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小島氏館跡 | |
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関連ページのリンク | 2004/10/29の日記 法音寺館 塚越城 |
埼玉県坂戸市小沼島崎521付近 | |
「坂戸市史」によれば「少林寺は鳳雲山聖諦院と号し、寺の近くに住していた小島氏の祖、道斎宗現沙弥が永禄2年(1559年)に起立した。その当時は小島氏の持仏堂のようなものであった」のではないだろうかとしている。小島氏は西側にある西光寺の創建にもかかわっている。また、「同史」には「西光寺周辺には後北条氏の時代に築かれたと思われる土塁・構堀の跡があちこちに残っているが、おそらく小島氏らの手によって造られたものであろう」としている。そうしたことで上記の呼称となっている模様である。「埼玉の中世城館跡」などではこのほかに「小島氏屋敷」というのもあり、その区別がよく分からない。 | |
土塁、空堀、水掘 | |
構造的特徴および周辺の地理的特徴 | 南北を入間川と越辺川の間に挟まれた入間台地。そのうちの更に支流の高麗川と小畔川に南北を挟まれた坂戸台地の北端、法音寺館跡の北西側300mの位置にあり北側越辺川との間には大きく水田地帯が広がっている。従って北側部分の眺望はよく、また西側1kmには西光寺の塚越城がある。「坂戸市史」によれば中世では、今の飯盛川に沿ってこの台地の下辺りを越辺川が東流していた模様である。現在は行われていない模様であるが、近年まで鯉の養殖が行われていたと思われる水田を利用した池沼が点在している。また、付近の台地の水田に面した周縁部には他にも屋敷・館跡と思しき遺構らしきものが散見されている。 |
「坂戸市史」(1992年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行) | |
無 | |
2004/10/29 | |
<<2004/10/29>> この日は川越市内から入間川にかかる平塚橋を渡り大穴城のある東坂戸団地の東側から伊勢物語にも登場する三芳野方面に向かった。通り道なので「法音寺館跡」により「土塁」と「水濠」の確認と撮影をし、デジカメの電池残量の不足に慌てつつ小島屋敷跡を目指した。道すがら、土塁状の遺構らしきものをを2ヶ所ほど目にしたが、きりがなくなるので見なかったことにして取り敢えず目的地の小沼の少林寺に到着(^^; 本当に坂戸市は中世の城館跡がやたらと点在しており、自分のように観察力の乏しい人間でも、この後でまた3ヶ所ほど目に入ってしまうというほどに多い。いちいち立ち止まって観察していたら収拾がつかなくなるほどの状況であり、この分では坂戸市内の制覇はあと4、5日分はかかりそうな雰囲気である。もちろんその全てが中世の城館の遺構ではなく、空堀は近世以降の耕作のための排水施設であったりすることも多いとは思うけれども。 | |
少林寺境内にある魚藍観音とその説明版。見づらいけどサムネイルです。一応(^^; 三十三観音の一つで、手に魚を入れたかごを持っている像と、大魚に乗っている像とがある。背説や毒竜・悪鬼の害を除く功徳があるといわれ、わが国では中世以降盛んに信仰されたという(「大辞林」より) この魚藍観音は鯰の上に乗っているとのことであり、しばらく観察していたがどうしても鯰には見えなかった。 <<2004/10/29 撮影 晴れ>> | |
坂戸市小沼521の少林寺を目指す。南側の手前にある氷川神社にまた微妙な土塁があったりして....(^^; |
少林寺の北側民家との境にある空堀跡だと思いますけど。よく見れば左の少林寺側には土塁のような痕跡が無くもないような......。 | |
水田との間の堀跡。水濠となっている。幅は広いところで2間以上ありそう。 | |
この辺りの堀幅は3間近くあるが、当時の姿を伝えているかどうかは不詳。 | |
「クイズ」 Q:はて、この越辺川の川原に屹立する比高8mほどの墳丘は何でしょう。 「答え」 Ans:近くの雷電塚古墳ではありません。不法投棄された産業廃棄物の山です。一瞬古墳かと思いましたけど(^^; これが悲しい日本の現実のひとコマ。 | |
越辺川の川原に広がる黄金の薄野原。季節の移ろいとともに穂先の色が濃くなってきたような。 |
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