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 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
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1歴史・伝承  2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/06/17のブログ  2009/04/06のブログ 三城目城 国神城
所在地
 福島県西白河郡矢吹町根宿字館山
歴史、人物、伝承

壮大な空堀が残存する戦国期中畑氏の居城
  「白河古事考」等によれば、前九年の役(1054-1062)の戦功により矢吹地方を含む石川郡が石川有光に与えられ、石川氏の一族九郎光幹が中畑の地を宛がわれ中畑氏を名乗ったと伝わります。戦国時代には東方の中畑字国神に城(国神城、国神館とも)を構えてましたが、中畑晴辰(なかはた はるとき)の代により防御性の高い標高316mの独立丘陵に新たに築城したとものとされています。
 別名を観音山館(かんのんやまたて)、中畑舘(なかはたたち)とも呼ばれ、その後、永禄年間には隣村に所在する安積伊東氏の同族ともいわれる三城目城(タカナシ館)主伊藤氏を攻略し、その拠点を移したとものと言われています。
 中畑晴辰は白川結城氏に帰属したとされますが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥羽仕置きにより同家の没落した後には蒲生氏郷に仕え、大崎の戦いで討ち死にを遂げたとも伝わります。この人物は観音山館を譲り受け隈井氏を名乗ったとされる弟の晴時(はるとき)であるともいわれ、この点については諸説が存在しているようにも思われます。
 また、子孫にあたるとされる須賀川市相良家には詳細な縄張りが描かれた「中畑観音山館絵図」が伝わっています。

確認可能な遺構
 主郭、二の郭、三の郭、空堀、土橋、土塁、切岸、帯郭、小口など
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年6月17日 18時25分から18時50分
 2009年4月 6日 7時40分から11時05分
訪城の記録 記念撮影

( 2008/08/09 )
 日没の山中にて
  日没間際の時刻に鬱蒼と草木が生い茂る全く人気のない林の中へ侵入する姿は、普通に考えればどうみても挙動不審者かとも。仕事柄か歳のせいかは分からねども、暗闇と超常現象の類は全く気にならず。既にほぼ暗闇に包まれ、何処となく言いようのない重たい空気さえ感じる薄暗い曲がりくねった参道をトボトボと西進。そのまま黙々と200mばかり進むと、参道は突然90度右側に折れて足元には土橋状の地形が出現。そしてその両側には確かに予想を超える壮大な空堀跡が残存しておりました。堀底に降りて探索したいという欲望を抑えつつ、そのまま参道の苔むした石段を登ることに。
  あらかじめ想定していたものの、三脚付でなければとても撮影不可能な暗さ。ISOを800に切り替えてもデジカメのシャッタースピードは「0」のままを表示。一番手前の 3の郭と考えられている神社境内は、僅かに林が開けているために夕闇も幾分薄れ一息ついて先ずは恒例の参拝を粛々と履行。
 すると右手の石段(下の画像)がまるでおいでおいでと手招いて...(汗) そのままその手に乗せられて、城館跡の別名の語源と思われる観音堂が所在するはずの2の郭へ。途中、草木に覆われた2の郭の南側には規模は小さいものの空堀跡の暗闇も確認。 しかしその先に所在すべき観音堂らしき建物が全く見当たらず。
 不審に思いつつも、そのまま雑草に覆われた2の郭を横目に坂小口と思われる参道を登リ切ると三峰神社の小祠が鎮座する主郭の平場へと到達。然しこの時点でほぼ日没となり、これ以上の遺構確認は困難と考え撤収を開始。なお帰りがけには2の郭と推定される地点にて、建物の残骸と思しき苔の生えた古材の塊を発見。位置関係から判断すれば、どうやらこれが「観音堂(跡)」に相違ないものと思われたのでありました。

( 2009/07/12 )
 やっぱり能力不足で・・・
 今回福島県矢吹町を再訪した本来の目的は、この隈井城および三城目城をある程度納得がいくまで踏査することにあり前回の2008年6月に続く再訪です。前回に探訪した時刻はすでに黄昏時で、全く人気の無い森閑とした雰囲気は好印象でしたが、露出不足によりデジカメの画像は三脚を使用してもブレまくるような始末。結局は縄張構成等もごく一部確認するだけにとどまり、時間が無いまま消化不良気味に終了したという経緯がありました。
 そうした反省の元、今回は気合いを入れて終業後にそのまま直接勤務先から片道約3時間を要して夜間東北道を北上し、わざわざビジネスホテルに泊まり込むという念の入れ様。当日は幾分早めに行動を開始したところ、逆光に加えて時刻の関係から太陽の角度が低すぎて遠景の撮影が困難に。
 それでも今回は実に幸いなことに、たまたま堀跡の一部を除いて城跡の樹木伐採直後という千載一遇の機会を得たのでありました。このため、前回には全く確認することが不可能だった空堀の形体が概ね明らかとなりました。直ちに臨時縄張図作成班を編成...とはいえ単独行の悲しさで、己に「デジカメ撮影+遺構確認+撮影メモ記入+縄張図作成」という4業務を同時に遂行することができるほどの能力は望むべくもなく。少なくとも丸一日かけるか、あるいは複数で行動することができれば、もう少しまともな調査ができたのかも知れません。
 なお、県教委主導の 「中世城館調査報告書」および「日本城郭大系」の縄張図については、恐らくは叢生する竹木のために空堀の形態および郭等の高低さを巧みに利用した築城というような特徴が反映されておらず、些か不正確であるこが否めないという状況を確認できました。とはいえそこが素人の悲しさで、3時間半にわたるという膨大な時間を費やした割には、殆ど調査作業としての成果が伴わず...この時点ですでに予定所要時間の倍以上を要したため、早くも玉川村、鏡石町方面へと足を伸ばすことを断念したような次第です。また、三角点付近に紅白模様の測量用ポールが立てられていたのがやや気がかりなのではありました。

「隈井城二の郭」 ⇒ 画像クリックで拡大します
二の郭へと誘う参道の石段(石段下の左側は空堀跡)
実際には暗闇に近く僅かな夕日で、どうにか足元が確認できる程度の明るさ
( 2008/06/17 撮影 )

(注)1 「矢印と番号」は、だいたいの撮影地点と方向を示していますが極めて大雑把なものです。概念図自体は一応管理人によるものですが、基本的才能が欠如しているために特に南西部付近が曖昧となっています。

隈井城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
2008年6月17日撮影
「隈井城の遠景(北側より)」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「壮大な空堀跡」 ⇒ 画像クリックすると「ピンボケの画像」に拡大します
凸1 隈井城遠望
 疲れていたせいか方角を誤り、この場所なたどり着くまでに約30分という貴重な時間を浪費。近くまでは直ぐに行けたものの、途中でものの見事に方向感覚を喪失し幾度も方位磁石のお世話に。このため漸く神社の鳥居のある入口に到着したのは午後6時30分過ぎで、辺りはすでに夕闇に包まれておりました。
⇒無理やり画像編集した入口の鳥居で、参道はすでに真っ暗闇。
 原因は二叉路を右に進んだことによるもの分かったのはビジネスホテルに辿り着いてからのこと。
凸2 壮大な外側の空堀(ピンボケ画像です)
 「三脚装備で+ISO800」でもシャッター速度は「0」を示し物の見事にピンボケの画像です。このため、拡大画像は誠に恥ずかしながら見るに堪えません。
 そのような次第で別の角度から撮影したものを下記に代用にしてみたのですが、これもまた画像が荒れております(汗)やはり、探訪する季節を誤ったのは確実なようで。
外側の空堀(肉眼では薄ぼんやりと見える明るさ)
同上(堀幅は20m前後、深さは三の郭側で8m以上)
両側を空堀に守られた三の郭直下の土橋
 

「隈井城の主郭」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「大手口の手前部分」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 日没寸前の主郭
 怪しげな光は別に超常現象ではなく日没中の夕陽の残影であります。既に太陽は実際には山影に隠れており、雲に反射した光の一部が木漏れ日となって射しこんでいる現象に過ぎないようです。
三の郭とされる神社境内に残る土塁状地形
壮大な構えの社殿(たぶん三峰神社)
⇒中畑晴辰の弟である隈井上野介のを守り本尊を祀ったとされる観音堂跡
凸4 大手口手前の切岸状地形
 元々の自然地形に手を加えたものと思われる切岸状の地形ですが、この下の方から這い上がってくるのはかなり骨が折れそうでした。無論参道の整備などに伴うものとも考えられますが、この個所を右に折れると壮大な空堀に挟まれた土橋に続いていることから切岸と見ても差し支えないようにも思われました。
⇒やや単純な印象もある主郭小口部分ですが、恐らくは右手頭上の郭から横矢がかかる構造のようです
⇒4-a全体の地形2009年4月6日撮影分

凸下記の画像は2009年4月6日再訪時の撮影分です
「詰城」と推定されている南西の丘陵地帯 ⇒ 画像クリックで拡大します
「外堀」の役割を果たしたと推定されている泉川 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 詰城
 沼館氏の説によりますと、隈井城の詰城として南西1.5kmの位置に所在し、標高328mの高地で約50m四方の土塁を伴う郭とそれを取り巻く帯郭が所在したことなどが記されています。この条件をそのまま当て嵌めますと、正面の現在はゴルフ場となっているあたりの丘陵地帯を想定されているものと思われます。
 ただし現状の地形から判断しますと、泉川の流れにより分断され、縄張形式の相違(おそらく物見館、大和久館に近いイメージ)、丘陵地帯としての連続性が全くないこと、標高も約10mほどしか変わらないことなどの事情を考え合わせますと、本来は別々の遺構であったのではないかと考えられます。
凸6 外堀を兼ねたといわれている泉川
 城跡が所在する丘陵地帯を取り巻くように南側から北側、東側へと流れを変えていることから、外堀の役割を果たしていたと考えられています。
 なお国土地理院の地形図等から判断する限りでは、城跡の南側で不自然な曲折が見られることから、現在の流路については河川改修が施されているものと思われます。また本来の流路について少なくとも城跡西側の部分につていは、付近の丘陵地帯の形状から想定しますと、より城跡の丘陵に近い個所を流れていた可能性があるものと推定されます。

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凸7 屋敷跡?
 幅員4mほどの公道により城跡から分断されている東側の杉の植林帯に所在するL字乃至はT字型の土塁状地形で、高さは最高で約1m、総延長にして約50mほどの規模がありました。
 当該地域に城館遺構との関連の深い「根宿」との地名が残っている事情から考えますと、中畑氏家臣団の屋敷跡に伴うものかも知れませんが、近世以降の屋敷跡に関連する可能性もありその詳細は分かりません。
凸8 外側の空堀
 全体的な景観が、「9」の内側空堀部分と酷似しているため、ついつい勘違いをする可能性があります。実際にこのHPを編集している間にも、次第に訳がわからなっていったのでありました(苦笑)
 おそらく画像右側の林道は新たに築造されたものと推定され、右手方向の家臣団屋敷跡と推定される個所とこの空堀の一部が少なからず地形改変されているという印象がありますので、本来の堀幅より多少縮小されているものと考えられます。

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凸9 内側の空堀
 「8」の外側の空堀に接している林道をそのままぐるっと北側から迂回するとこの地点へと到達します。外側の空堀部分と同様に、右側の林道部分を中心とした一定の地形改変が推定されますが、堀幅の規模についてはこの奥の方では軽く20mを凌駕する大規模なものとなり、郭の切岸の高さ自体も少しばかり身の危険を予感する高低差を有しておりました。
凸10 二の郭切岸と土橋
 「概念図」の上の方に掲げた画像と同様の個所を撮影したものです。前回訪れた時には6月半ばという時期で、しかも日没直前という不自由な条件でしたが、打って変って今回は晩春とはいえども竹木の伐採直後という超ベストコンディションであったため、この時点ですでに予定滞在時間をオーバーすることに。
郭切岸の拡大画像

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凸11 三の郭土塁
 「中世城館報告書」によりますと、八幡神社が所在する削平地が三の郭に相当し、郭の北辺部一帯には明らかに人工的な土塁跡と認められる連続地形が確認できます。
 この画像の左手付近に、11-a二の郭西側の空堀から11-b八幡神社裏側八幡神社裏側へとつながる高低差を有する複雑な組み合わせの人工的削平地(郭跡)が所在していますが、その付近あたりがが「矢吹町史」に記されているところの鉄砲の射撃訓練場なのかも知れません。
 なお誠に面目ないことに縄張図初心者ゆえ、この土塁について当初作成した「概念図」では完全に書き忘れておりました(冷汗)
凸12 土橋状地形
 外側の空堀跡に築造されているもので、神社の参道整備に伴い改変されている可能性を含むものと思われますが、両側に空堀を空堀を抱えた様子が最も分かり易い撮影ポイントであると思われます。⇒12-a東側から見た土橋状地形
 この両側の空堀は複雑な些か配置関係を有していて、画像向って右側の部分は主郭、二の郭を時計回りにぐるっと一周以上も回転して、二の郭直下の空堀へと変わります。
 また、画像左側の部分は総延長にして約100mほどの規模を有し、途中12-b土橋状の地形、空堀そのものに段差を有する地形、12-c2か所の大きな折歪などを経由して行止りとなる地形となっています。(⇒12-d俯瞰した画像

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凸13 空堀と小郭
 三の郭南側の西方へとのびる空堀で、画像正面の個所には空堀により分断された小規模な南北方向に長い楕円形をした削平地形が所在しています。
 一見すると南西方向を俯瞰する櫓台に相応しい地形ではあるのですが、画像右側の神社が所在する13-a三の郭よりも相対的に標高が低い(ただし画像の撮影位置は、その東側隣の腰郭)ことから、何か別の目的のために使用されたのかも知れません。
凸14 三の郭切岸と空堀
 画像「8」の空堀西側部分について、八幡神社参道となっている土橋上から撮影したもの。画像の中央部付近も土橋状の地形が認められますが、切岸の角度の状況などから観察する限りでは、直ちに八幡神社が所在している三の郭へのルートであるとは認めがたいという印象です。(⇒画像「12」の項参照)
⇒14-a反対側からの拡大画像
 

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凸15 帯郭の東側土塁と空堀
 主郭東側中央部付近の様子でその工事量から見た限りでは地山を削り残したような印象さえ感じる質感のある土塁地形で、北側部分を回りこんで最終的には西側中央部分でまで続いていることを確認できました。
 空堀、帯郭等の工事量から考えますと、中畑氏が白河結城氏一族とはいえ、中畑氏単独の築城によるものとは考え難い大規模なものあります。
 天正18年の豊臣秀吉による全国平定以降、関ヶ原合戦までの期間、果ては戊辰戦争当時を背景とした事情なとが働いていたという様々の可能性を一概に否定できるものなのかどうか、知識経験不足の管理人では手に余るものがありました。
⇒15-a主郭東側直下の帯郭
⇒15-b主郭東側のみに附随する帯郭の全景

凸16 北側小口か
 主郭下段、北東部の帯郭に確認できる小口状地形で、一度北西方向に坂を下り、その途中から北東へと直角に折れて主郭を取り巻く空堀の土橋を経由して更に下段に所在する帯郭へと到達するルートを推定することができます。ただしそこから先の下山ルートが現状では全く不明であるために、結局例により枝に掴りつつ斜面を滑り落ちながら脱出を...
⇒16-a主郭方面から小口付近へとつづく土橋状地形(⇒この部分については当初の「概念図」で記載漏れです)
 関係資料に記されているとおり、八幡神社の所在する東側からのルートが大手とすれば、こちらの方は搦手部分に相当することになるのかも知れません。

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凸17 主郭切岸
 おおむね主郭の北東側部分に相当する個所で、主郭の中で最も土塁遺構が良好に残存していることも影響して、見掛け上の切岸の高さは最大で約7m前後の個所も存在しています。
⇒17-a主郭小口付近の状況
⇒帯郭を遮断する17-b主郭西側に付随する土塁、17-c同じく土塁上から
凸18 隈井城遠景
 昼近くになって、おおむね北西方向から撮影したものです。城郭遺構については、凡そ南北約300m、東西約200mの独立丘陵全体に及ぶ矢吹地方では比較的広大な城館の部類に含まれます。遺構の実情を捉えた明確な縄張図等が無いという事情も加わり、大雑把な踏査ではありましたが正に言辞では尽くせない貴重な体験でありました。
交通案内

・根宿集落西側に所在する最大比高差約30mの平山城

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)
⇒収録されている略測図の一部に錯誤があり、二の郭から主郭へ向かう道に石段は存在せず、三の郭手前の石段の存在が欠落しています。
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
⇒縄張図としては寧ろこの本に収録されている「観音山館要図」(近世絵図の写真)の方が実態に合致しているという印象があります。
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)

郷土史関係等
「図説福島の歴史」(1989/河出書房新社)、
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
⇒「中畑舘」と表記されています。
「福島県の歴史散歩」(2005/山川出版社)、「福島県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)、
「矢吹町史第1巻通史編」(1980/矢吹町)、「目で見る矢吹町史」(1975/矢吹町)


史料
「白河風土記 全14巻」
 白河藩の儒学者である広瀬典が江戸時代の寛政年間(1789-1801)に編纂した白河郡、岩瀬郡、石川郡に関する地誌。「福島県史料集成第4巻」(1953/福島民報)、「白河郷土叢書下巻」(1976/歴史図書社)に収録。なお、昭和初期に復刻された和装本は古書による入手が可能。

「白河古事考 天・地の巻」
 同じく広瀬典が文政元年(1818)に編纂した近世地誌で、「白河風土記」の編纂の際に収集した古記録・古文書等に基づくものとされている。「福島県史料集成第1巻」(1953/福島民報)、「白河郷土叢書上巻」(1976/歴史図書社)に収録。

その他
福島県文化財データベース


・2008/08/09 HP暫定アップ
・2008/08/14 恥を忍んでピンボケ拡大画像を掲載(⇒フォトショップLEのアンシャープマスクで限界まで補正)
・2009/07/12 再訪に伴い画像追加と記述追加訂正。
・2009/07/18 一部記述追加訂正。
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