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岡城(岡の城山)
関連ページのリンク  200/01/28の日記  滝の城  福岡城  小室陣屋  
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態4 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯3
所在地
埼玉県朝霞市三丁目30番地
歴史と沿革

■ 「新編武蔵風土記稿」の岡村の記述によれば東圓寺の記録を引用し太田道灌がこの地を領し城を築いたという伝承を紹介している。「朝霞市史」はこの点について、道灌は扇谷上杉氏の家宰として当時敵対する長尾景春、古河公方の勢力と敵対し、その与党である豊島氏の平塚城攻略の前線拠点として拡充されたとの考えを示している。
 その後、栄禄年間には後北条氏の家臣、道灌の子孫太田新六郎康資の支配地であった模様である。そしてこの時期に堀切などの防御が強化されたといわれている。しかし、康資は北条氏氏康に反旗を翻し没落し天正9年51歳で没したという。
 その後は富永善左衛門が福岡城(上福岡市)からこの地へ移ってきたとされている。また、東圓寺の観音堂は天承18年の合戦の際に後北条方が所沢の滝の城に知らせるため狼煙を上げて消失したとの伝承があるという。なお、徳川家康の関東入府後は甲斐庄喜右衛門なるものの私領とされたと東圓寺の記録にあると記され、その後寛永の頃、三枝土佐守守重(守恵)の知行所となったという。なお、守重は「小室陣屋」のあった河越の小室村の領主でもある。

確認できる遺構
土塁、空掘、郭、物見台、帯郭、腰郭、堀切
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■東側に荒川の沖積平野が広がり、北東に舌状に突き出た標高17メートル、比高10mの台地上に所在する。北東側のきわめて近くを支流の黒目川が流れ、南側も谷津となって自然の要害を形成している。また稜線続きの西側部分も非常に大きくくびれているために大軍の侵入が困難な地形となっている。

参考資料、古文書、
記録

「あさかの歴史」(1997年朝霞市発行)
「朝霞市史通史編」(1989年朝霞市発行)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「朝霞の文化財 第一集」(1962年/朝霞市教育委員会発行)
「岡の城山 朝霞市文化財調査報告書台10集」(1983年/朝霞市教育委員会発行)

文化財指定
埼玉県選定重要遺跡
訪城年月日
200/01/28
訪城の記録

( 2005/01/28 )
都市公園化されてはいますが
 一説によると太田道灌の太田氏が築城に関わったとも伝えられる城郭です。朝霞市の都市公園として整備されているもののその割には本郭、二の郭、折のつけられた堀切、数ヶ所の腰郭、斜面中腹の帯郭、物見台などがよく残されています。
 西側の城山通りからみた光景は清掃も行き届いており、丸太でできた階段などが施されているものの、すぐに城跡と判別できる風情があります。三の郭の一部と思われる小郭の西側のコンクリートで固められた公園部分を除けば、程よく保存整備されているのではないかという印象でした。ただ2か所ある堀切は何れも幅については十分にあるものの、現在の深さは1.5mから最も深いところでも3mしかなく当時の規模が分からないだけにやや拍子抜けしてしまう感があります。公園化の際の発掘により薬研堀の形状を持っていたことが確認されているということですので、当時はもう少し深かったものと思われますが。
 また、城山公園の周回路となっているよく整備された帯郭は、どの程度公園化の工事の際に手が加えられているのか歩いただけでは分かりませんでした。
■また、本郭の物見櫓台の下には岡城の城主と思しき年老いた巨大な眠り猫様がいらっしゃって、ひたすら午後の惰眠を貪っておりました。一言、二言ご機嫌をお伺いしたのですが、接近しても全く動じるそぶりもなく、少し薄目を開けただけで再び瞑想の世界に入られたようです(^^;

Best Shot?

 史跡としての保存計画では当初は「史跡公園」であったものが「都市公園」となり、純粋な史跡としての保存は難しくなったようです。現在ならばいざ知らず、その当時としてはやむをえない選択だったのでしょうか。
 現在はこのように1972年の夏に着工した城山通り(市道894号線)により西側が削り取られてしまっていますが、1966年夏に撮影された「調査報告書」に掲載されている田島の花ノ木方面から撮影された写真を見る限り、黒目川と周辺の湿地帯に西側を除く三方を囲まれたまさに天然の要害でした。その西側部分に小口(大手)と4の郭があったそうです
 ( 2005/01/28 撮影 晴 )
交通アクセス

・朝霞市市内循環バス城山公園バス停留所前徒歩1分MapFan Web の案内図です 


( 2005/01/28 撮影 )

■削平されてしまったという手前の平らな部分の四の郭と何とか残された三の郭。
 なにもコンクリートで固めなくてもと思いますが、もう20年も前のことなので今更どうしようもないですけど(^^;
■城山公園の案内板。道路の建設により消失した大手の様子は「あさかの歴史」に鮮明な写真が掲載されている。
■三の郭( 左側 )と二の郭( 右側 )の間の折のついた堀切部分。
 上幅で約20m、深さ2m以上という所です。右側部分は土塁が残っているために見かけの深さは約2.5mから3mとなります。
■広々とした二の郭で、直径約55mの楕円形。築城当時高低差をつけるために、本郭よりも1m低くなっているということです。
 土塁は東側の部分はこのように消滅しています。
■本郭の方は二の郭の1/3以下の広さですが、周辺の土塁は何とか残されています。
 高さにして1m程度という所です。東西40m、南北40mの楕円形。
■本郭( 左側 )と二の郭( 右側 )の間の折のある堀切。幅20m、本郭側の深さは土塁の高さもあるので3m近い。
 しかし、二の郭の方は1.5m足らずであり、かつては土塁が廻らされていたことが窺えます。
■二の郭と本郭の間のコンクリート製の橋の上から見た堀切と腰郭。
 地形の関係でこの部分の堀切の深さは5m近くとなります。
■二の郭の南東部の張出し部分から見た本郭との間の堀切。市の調査報告書では深さは4mから5mはあったということですが、現在はこのような状態です。
■本郭東側の土塁。
 北側の小口部分と思われる個所を除き低い土塁がほぼ確認できます。
■本郭の南側の張出した部分に所在する物見櫓台といわれている場所。
 失礼して登ってみましたが、高さにして2mもない程度なのですが比高差10mがあるので眺めはけっして悪くはありません。調査により柱穴が3ヶ所確認されたそうです。
■この場所に岡城の城主である巨大な眠り猫様がいらっしゃいました(^^;
 枯れ草の間から黒いお尻が覗いてます。
 正面の小山が物見櫓台です。 2005/01/28日記の頁へ
■本郭北東側の斜面。
 手前の方は公園となっていて人工の渓流やフィールドアスレチック風の遊具が設置されている。
■同じく本郭の北東側の斜面。主郭の比高が低く見えるのは帯郭が高さ5m付近をぐるっとめぐっていて丘陵が二段構えとなっているためです。
■本郭と二の郭の間の腰郭でこのような小郭が帯郭に沿って4ヶ所ぐらいあります。ただし市の調査報告書では腰郭とは断定しがたいとしています。通路のように見えるのは帯郭ということのようです。
■北東側にある駐車場の近くから、主郭を望む。
 梅沢氏が著書の中で指摘しているように、確かに斜面と平地の境あたりに空堀があっても良いような光景です。
■城山通りから見た岡城の北西部分です。
 完全に公園として整備されていますが、何枚かの写真のように城跡としての面影も残っています。
 
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