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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2015/10/21のブログ 木村館 芹沢館 仁戸内館 平館
所在地
 福島県郡山市西田町三町目字前田、字前館
歴史、人物、伝承

穴澤氏、今泉氏との関連
 「まほろん」(福島県文化財テータベース)、「埋蔵文化財包蔵地マップ」(郡山市)などによると、阿武隈川の東岸で県道115号線と73号線が交差する北東側の標高257メートルの丘陵が、包蔵地を含む領域として広範囲に捉えられているが、あくまでも城館としての領域は地形条件などから考慮すればその丘陵の中心部付近と考えられる。
 「中世城館調査報告書」(福島の中世城館跡/福島県教育委員会編)によれば郭、空堀の遺構が存すると記されている。
 また、「日本城郭大系」などによれば南北朝時代の初めころには穴沢佐衛門尉成季の居館(「相良文書」三春町史第7巻資料編)とも伝わり、別に「田村小史」によれば穴澤新助の名が伝わるらしいが、それら人物の関連などその詳細は不明である。
 一方「田母神氏旧記」によれば、今泉主水三城目居館との記述が確認できるが、同時期の文書と思われる「田村家臣録」には館自体の記述はない。この三城目城は「三春城と仙道の城」によれば、現西田町三丁目内に存在すると推定され、この前館のほかに平館、穴沢館、桜内館、西田山王館など幾つかの候補が示されているが、資料不足などから何れも決め手を欠いているというきらいがある。
 この点について、「会津・仙道・海道地方諸城の研究」の前館の項には注目すべき内容を含み、「舘地は方100mの広さで周囲に堀および土塁が廻らされている。城地は西側阿武隈川に臨み南北に谷地が入り込み小流が流れている..東方は丘続きとなっている(以下略)」とあり、その文面をみるかぎりでは平地に築かれた城館であることを想起させるものがあるがどうだろうか。
  麓からの比高差は最大約40メートルほどを測るが東側では丘陵続きとなることからやや要害性を欠く。

確認可能な遺構
 削平地(郭か)ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2015年10月21日 12時30分から12時45分 
訪城の記録 記念撮影


 またしても踏み込めず
 現地の南部には熊野神社が所在していますが、比高差も僅かに数メートルばかりとはいえ、北方の山頂部への踏査は藪がひどく、近年は足回りも頑健とは言えない事情もあり、その先へと歩みを進めることが極めて困難のため未確認のままとなりました。
 後日「電子国土」掲載の在地に米軍撮影の航空写真画像を調べてみたところでは、明瞭な腰郭ないし帯郭状の地形を含む郭地形を確認することができました。その一方でこの辺りの低山では戦中戦後の食糧難時代に耕作のための森林伐採/開墾が推し進められている可能性もあることから、その航空写真画像の存在だけでは城館遺構と判断することは難しいようにも思われました。
 しかし現地の地形を観察した限りでは、こじんまりとした熊野神社境内は比高差5メートルほどを測る角度のある切岸が施され西方からの接近を拒絶する意図が窺われるようにも思いました。一瞥したところでは裏参道のようなルートもなく、新たに神社境内を整備するにあたりこうした切岸状の地形を構築する意味はなさそうにも思われましたので実に悩ましい城館跡でありました。

( 2016/10/31 記述)

熊野神社境内の削平地 ⇒ 画像クリックで拡大します
熊野神社境内の削平地
( 2015/10/21 撮影 )
訪城アルバム
東側からの参道 ⇒ 画像クリックで拡大します
三峰神社の石柱 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 東側からの参道
 丘陵東側の小さな峠付近から西側へと回り込む細道がありますが、このように幅員が狭いので車での通行は困難ですが、熊野神社までは徒歩にして僅か3分足らずの距離です。
凸2 三峰神社の石柱
 かつては三峰神社も兼ねていたのでしょうか、参道の沿道に古碑がそっと佇んでおりました。

雰囲気は良好 ⇒ 画像クリックで拡大します
熊野神社境内 ⇒ 画像クリックで拡大します
3 雰囲気は良好
 今にして思えば、この右手の部分辺りからピークを目指すという選択肢もあったのかも知れません。
凸4 熊野神社境内
 一段高くなっている熊野神社の境内。

神額 ⇒ 画像クリックで拡大します
社殿境内 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 神額
 熊野神社は稲荷大神も兼ねているようです。おそらくは明治末期の合祀勧奨政策によるものと思われます。
凸6 社殿境内
 数年前と比べると、この熊野神社の小祠右脇あたりから進んでゆくというような気力が無くなりました。

枯れ葉 ⇒ 画像クリックで拡大します
 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 枯れ葉
 とくに深い意味合いはありませんが、参道に落ちていた枯れ葉の色合いに、足腰の衰えが目立つわが身を振り返りふと「ものの哀れ」を感じました。
凸8 前館遠景
 小和滝の十字路のセブンイレブン駐車場からの全景で、熊野神社が所在しているのは画像の右側辺りと考えられますが、生い茂る草木をかき分けてピークの辺りまで進むのは難渋しそうです。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
・「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林) ⇒ 記述あり
・「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)  ⇒ 記述あり
・「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)記述なし 

歴史・郷土史関係等
・「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院) ⇒ 記述あり
・「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社)
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している約40か所の城館跡について略述しているが、前館に関する記述はない。
・「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
 三城目村は正保2年(1645)に三丁目村から分村され、その後明治12年になり再び三丁目村に合併されている。この三城目(いわゆる美称)という地名が仮に近世の正保年代以降の新たな地名であるとすれば、「田母神氏旧記」自体の記述に対する疑問も発生することとなるが、熊野神社新宮年貢帳や熊野神社新宮領差出帳にみる「三町ノ目」「三町目」の当時における地名表記の曖昧・不安定さを考慮に入れれば、必ずしも三城目の地名自体が戦国期からのものではないと断言できるものではない。
・「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 
・「郡山市史第1巻通史編」(1975/郡山市編)
・「三春城と仙道の城−三春城築城500年記念 平成16年度春季特別展図録」(2004/三春町歴史民俗資料館)
 田村地方(主に阿武隈川中流域東岸の三春田村氏支配領域)の村と城館に関して一覧表形式で約200か所近くを収録しており、前館の館主として今泉主水、前館主水などの名を記している。
・「三春町史第1巻」(1982/三春町)
 故小林清治氏による田村氏の権力構造とその家臣団に関する論考などが収録されている。

史料、地誌
・「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より)
・「郡山市史第8巻資料編」(1973/郡山市編)
・「三春町史第7巻」(1978/三春町)
 戦国期田村氏の基本資料として欠かすことのできない「田村家臣録」「田母神氏旧記」などの資料を収録している。

その他(データベース、関係著書)
・福島県文化財データベース「まほろん」 ⇒ 記述あり
・郡山市役所公式HPから「埋蔵文化財包蔵地マップ」 ⇒ 記述あり
・「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。田村氏に関しては「田村家臣録」「田母神氏旧記」に関連して、田村氏の家臣団とその関連する城館についての考察がある。


・2016/10/31 HPアップ
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