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福岡城(城山)
関連ページのリンク  2004/12/23の日記  2004/12/25の日記  大久保城  長宮城(長宮遺跡)  
所在地
埼玉県上福岡市下福岡天神廻り
歴史と沿革

■「新編武蔵風土記稿」の記述によれば福岡村の項に「城山 東方にあり、陣屋蹟とも呼ぶ、北より東にめぐりて二重堀の跡あり、居所ともおぼしき所二十坪ばかり、又塚の如き所あり、西の方に戸開きと云所あり、是大手の跡なるべしと云、此外蔵屋敷と云所もあり、何人の居蹟と云ことを傳えず、按に此辺小田原北条家人富永善左衛門が領せしことは、村名の條に見えたれば、若くは富永が城蹟なりしや....」と記されている。
 即ち後北条家家臣の富永善左衛門とのかかわりを推定し「新編武蔵風土記稿」が編纂された江戸時代の終わり頃においても陣屋跡と呼ばれていたことを示すと共に、城跡であったことを示す地名が残されていることを明らかにしている。
■江戸衆富永善左衛門守定は江戸城副将格の富永直勝の甥にあたり、「小田原衆所領役帳」によれば48貫623文を知行した。また、後北条氏滅亡後は子孫が旗本として徳川家に仕えたという。
■城跡の遺構に関係する地名としては「たかまま」(高馬場)「湯殿」「屋敷」「戸開き」「西門道」などが残されているという。また、城跡の名称については「上福岡市史」などでは城山という呼称を使用している。
■「上福岡市史」では富永氏がこの地に配属されてきた理由として、富永氏の出身地である土肥水軍としての操船技術を挙げ、新河岸川を介して江戸へ物流拠点としたのではという推論を提示していることは大変興味深い。

確認できる遺構
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■現在は河川改修工事により、新河岸川はこの地域の西側を北から南に流れています。
 しかし、当時においては絵図などから新河岸川は西側を除く北、東、南の三方を大きく蛇行して流れていたことが判明しています。
 また、支流である大井江川が西方から流れ南方で合流しているためほぼ河川に囲まれた一帯であったことになるようです。このため、大久保城の周辺と同様に河川の氾濫対策として、どこの民家でも数十センチほどの宅地の盛り土を施し水田との高低差をつけています。
■また、大久保城は東側を流れる旧新河岸川を挟んで約800メートルの地点に所在しています。新河岸川の水運による物流の問題を考えた場合には、この両者の城館が新河岸川を扼する形でその押さえとしていたことも推測できるのではないかと考えます。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「上福岡市史 通史編上巻」( 2000年/上福岡市教育委員会編集、上福岡市発行)
「上福岡市史 資料編第1巻自然史・考古」( 1999年/上福岡市教育委員会編集、上福岡市発行)
「上福岡の社寺と指定文化財」(1997年/上福岡市教育委員会編集・発行)
「上福岡の歴史散歩」(1980年/上福岡市教育委員会編集・発行)   

文化財指定
訪城年月日
2004/12/23、2004/12/25
訪城の記録

( 2004/12/23、2004/12/25 )
相も変らぬ準備不足で
 前日に、「上福岡市史」の該当個所をコピーして用意万端整えて現地に再訪。一昨日、だいたい推定していた場所と殆ど違いはありませんでしたが、やはりしっかりした資料を基にして歩いてみるのとでは大違いでした。もちろん水田と点在する民家が目に入るだけで、堀跡といわれるやや低くなった様にも見える水田などを除いては、具体的な遺構を視認することはできませんでした。
 しかし、館の主として推測される富永氏が鬼門の備えとした、やや傾きかけた古びた天満宮の祠の確認に成功。また、あくまでも現地の状況に比べて、やや立派過ぎるような同所に市が設置した詳細な説明版も目にすることができました(^^;  

Best Shot?

 天神社(天満宮)の所在する場所に建てられている「城山」の説明版。城主の富永氏や城跡の規模などについて説明がなされていますが、城跡の規模について一町(109m)四方の方形館との解説がありますが「上福岡市史」の「城山想定図」によると三町ぐらいの規模になってしまい、どちらが正しいのか少し調べてみることに。
 その結果として、まず「上福岡市史」の「城山想定図」の縮尺が、どうも間違っているようであることが判明。次に、そうだとしても城跡の規模はどう見ても一町半の規模があり、両方とも記述としてはやや正確さを欠くようです。
 ( 2004/12/23 撮影 晴 )
交通アクセス

・西部バス「下福岡バス」停留所より南へ徒歩8分。正面に県立福岡高校の建物、その右手に上福岡市立清掃センターの建物が見えます。
 しかし、具体的な目印が殆どないので、「上福岡市史」の427ページ掲載の「城山想定図」を図書館などで入手してから訪城することをお勧めします。


( 2004/12/23 撮影 )

■訪城の場所があまりにも近すぎて時間が余り、事前の下調べを殆ど行わず向かったために、何が何処やら分からず多分この辺りが城跡だろうという有様....結果的に大体の位置は合っていましたが、いつものことですが全く学習能力が欠如していて....
■何か由緒のありそうなお宅でしたので、とりあえず撮影させていただいたところ、後で調べてみると、城跡にあった「城山大権現の石祠」の移転先でした。

( 2004/12/25 撮影 )

■城跡の南側の道端にある上部のみが残されている板碑。主尊バク(釈迦如来)のように見えますが、間違っていたらごめんなさい。
■城跡とされている地域の南端辺り。東西方向の道路がこの辺りだけ北側へ台形状の屈曲をしています。この近辺が何とか城跡らしい雰囲気を辛うじて残している様に思えますが。
 かつては水田の一部分が周囲よりも低地になっており堀跡であった形跡が確認できたそうですが、現在ではその面影は全くありません。
■城の鬼門(北東方向)を守護したといわれる天満宮。やや古びて気のせいか傾いて見えたのですが、近くでよく見ると5度ほど本当にかなり傾いていました(^^;
■「上福岡市史」で推定している城跡の中心地、とはいってもご覧の通りの一面の水田地帯です。
 一昨日の山勘がおおむね当たっていたのはそれなりに嬉しかったのですが。
■「西門道」の地名が残る辺り。
■「西門道」の北側約200mの位置にある「扉開き」の地名が残る辺り。
 
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