■「新編武蔵風土記稿」の記述によれば福岡村の項に「城山 東方にあり、陣屋蹟とも呼ぶ、北より東にめぐりて二重堀の跡あり、居所ともおぼしき所二十坪ばかり、又塚の如き所あり、西の方に戸開きと云所あり、是大手の跡なるべしと云、此外蔵屋敷と云所もあり、何人の居蹟と云ことを傳えず、按に此辺小田原北条家人富永善左衛門が領せしことは、村名の條に見えたれば、若くは富永が城蹟なりしや....」と記されている。 即ち後北条家家臣の富永善左衛門とのかかわりを推定し「新編武蔵風土記稿」が編纂された江戸時代の終わり頃においても陣屋跡と呼ばれていたことを示すと共に、城跡であったことを示す地名が残されていることを明らかにしている。 ■江戸衆富永善左衛門守定は江戸城副将格の富永直勝の甥にあたり、「小田原衆所領役帳」によれば48貫623文を知行した。また、後北条氏滅亡後は子孫が旗本として徳川家に仕えたという。 ■城跡の遺構に関係する地名としては「たかまま」(高馬場)「湯殿」「屋敷」「戸開き」「西門道」などが残されているという。また、城跡の名称については「上福岡市史」などでは城山という呼称を使用している。 ■「上福岡市史」では富永氏がこの地に配属されてきた理由として、富永氏の出身地である土肥水軍としての操船技術を挙げ、新河岸川を介して江戸へ物流拠点としたのではという推論を提示していることは大変興味深い。 |