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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/04/06のブログ 隈井城 三城目城
所在地
 福島県西白河郡矢吹町
歴史、人物、伝承

石川氏庶流中畠氏発祥の地
 興国年間(1340-45)に石川詮持(石川家15代)の弟光定の子である石川九郎光幹が移り住み中畠氏の始祖となったとのことですが、その経緯については同時代の資料を欠きくことから史実としては不明な部分が多い模様です。
 その後白川氏から養子が入り白川氏の一族として活動し、上野介晴辰の代の天正年間に至り、より防御性の高い根宿の観音山館(隈井城)を築城し移住したものと考えられています。
 なお、近世の中畑村絵図には内屋敷、東都城、森郭などの城館関連地名が記されているとのことです。(以上「矢吹町史」「目で見る矢吹町史」「矢吹町HP」などより抜粋引用)

確認可能な遺構
 主郭(本丸)
文化財指定
 1973年4月1日 矢吹町指定記念物
訪城年月日
 2009年4月6日 11時45分から12時20分
訪城の記録 記念撮影

( 2009/04/29 )
 畑の中のシュールな光景
 忽然と畑の中に主郭部分のみが出現するというシュールな城跡の光景なのでありました。城跡は耕地整理が行われたために、誠に残念ながらこの主郭部分を除いて削平されたとのことです。それでもひときわアップダウンが目立つ河岸段丘上に所在していることから、用水路などの低地部分はかつての水堀ないしは空堀跡と関連しているようにも思われました。
 また北西部にある三峯神社境内辺りが城跡の北限付近かとも思われるのですが、この主郭部分以外に城跡に関連しそうな地形が殆ど見当たらず全く見当がつきません。また強風などの影響によるものか、城跡に立つ文化財説明版は肝心の説明部分が破損落下中でありました。
 なお畑のど真ん中に所在しているという事情のためアプローチすべき道が見つからず、デジカメで遠景を撮影しつつぐるっと周囲を1周半。結局は畑の端の方をできるだけ耕作の支障にならないようそっと通行させていただくことに。然しどうにか近くまで接近できたものの今度は登るべき適当なルートが見当たらず更に郭の麓をウロウロと。というのも、このかなり風辺りの強そうな立地条件のために全体として主郭斜面の風化が激しく、それこそひと雨ごとに遺構が流出しているという印象も一概には否定できない状況なのでありました。

国神城主郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
東側から撮影した国神城主郭 −A−
( 2009/04/06 撮影 )


(注) 「矢印と番号」は、だいたいの撮影地点と方向を示していますが厳密なものではありません。
国神城主郭の概念図( ※ 虫歯ではありません ) ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
東側角付近より国神城主郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
国神城主郭南西の最上部 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 東側角付近より
 周囲の畑部分との比高差は最大でおよそ7m前後かと思われます。「矢吹町史」によれば、この保存されている部分は約300平方メートルの規模とされています。
 しかし肝心の登るべき場所が見当たらず、比較的なだらかそうに見えたこの東側角部分から斜面を傷めずにそうっと登ることに。
凸2 主郭南西の最上部
 主郭は南西部の上段部分と北東部の下段部分のおよそ半分ずつほどの削平地に分かれています。
 ただしこの削平地の高さ1m前後ほどの段差が、本来城跡固有のものかなのかどうかについては明確には分かりかねるのでありました。

国神城主郭の三角点 ⇒ 画像クリックで拡大します
国神城主郭より北西方向を望む ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 主郭の三角点
 標高293.4mを測る三角点は何故か最高地点ではなく主郭の下段側に設置されておりました。
 なお登り口(小口跡か?)はよくよく見渡しますと、踏み跡のあるこの画像の北西付近から登るのが正しいようです。
凸4 主郭より北西方向を望む
 麓の畑との比高差は7mを有するため眺望に優れていることは理解できますが、「矢吹町史」等所収の関係資料の記録写真を見る限りでは耕地整理以前においても概ね同様の眺望を有していたもの想定されます。

国神城主郭より南西方向を望む ⇒ 画像クリックで拡大します
国神城北西側からの近景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 主郭より南西方向を望む
 かつての小口跡なのか、自然崩落なのか不明な主郭南西側の辺縁部分の地形。1970年代頃に実施された大規模な耕地整理の影響もあるようで360度の眺望がありました。
凸7 北西側からの近景
 こちら側の北西斜面方面から登るのが比較的斜面を傷めず登り口としては相応しいように思われました。
⇒6 破損中の解説板
⇒8 北側からの近景

国神城主郭を西側より撮影 ⇒ 画像クリックで拡大します
国神城北西の三峯神社 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 西側より
 2008年6月に訪れた時には近くの観音山館の所在地確認に手こずり、結局日没後にこの国神城を捜し求めておりました。然るに当てずっぽうで向かった先が中畑陣屋付近であったために、敢無く訪問を断念したという経緯がありました。
 なお今回の一連の再訪によって、矢吹町に限っては所在する中世城館をほぼ全域を徘徊して留飲を下げることに。
凸10 三峯神社
 主郭跡の北西300mほどの地点に所在している三峯神社境内は人工的景観を呈する台地となっていました。
 「日本城郭大系」によりますと、城跡の規模は東西500m×南北550mとされています。もしも仮に国神城との関わりがあるとすれば、城跡の北限付近に相当するものと思われますが、耕地整理により周囲の景観が大きく変貌しているため全く見当がつかないのであります。

国神城北西部の台地に刻まれた谷津 ⇒ 画像クリックで拡大します
国神城のシュールな光景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸11 台地に刻まれた谷津
 水田面とは数mほどの比高差を有する城跡が所在する河岸段丘上には小河川の小さな谷が幾本も形成されています。
 かつての国神城は、これらの谷津状地形を水堀あるいは空堀として利用していたものと思われます。
凸12 シュールな光景
 「草原の中の朽ち果てた軍艦」のように思えた誠にシュールな画像。
 なお、画像右手の白っぽい物体は畑に使用する堆肥の塊で、主郭跡を取り囲むように万遍なく置かれていたため終始撮影するアングルに工夫が求められたのであります。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)

郷土史関係等
「図説福島の歴史」(1989/河出書房新社)
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
「福島県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)、
「矢吹町史第1巻通史編」(1980/矢吹町)
「目で見る矢吹町史」(1975/矢吹町)
「白河風土記 全14巻」
 白河藩の儒学者である広瀬典が江戸時代の寛政年間(1789-1801)に編纂した白河郡、岩瀬郡、石川郡に関する地誌。「福島県史料集成第4巻」(1953/福島民報)、「白河郷土叢書下巻」(1976/歴史図書社)に収録。なお、昭和初期に復刻された和装本は古書による入手が可能。

「白河古事考 天・地の巻」
 同じく広瀬典が文政元年(1818)に編纂した近世地誌で、「白河風土記」の編纂の際に収集した古記録・古文書等に基づくものとされている。「福島県史料集成第1巻」(1953/福島民報)、「白河郷土叢書上巻」(1976/歴史図書社)に収録。

その他
福島県文化財データベース
郡山市役所公式HP
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。


・2009/04/29 HPアップ
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