあれば茨の道も・・・
 当日の前日に購入した「矢吹町史」によると、山頂部分に100m四方の土塁跡が残存しているとの誠に有難い記述があります。とはいうものの、当該町史が刊行されてから既に30年近い月日が経過しているという厳粛な事実であります。さらに調査時点から見れば恐らくは30数年間以上が経過している模様かとも推察されます。こうした事情から、その間の土地利用の変遷に伴う地形改変の影響は「沢尻館」などの事例に如く計り知れないものがあることを連想いたしました。遺構の残存確率については自らの拙い経験上からでは凡そ直感で50%程度ぐらいかと思いました。
 予め現地での縄張図作成も視野に入れて早朝からの探訪開始となりました。比高差が少ないとはいえ直登を避けるべく北側の尾根筋から迂回してみました。この迂回ルートの途中までは、かつて軽トラックさえもが走行していた形跡のある良好な山道であります。無論、途中の分岐からは、予想していたこととは言いながらお馴染みの「篠竹の藪+荊」の連続となりました。この間の稜線の移動距離は直線で約250mほどに過ぎないものの前日に続いて再び手足は傷だらけの状態でした。
 しかし藪との格闘ののちには、植林の先の幾分視界が広がりを見せる丘陵先端部に間違いなく土塁と空堀が現存していることを確認して小さくガッツポーズを。ただし、その規模については100m四方よりはやや小ぶりな印象もあります。主郭部については凡そ東西60m×南北50mの規模で、東側の一部に耕地化に伴う地形の改変跡を確認。残念ながらこれに伴うであろう堀跡は東側ではほぼ完全に消失した模様です。然しそれ以外の個所では概ね遺構の現存を確認することができました。
 この地域の丘陵上の城館跡のモデルケースの一つとして認識できたことはそれなりに大きな成果かと思われました。こうなると現金なもので、体中に刺さりまくった荊の跡も全く気になることなどはありません。
 なお西側斜面の谷筋から比高差にして40mほど直登すれば、意外と楽かも知れないと感じたのはタカナシ城の帰りがけに遠景を観望すべく立寄った際のことでありました(苦笑)

物見館東側からの全景 ⇒ 画像クリックで拡大します
物見館東側からの全景 −A−
( 2009/04/07 撮影 )


(注) 「矢印と番号」は、だいたいの撮影地点と方向を示していますが厳密なものではありません。
物見館概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
遅霜の物見館遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
突入直前の藪 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 遅霜
 前日の天気予報通り、4月であるにもかかわらず降霜となり、車のフロントグラスはものの見事にガリカ゜リに凍結。南奥福島県南とはいっても、やはり東北地方なのでありました。
 また東側から眺めた物見館は、気温の上昇に伴う地表からの大量の水蒸気のためにボーッと霞がかかっておりましが、この時点で時刻は6時前で気温は摂氏2度前後。気温は低ければ低い方が元気が出る体質なので有難いことこの上なく。
凸2 突入直前の藪
 篠竹(アズマザサ)と荊が混じりあう約250mほどの尾根筋南下ルートの入口。初めて訪れることもあり、地形図をじっくりと確認し、確実に目的地に到着できる確信のあるルートではありました。
 入口部分はこのような状態で腰が引けそうになりますが、ルートの半分ほどはおおむね足下が見えるので比較的気楽なアプローチであります。
 正面の一番高く見えるあたりが、物見館の主郭部分に相当するものと思われます。

物見館北西部の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
物見館南西角付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 東辺部の土塁
 城館跡は全体として藪に覆われているため、方形城館跡としての土塁のラインを最もよく観察することができるのはこの主郭東辺部付近となります。
 地山の地形を活用しているためか、基底部での幅は10m前後を有し、そうした土塁の質感が予想を超えた重厚な印象を与えてくれます。なお、左側の堀底は余りに藪が酷く歩行不能。
凸4 南西角の手前付近
 陸奥では早春ともいうべき絶好の季節ではありますが、生憎と枯草等が大量に残っておりました。
 従って肉眼では明確に土塁のラインや主郭の切岸を確認できますが、デジカメで撮影しますと結局はこのような茫漠とした画像になり果てるのであります。

物見館南西角 ⇒ 画像クリックで拡大します
物見館北辺部 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 南西角部分
 この東側付近の空堀の深さは、現状でも主郭側で概ね3mから4m、土塁側で2mから3mの深さがあり、堀幅については上面で約12mから15mほどの規模を有していました。
凸6 北辺部
 左の画像から空堀を左側に折れた辺りの画像。堀幅がある程度広いために主郭部と土塁との高さの相違が分かりにくいのですが、画像左手の主郭側の方が2m以上高位置に所在しています。

物見館南辺部からの眺望 ⇒ 画像クリックで拡大します
物見館南辺の西側部 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 南側からの眺望
 現在はこのような枯草のためあまり見通しが良いとはいえませんが、元来は丘陵南端部に所在しているため稜線続きの北側部分を除いては極めて優れた眺望を得る地形となっています。
 5mほど高位に所在する主郭上からの眺望はさらに優れているものと思われますが、時間の関係などの事情により未確認となりました。
凸8 主郭南辺の西側
 南辺は西側の一部のみ土塁と空堀が残存していますが、東側の大部分については後世の開墾などにより遺構が消失しています。
 一方で主郭の切岸自体の高さは東側よりも約1mほど高くなっているようで、本来堀底部分となるこの下方付近から見上げますと意外なほどの威圧感も感じられます。

物見館主郭南辺部 ⇒ 画像クリックで拡大します
物見館の主郭東側 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 主郭南辺部の東側
 「8」の撮影地点からさらに東側に移動し、ほぼ南東角に近い位置から主郭南側を撮影したものです。
 画像ではかなり藪が酷く見えますが、肉眼では南西部角がやや南側に突出しているといった郭のラインを読み取ること自体は可能です。
凸10 主郭東側
 画像中央部に所在する落葉樹の高木のある辺りが主郭の中心部となりますが、画像左側の南側部分の方が幾分高くなっているように思われ、標高は最高地点で306m。
 山頂部は城館の普請にあたり、一定の削平を受けていますが、「凸12」の画像が示すように東側へと緩やかな傾斜がかかっています。
凸10-1 主郭北東部
 主郭の切岸自体は余り地形の改変を受けているという印象は少なく、ほぼ原形を保持しているように思われます。
 切岸の傾斜角は約40度前後で、高さは4mから5mを測りますので這い上がるの藪と荊が立ちはだかっているためにかなり困難な様子でした

物見館主郭東側 ⇒ 画像クリックで拡大します
物見館の東側ルート ⇒ 画像クリックで拡大します
凸11 主郭東側
 方形館であるとすれば本来はこの部分にも東、北の二方向と同様に空堀と土塁が存在していたものと推定されますが、現状では放置された農耕地跡と梅畑となっておりました。
 なお、当該削平地部分に現存する土塁と空堀を当て嵌めてみますとほぼ符合する広さとなっていることから、方形館であったことはほぼ間違いがなさそうです。。
凸12 東側のルート
 痩せ尾根となった東側稜線をたどる南側麓に所在する集落へと続いていると思われる山道でしたが、その詳細については未確認です。
 なお、画像左側には背丈ほどの高さの人工的な盛り土跡を確認できます。東側の土塁を削平した際に生じた残土を移動したものかも知れませんが、当該城館跡との関連は不明です。

物見館の農耕地? ⇒ 画像クリックで拡大します
物見館北辺の空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸13 農耕地?
 主郭東側の削平地の下方4m付近からは3段ほどの人工的な削平地を確認することができます。
 無論後世の開墾による農耕地跡とも考えるべきかも知れませんが、付近に所在する三城目城の事例、斜面の角度、それぞれ3m前後という比高差を有することなどを考え合わせますと、郭跡のようにも見えてくるのでありました。
凸14 北辺の空堀
 東側から撮影をしたもので、画像左側が主郭部となります。主郭側切岸の高さは約4m前後で右側の土塁部分に比べて1.5mから2mほど高位に所在しています。遺構としての残存状況は概ね東側と同様に良好ですが、こちら側は歩行するにはおおむね支障がありませんでした。

物見館北辺の遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
物見館主郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸15 北辺の遺構
 主郭北辺の土塁上から、ほぼ完存している空堀と主郭北東部付近を撮影したものです。堀幅は上面付近で約10mほどで、深さは約4mの規模。
 一方土塁の規模は東側よりも地形改変の影響を受けていることもあるようで、多少幅の狭さを感じさせます。
凸16 主郭
 本来ならば主郭内部も詳細に地形観察をすべきところでありましたが、余りの藪の酷さにとても主郭部本体へと足を踏み入れることができるような状態ではなく、あくまでも北辺の土塁上から撮影したものです。
 また「目で見る矢吹町史」によりますと、主郭内には中世の板碑が残存するとのことでしたが、主郭内部を踏査するだけでも1時間近くはかかるものと思われこのあとの予定を考慮して捜索を断念。

物見館主郭小口? ⇒ 画像クリックで拡大します
物見館小口? ⇒ 画像クリックで拡大します
凸17 主郭小口?
 主郭北辺の中央付近には深さ約4mの空堀の底から這い上がることのできる道筋がつけられておりましたが、恐らくは後世の耕作に伴うものであるような印象でした。
 しかしほかに主郭部へと到達すべきルートが全く見当たらないことから想定しますと、昔日の小口をそのまま農道として利用していたという可能性も否定できないように思われます。
凸18 小口?
 主郭北辺西端には明確な土塁の切れ目が存在していましたが、この地形が果して小口なのか後世の地形改変なのかは今のところ確信を持つに至ってはいません。
 ただし耕作のためのルートとしては、画像「凸13」東側の尾根筋経由の山道の方が麓の集落にも近く遙かに利便性が高いことを考え合わせますと、一概に小口としての可能性を否定することも相応しくないように思われました。

物見館主郭北側の植林帯 ⇒ 画像クリックで拡大します
物見館主郭北側の植林帯 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸19 東側の土塁と切岸
 遺構としての整備などがまったく行われていないことも影響しているのかも知れませんが、全体として当該城館遺構を見た場合には、やはりこの東側土塁の圧倒的な存在感が最も印象的であります。
 本来の地理的条件は山城であるにもかかわらず、そうした地形要素をあまり活用せずに、半ば無理やり方形館にしているという愚直なまでの拘りが伝わってくるようで非常に魅力的に感じられます。
 ただしデジカメ撮影には不向きであることだけはまぎれもない事実なのでありました。
凸20 主郭北側の植林帯
 後世の耕作や植林のために地表の形状が大きく改変されているとも考えられますが、仮に白川氏一族である小針氏の居城であると想定した場合には100m四方に満たない単郭方形の縄張りというのは幾分再考する余地がありそうです。
 因みにこの北側に所在する植林帯についても、一定の区画を形成しているようにも思われ、強いて言えば切岸・土塁・小口の形跡を感じられなくもないような地形が残されておりました。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)

郷土史関係等
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「西白河郡誌(1)」(福島県郡誌集成第6集/1966/福島県史料叢書刊行会)
「矢吹町史第1巻通史編」(1980/矢吹町)
「目で見る矢吹町史」(1975/矢吹町)

史料
「白河風土記 全14巻」
 白河藩の儒学者である広瀬典が江戸時代の寛政年間(1789-1801)に編纂した白河郡、岩瀬郡、石川郡に関する地誌。「福島県史料集成第4巻」(1953/福島民報)、「白河郷土叢書下巻」(1976/歴史図書社)に収録。なお、昭和初期に復刻された和装本は古書による入手が可能。

「白河古事考 天・地の巻」
 同じく広瀬典が文政元年(1818)に編纂した近世地誌で、「白河風土記」の編纂の際に収集した古記録・古文書等に基づくものとされている。「福島県史料集成第1巻」(1953/福島民報)、「白河郷土叢書上巻」(1976/歴史図書社)に収録。

その他
福島県文化財データベース
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。白川結城氏・小峰氏の動向に関しては白川氏の家督争いである「永正の変」および「天正の変」に関する論考が収められている。

・2009/06/13 HPアップ
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