凸泉川弾正の居館という伝承 「矢吹町史通史編」(1980/矢吹町)によりますと、古舘は「南北300メートル、東西60メートルの長方形の遺構」とされ、土塁等は失われていると記載されています。 この短冊形城館遺構というのは現実問題としてやや理解しがたい側面がありますが、西側には明らかに土塁跡と推定される地形が現存するだけではなく、東側の水田との境界部分には郭跡に関連すると思われる切岸状地形も確認できます。 同史によれば、舘主は泉川弾正と伝わるとされ、館跡からは茶臼などの中世の遺物が検出されているとのこと。また「目で見る矢吹町史」(1975/矢吹町)によると天分年間から元亀年間ころまで、泉川弾正(泉川大学介)が居住したと記され、永禄年間に中畑上野介晴辰が三城目城を簒奪した際にその家臣となり、天正16年(1588)に没したと記されています。(典拠資料は不勉強のため不明 ⇒ 「白河古事考」などか) いずれにしても戦国時代末期には周辺の勢力関係から、隈井城(別名:観音山館)等を本拠とした中畑氏の影響下に置かれていたものと推定して差し支えないものと考えられます。
( 2009/05/20 ) 凸 うれしい誤算 水田地帯のため土塁と郭の残存情報も心許無い次第。 しかし、予想以上に良好な土塁+郭の切岸が現存。 西辺の土塁延長はおよそ60mから70mで、切岸状の部分は高さ2mから3mという規模。郭東側の切岸は最大で高さ4mに及ぶような個所も存在(多分に後世の補強等の地形改変含む) かくて2勝11敗1分けとなるべきところをどうにか3勝10敗1分けに。ここまで手足に刻まれた荊の傷の痛みに加えて9割方心が折れた管理人でありましたが、この古舘の存在は正しく明日への希望と活力を与えてくれたのでありました。
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