凸伝・佐久間氏の居館 「矢吹町史」などによりますと、応永年間(1394-1428)に白川結城氏の家臣となった佐久間三郎左衛門常秀の居館であったと伝えられているとのことです。佐久間氏はその後天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥州仕置きにより帰農して、その子孫は矢吹村の庄屋を務め、その後明治時代に入り三神村の村長を務めたと言われています。(⇒佐久間家に先祖代々伝わる家伝のようなものか) なおそのあくまでも地理的な要素のみから考えますと、戦国時代末期には南西方向に所在する物見館とともに三城目城を本拠地とした中畑氏の影響下に置かれていたものと推定されます。また、周辺には関根館、猪合館と呼称される館跡も所在したと伝わりますがその詳細については不明です。
( 2009/06/03 ) 凸 あくまでも三城目城のついで タカナシ城(三城目城)へのルートの途中に所在するので立寄ったまでのことで、より正確にいえば一筆書きの要領で矢吹町内を可能な限り効率的に回ろうとした結果なのであります。 この日の前日の夕刻に購入した 「矢吹町史」では牡丹平の丘陵地帯と記され、県教育委員会が主導した「中世城館報告書」では水田と集落が混在する丘陵地帯の麓に所在する西原集会所の辺りの平地を推定地としております。いずれにしても伝承地としての要素が濃厚な城館跡であることから、当初からそれ以上の詮索はしないものと決めておりました。 西原集会所付近の様子は、下記の画像のように館跡としての形跡は限りなく皆無に近いものがあり、地形上だけの要素をとるとすれば、寧ろ小字中丸の集落北側や小字本城館背後の丘陵の方が遥かにそれらしい地形を呈しているのでありました。一方牡丹平の丘陵地帯の方については、工場建設等のために地形の改変が著しい模様です。
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