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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/06/17のブログ隈井城 国神城
所在地
 福島県西白河郡矢吹町本城館
歴史、人物、伝承

安積伊東氏一族の居館とも
 「白川古事考」によりますと、鎌倉時代の初めに小松越前によって築かれたと伝わり、その後安積伊東氏の一族とも云われる伊藤氏の居館として存続します。その後伊藤氏は戦国期には二階堂氏、石川氏などに属しますが、宗家である安積伊東氏の没落に伴い次第にその勢力を弱め、永禄年間には南西の白川結城氏の庶流とされる観音山城主中畑氏(中畑晴辰)により攻略されたということが伝わっています。(※「現地解説板」等より引用)
 南北を阿武隈川の支流によって囲まれた矢吹原台地の東端に所在し、南北約500m、東西約400mという広大な領域を占め、水田面との比高差こそやや少ないものの、関係資料によれば複数の郭群を伴うとともに、主郭だけでも5千平方メートル以上の規模を有する壮大な城館となっています。
 こうした状況から安積伊東氏の庶流であるとともに、仮に周辺の豊かな水田地帯および古代東山道の宿駅ともいわれる三城目集落をその支配下に収めていたと考えたとしてもあまりに広大すぎるという印象が拭えません。あくまでも推測の域を出るものではありませんが、二階堂氏による支配を受けていた天文年間にその重臣である須田氏により拡張された可能性などが想定されるようにも思われます。
 別名を「タカナシ館」(たかなしたて)、「鷹巣城」(たかのすじょう)、「小鳥遊館」(たかなしたて)とも呼ばれ、天正18年(1590)の奥州仕置を契機として廃城となったものと考えられています。

確認可能な遺構
 郭、土塁、空堀、切岸、小口など(殆ど未確認のため関係資料による)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年6月17日
 2009年4月7日 8時30分から11時20分
訪城の記録 記念撮影

( 2008/08/05 )
 立入るべきか否か
 東西南北共に400mほどの広さを有する大規模な低丘陵なので所在地自体は直ちに判明。しかも当初の予想に反して、入口の道路脇には丁寧な説明板までも設置されておりました。しかし訪れた時点ですでに時刻は夕方の午後5時過ぎ。日没までの残り時間も残り少なく著しい情報・資料不足の反面、目の前には明らかに遺構と思しき郭跡や切岸が各所に展開し、ざっと見学するだけでもとても1時間では収まらない可能性が濃厚。このあと最低でもあと1ヶ所は訪れることと、ビジネスホテルのある郡山まで向かう所要時間などの諸事情を勘案。手前の県道沿いの南側付近の畑の段差等をチラッとだけ拝見し、涙をのんで次の目的地である三城目城とも因縁の深いとされる観音山城方面へと移動。
 城跡全体として農耕地が大半を占めているものの、かなりの遺構が残存していることは間違いなさそうな様子。晩秋を待たないでもある程度は見学可能な状況のように窺えますので、今年の秋口の比較的早い時期に再訪する予定に織り込むことに。ただし問題は「許可なく立ち入ることを禁ず」との看板が所在しているという事実で、実際のところこの日敢えて深入りをしなかった理由の一つでもありました。あくまでも「野生植物保護のための三の郭など南側部分を指す限定的なもの」と解釈できるようにも思えるのですが、念のためトラブルの発生を未然に防ぐべく事前にしっかりと確認をしておく必要を感じました。

( 2009/07/25 )
 桁違いの空堀
 この日のメインテーマは2008年6月時探訪時以来となる当該遺構の全容を把握するという宿題の解決でありました。とはいうものの、その当時と手持ちの情報は余り変わらないため、やはり当初は位置関係の把握に四苦八苦するような始末。たまたま農作業のためにおいでになった地元の方に伺ったものの、現在地等を特定するまでには至らずじまい。
 それでも主郭小口付近の地形等から、徐々に現地と資料の縄張図に記された各郭との相関関係が判明してきたのでありました。また主郭北西部には手持ちの資料には記されていない、高さ約3m、延長約100mに及ぶ壮大な土塁遺構が現存していることも確認。ここで地元の農作業中の方から主郭部に関する見学の了承をいただき、遅霜の被害の有無などに始めとした世間話に花を咲かせることに。直接城郭関係の話題には及ばなかったものの、その場で採取されたサラダ野菜までいただくこととなり正しく幸甚の至り。
 残存遺構のうち取り分け圧巻なのは、やはり二の郭北側の空堀跡かと。何と幅開墾された農地のど真ん中に、何と上幅約20m以上、深さ4mから最大8mにも及ぶ長大な空堀の一部が現存しておりました。なお、 この遺構の所在は麓側からでは死角となるために把握することがほぼ困難な状況で、 二の郭の北端部分で俯瞰したのちに漸くその位置関係と遺構残存状況を理解したような次第なのでありました。

「三城目城の遠景」 ⇒ 画像クリックで拡大します
大手方向から眺めた三城目城遠景
( 2008/06/17 東側より撮影 18-250mmの広角側で納まらず )

(注) 「矢印と番号」は、だいたいの撮影地点と方向を示していますが極めて大雑把なものです。なお、概念図自体は「中世城館報告書」掲載の略測図を基本としつつ、必要に応じて現地での印象を加味して一部訂正を加えさせていただきました。

三城目城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
「県道42号線の道路標識」 ⇒ 画像クリックで現地解説板へリンクします
「南側部分」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 「三城目」の文字のある道路標識
 この日はこの時点で8か所ばかり巡って石垣遺構1ヶ所、説明板及び石碑が一つという状況。念のために城館にかかわるものが何も見つからないことを想定して撮影したものですが、結果は全く無用の画像となりました。

凸2 南側部分の遠景
 県道42号線のため切り通しとなっている拡大画像の左端に現地解説板(黄色の⇒)が設置されています。また画像右側には郭跡と思われる段築状の地形も確認できます。⇒北側部分の遠景(画像右側が主郭方面と推定)

「主郭方面」(推定) ⇒ 画像クリックで拡大します
「南東部の郭状地形」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 南東部分
 比高差などから推定しますと主郭は恐らく画像左手方面と思われます。また正面、左側何れも間違いなく郭群とその切岸に相当する地形と思われます。こうしたことからも居館というよりは城郭という方がより相応しい城館です。

凸4 郭状地形上より主郭方面
 南東部分に所在する「凸3」の左側の郭状地形の上から撮影したものですが、この時点では余りの資料不足のため「郭名」などの明確な情報・現在位置等が不明なのでありました。


下記の画像は2009年4月7日の再訪時に撮影したものです
大手ルート付近の画像 ⇒ クリックで拡大します
広大な主郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 主郭へのルート
 主郭小口へと向かう大手側のルートで、画像右側の窪地は5-1幅10m前後の空堀跡ではありますが、農地として利用するために埋め立てられている状況が見てとれます。
⇒5-2「城見」南西部 
⇒5-3大手ルート泉川屋敷付近より

凸6 主郭南西側土塁
 主郭部分は80m×120mほどの不整形ですが、思いのほか広大な規模を有しています。
 6-1北西部の土塁は延長約100mの規模で多少の折歪の形態をとっていることが窺われます。また、上記画像の南西部土塁は二の郭側へと幾分張出すような格好で部分的に残存しています。


主郭北西側土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
二の郭切岸 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 主郭西側土塁など
 主郭北西部と南西部の切れ目部分(小口か?)の直下に正体不明の石材が転がっていましたが、これらが後世の石切り場乃至は城郭に関係するものであるかどうかについては今のところ皆目不明なのでありました(恥)
⇒7-1石垣の名残り?のように見えなくもない景観
⇒7-2崩れた石垣の一部?であるようにも見えなくもない、やや新しさも感じる人工的に整形された大石。

凸8 二の郭切岸
 杉の植林帯に覆われた二の郭北側に所在する非常に特徴のある8-1腰郭状の張出し部分
 「中世城館調査報告」の略測図では、この付近一帯の地形表現が幾分曖昧であるように思われます。
 なお、仮に画像「7」の土塁切れ目が主郭の搦め手であるとするならば、当該張出し部分が「横矢」をかける構造として意味を有する普請であると考えることもできますが、あくまでも憶測の域を出るものではありません。
⇒二の郭北西直下に所在する「ダン」と呼称される地点より14-1「矢吹クルワ」方面 


二の郭北端部 ⇒ 画像クリックで拡大します
二の郭から俯瞰した空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 二の郭北端部
 画像左側の主郭部分と画像手前の二の郭とでは比高差については、それほどの比高差がありません。
 画像の中央部は「田子主膳屋敷」と呼称される東側に出枡状の地形を伴う削平地です。
 「中世城館報告」掲載の略測図では、上記画像の個所についてもやや現状とは異なる縄張りを示しています。
⇒6-2主郭と二の郭の間の空堀状地形
⇒9-1二の郭南東の辺縁部
⇒9-2二の郭小口へのルート

凸10 二の郭南端から俯瞰した空堀
 この個所の堀底から二の郭までの比高差については、およそ8mから10mの規模を有ており、空堀遺構としての景観について最もよく認識できる場所であると考えられます。
 ただしあまり端の方へと接近しすぎますと、当該郭の辺縁部はこのように枯草に覆われていることもあり、かなりの確率で平均斜度60度前後の急斜面を転落するのであります。
 無論運が良ければ捻挫や打撲程度で済むのかも知れませんが、偶々落ち方が悪ければ果してどういう目に合うのか全く見当がつかないのであります。


二の郭南東部から俯瞰した空堀等 ⇒ 画像クリックで拡大します
「城見」南郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸11 二の郭南東から俯瞰した空堀と郭跡
 二の郭と三の郭を区画する巨大な空堀跡の先端部分のようにも見えますが、三の郭の大半(画像の中央部分)が耕地化などにより削平されているものと考えられることから、少なくとも画像右上の木立付近あたりまで続いていたのではないかと推定されているようです。
⇒10-1空堀北西部の拡大画像
⇒11-1「城見」南東から「二の郭」「田子主膳屋敷」方面 
⇒11-2同上 

凸12 城見方面
 月輪と呼ばれる郭の東側の農道部分から、「城見」の南部、「泉川屋敷」「二の郭」方面を撮影したもの。画像右手の土塁状地形は「城見」を南北に区画している切岸状地形です。
 またその上部に見える杉の植林帯が二の郭に相当するはずです。
 なお画像中央部の12-1土壇状地形土壇状地形については、当時の城郭に関連するものか、近世の宗教施設跡(祠跡など)なのか皆目見当がつきません。

空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸13 空堀跡
 民家宅地の裏側(北側)の丘陵地帯に隠れるようにして所在し、現状はこのように農耕地化されていると共に、余りにその幅が広すぎることから、俄かには空堀跡であるとは想像することが難しい地形なのでありました(汗)
 なお画像の右側が二の郭の切岸なので、試しに這い上がろうとしましたが掴まるものがなく登攀困難でありました。
三城目城遠景
凸14 空堀跡
 左の画像とは正反対の北西側から撮影したものですが、このように耕地化されていることもあり、一見したところではこの比較的広大な空間そのものが城郭の空堀跡とは気がつきにくいものがありました。
 矢吹地方に現存する城館遺構としては、縄張りの複雑さとその規模などから推察しますと、隈井城(観音山館)の遺構規模さえも凌ぐのではないかとも思われました。
⇒城郭遺構群の南西側約200m付近に所在する土塁状地形

交通案内

・比高差は最大で25mほど。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

郷土史関係等
「図説福島の歴史」(1989/河出書房新社)
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
「福島県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「福島県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)
「矢吹町史第1巻通史編」(1980/矢吹町)
「目で見る矢吹町史」(1975/矢吹町)

史料
「白河風土記 全14巻」
 白河藩の儒学者である広瀬典が江戸時代の寛政年間(1789-1801)に編纂した白河郡、岩瀬郡、石川郡に関する地誌。「福島県史料集成第4巻」(1953/福島民報)、「白河郷土叢書下巻」(1976/歴史図書社)に収録。なお、昭和初期に復刻された和装本は古書による入手が可能。

「白河古事考 天・地の巻」
 同じく広瀬典が文政元年(1818)に編纂した近世地誌で、「白河風土記」の編纂の際に収集した古記録・古文書等に基づくものとされている。「福島県史料集成第1巻」(1953/福島民報)、「白河郷土叢書上巻」(1976/歴史図書社)に収録。

その他
福島県文化財データベース
矢吹町役場公式HP
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。


・2008/08/05 HP暫定アップ
・2008/08/05 歴史の部分の記述を追加。
・2009/07/25 再訪により画像等を追加。
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