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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2015/10/21のブログ 仁戸内館 根木屋館 
所在地
 福島県郡山市西田町木村字古舘下、字池ノ上
歴史、人物、伝承

田村氏、伊達氏の山城か
 磐越自動車道と国道288号線郡山東バイパスに南北を挟まれた丘陵地帯に立地しているのだが、残念ながら北麓を横断する磐越自動車道の建設時に主要部分でもあった野面積石積を含む大手口の門跡などを含めた貴重な城郭遺構の一部が破壊されており、このため現在確認できる地表上の遺構は丘陵上部に限られている。
 しかし城郭遺構としての規模とその縄張の形態は戦国時代末期の様相を示し、同時代の山城として機能していたことが偲ばれる。
 館主として在地土豪と思われる木村越中守(「田村郡郷土史」より)などの名も伝わってはいるが、戦国末期には田村氏家臣である橋本刑部(「田母神氏旧記」「田村家臣録」より)などの名が知られている。
 垣内氏などの説によれば、その後は伊達氏勢力に併呑され佐竹氏などに対する構えとして大改修されたとされているが、発掘調査の成果などからは最終的には豊臣秀吉の奥羽支配により大手口などの破城が行われたことも推定されている。
  山麓からの比高差は約50メートルほどを測る。 「文禄3年蒲生高目録」によれば、「中 木村 1099石」と記され、当地がこの地域においては一定の豊かな生産力を有していたことが示されている。
 別名を古館山ともいう(画像4参照)。

確認可能な遺構
 郭、土塁、帯郭、切岸、小口、空堀など
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2015年10月21日 午前10時20分から11時05分
訪城の記録 記念撮影


 再訪を期す−体力低下の渦中で
 城跡南部の丘陵上の共同墓地には橋本氏の後裔と推定される橋本姓を名乗る墓石が目立ってはいましたが、具体的に戦国期からの流れを示すような墓碑は見当たりませんでした。
 主郭跡とも考えられる木村神社が所在する山頂へは、南側の集落から車で隣接する駐車場まで直接行くことができますが、残念なことにその際の林道工事によって郭部分の地形改変が行われているようにも思われましたが、郡山市を訪れた際には必ず立ち寄っておきたい中世城郭のひとつであることは紛れもないものと考えられます。
 山頂にはかつて戦国期の櫓台を模したような展望台が設置されていた時期もあったようなのですが、現在は木々の繁茂によりその視界は遮られ、遺構自体も木々に隠されて些か見づらくなっていたことが惜しまれ、北側の丘陵麓を走る磐越自動車道の走行音が城跡の景観とは不似合に響き渡っておりました。
 さて各郭の切岸は思いのほか高さと角度もありましたが、足元にいささかの不安材料のあることから、降下することが躊躇われ切岸先端部から俯瞰するにとどまりました。横堀の展開についてもその規模と配置を観察したいところでしたが、還暦を過ぎてからの足腰などの経年劣化が顕著となりこちらも同様に自重せざるを得ませんでした。
 今後いずれの日にか晩秋あるいは初冬の時候に再訪して、おそらくは2時間ほど滞在踏査すれば、もう少し残存遺構の特徴を掴めそうな気がするのですが、その実現が果たしていつのことになるのかは、まさしく今後の気力と体力次第となってまいりました。

( 2016/10/26 記述)

木村館の郭と切岸 ⇒ 画像クリックで拡大します
木村館の郭と切岸
( 2015/10/21 撮影 )
訪城アルバム
木村館の遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
集会所 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 木村館の遠景
 国道288号線の陸橋を渡ると左側に集落の共同墓地がありますので、この道を道なりに北上して突き当りを左折します。墓石には後裔のお宅とも思われる「橋本姓」のものも見受けられます。画像真ん中あたりの高い部分が木村館の主郭部分であると思われます。
凸2 集会所
 突き当りの左角にはこの南池ノ上集会所の建物が所在しています。

木村館への林道 ⇒ 画像クリックで拡大します
城館跡の案内板
凸3 木村館への林道
 集会所から約50mほど西へ進むと、また丁字路がありますのでこれを北側に右折し約300mほど道なりに進むと主郭跡とも推定される木村神社へと到達します。
 事前に車でも直接行けることを知らなかったので歩きましたが、「画像3」の地点からは徒歩で5分足らずでした。
 赤い屋根の建物の裏側の丘陵先端部も城域の一部のように思えます。
凸4 城館跡の案内板
 見晴台の個所が「塗りつぶされている?」意味は、樹木の成長で余り見晴らしが良くないことと、展望台が取り壊されたことによるものと解釈させていただきます。
 地元では「木村館」とは呼ばずに「古館山」と呼称しているようです。磐越道を挟んだ北麓には「古館ノ下」という字名も残されています。

林道 ⇒ 画像クリックで拡大します
郭の切岸らしい地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 林道
 先ほどの丁字路から約150mほどすすむと、集落から外れ気づかないうちに城域へと入ります。
 進行方向の左右に郭が展開しているはずなのですが、東側は樹木に覆われてよく見えません。
凸6 郭の切岸らしい地形
 前の「画像5」の個所からほんの少し歩みを進めると、進行方向の左側には郭の切岸のように見える地形が目に留まります。

小口かどうか ⇒ 画像クリックで拡大します
駐車場 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 小口かどうか
 小口のようにも見える人口地形なのですが、集落から近く丘陵南側の比較的日当たりのよい環境であることから、耕作などに伴う入口である可能性も想定されます。
凸8 駐車場
 元々は神社参道脇の駐車場てあったものが、近年に拡張されたものであるように見えました。
 画像中心部からやや右上に削り取られた地形が確認できます。

解説板 ⇒ 画像クリックで拡大します
解説板(部分拡大) ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 解説板
 設置後20年ほどは経過していそうな印象の詳しい解説板がありますが、画像4の「見晴台」の文字が消されていたことが示すように、樹木が成長して決して眺望は芳しくはありませんでした。
 「史跡の保存活用と自然保護」のバランスをとることの難しさを感じます。
凸10 解説板(部分拡大
 今では著名となった千田氏が作成された縄張図ですが、90年代始めということもあるのか、空堀と土塁の描き方、郭の特徴などの表現工夫の部分で、大分苦労されているという感じがしなくもありません。

木村神社社殿 ⇒ 画像クリックで拡大します
参道 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸11 木村神社社殿
 旧木村村の鎮守であり、この旧木村村は1960年からは当時の西田村の大字となり、1965年からは郡山市と合併して西田町木村となっています。
凸12 参道
 こうしてみると割合比高差のあることが分かります。

木村神社社殿 ⇒ 画像クリックで拡大します
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸13 木村神社社殿
 神社東側の様子で、郭跡とも思える切岸状の地形も確認できますが、神社の造立との関係もありそうです。
凸14 腰郭ないし帯郭か
 この時も生憎ストックを携行し忘れ切岸を降下できず、樹木の生育がよく遺構の見通しも芳しくはなさそうな印象でしたので、このあとの予定もありやむを得ず再訪を期すこととしました。

 ⇒ 画像クリックで拡大します
郭と切岸 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸15 はてさて、これは..
 やっぱり小口かも知れない魅力的な切れ込みで、気が付けば画像6、7と全く同じ地点を撮影しておりました (^_^;)
凸16 郭と切岸
 現地の縄張り図からはかなり見どころも多そうなのですが、切岸も高く生憎とこのように樹木の聖域が旺盛なため視界を遮られます。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
・「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林) ⇒ 館主木村越中守の記述あり
・「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社) ⇒ 木村越中守の居館との記述あり
・「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社) 記載なし

歴史・郷土史関係等
・「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院) 記載なし
・「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社)
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、郡山地域に所在している40か所の城館跡について略述し、この木村館についても簡易な解説が記されている。
・「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
 「木村」は戦国期から伝わる地名であり、永禄11年の熊野山新宮年貢帳(「青山文書」)には「一町 700文 木村」、天正14年では「一町 690文 木村」と記されているように、戦国末期においても熊野山新宮の荘園としての機能が少なくとも形式的には残されていた。
・「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 
 「田村郡郷土史」からの引用として木村越中守を城館主とする記述がある。
・「郡山市史第8巻資料編」(1973/郡山市編)
 「田母神氏旧記」「田村家臣録」などに、木村館の記述が見られ橋本刑部(一門一家東西南北御一字被下衆として西方与力80騎を率いるとされる)を城主として掲載している。両文書には橋本氏一族と推定される10名内外の武士の名が記されている。
・「郡山市史第1巻通史編」(1975/郡山市編)
「三春城と仙道の城−三春城築城500年記念 平成16年度春季特別展図録」(2004/三春町歴史民俗資料館)
 田村地方の村と城館に関して一覧表形式で約200か所近くを収録しており、木村館の館主として橋本刑部、木村右兵衛のほかに木村内記(田村の小史)などの名を記している。

史料、地誌

・「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より)

その他(データベース、関係著書)
・福島県文化財データベース「まほろん」
・郡山市役所公式HPから「埋蔵文化財包蔵地マップ」
・「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。田村氏に関しては「田村家臣録」「田母神氏旧記」に関連して、田村氏の家臣団とその城館についての記述がある。
・「東北横断自動車道遺跡調査報告15」(1992/福島県教育委員会) 未確認
・「木村館 (7、8区)第3次発掘調査報告」(1998/郡山市教育委員会) 未確認

・2016/10/26 HPアップ
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