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広沢堂山館
関連ページのリンク  2005/02/21の日記  洞山館  岡城  滝の城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ4 交通利便3 体力消耗  歴史経緯2 総合18
所在地
埼玉県朝霞市栄町1−1付近
歴史と沿革

■広沢観音については、「新編武蔵風土記稿」の記述によれば「広沢観音は、以前は現在の場所よりも南の岡上にあり、堂宇も広大であったが、天正18年の滝の城の合戦の時に後北条方が合図の狼煙を上げるために、堂宇に火をかけたというような伝承があるが、今は礎石だけしか残されていない」と記され、また、このあたりを堂山という小名が残されているとも伝えている。
 広沢庄は古くは、平安時代からの荘園の存在から伝わっていると考えられる名称であるが、「朝霞市史通史編」によれば練馬区の大泉に所在する妙福寺の梵鐘銘に「武州新倉郡広沢庄」と刻まれているものが最も古いものとされている。しかしこれは、寛文4年(1664年)に鋳造されたものであり荘園が存在した時代よりもはるか後世の存在である。また、「同史」によれば「広沢郷」とした場合には延徳3年(1491年)の鍔口銘に見られるという。その範囲については「続日本紀」に見られる奈良時代末に設置された「新羅郡」の範囲を想定して、朝霞市、新座市、和光市と保谷市、志木市の一部を含むものと推定されている。また、「吾妻鏡」には広沢氏に関する記述があり、広沢の地との関連をうかがわせている。
 こうしたことから、荘園役人である荘官の館が築かれその後中世武士の館として機能していったというようなことが推定できるものの、具体的な確証を欠いている。なお、この地の西側にはかつて戦前には陸軍の被服廠朝霞分廠地がおかれ、戦後は米軍の通称キャプテンドレイクといわれた軍事施設のキャンプが長期にわたり設置されたために、土地の形状は大きく改変されているという事情があり、広沢庄やその館の歴史を掘り起こすことは困難な模様である。

確認できる遺構
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■黒目川と越戸川の間の北に伸びる低地との比高差は6〜8mの洪積台地の東端に位置していたものと推定される。

参考資料、古文書、
記録

「あさかの歴史」(1997年朝霞市発行)
「朝霞市史通史編」(1989年朝霞市発行)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「朝霞の文化財 第一集」(1962年/朝霞市教育委員会発行)
「岡の城山 朝霞市文化財調査報告書台10集」(1983年/朝霞市教育委員会発行)
「郷土史朝霞1」(1983年/森春男編/朝霞市郷土史研究会発行)
「郷土史朝霞2」(1988年/森春男編/朝霞市郷土史研究会発行)
「朝霞の石造物3 市史調査報告書第11集」(1994年/朝霞市教育委員会発行)
「朝霞むかしむかし」(1986年/子どもの本を読む会編/朝霞市立図書館発行)   

文化財指定
訪城年月日
2005/02/21
訪城の記録

( 2005/02/21 )
戦国時代の戦火に焼かれ、敗戦後は占領軍の基地となり 
 館跡を含む元来の所在地は現在の広沢観音堂のあるあたりの南側の台地で朝霞八小学校の北側付近のようです。西側は戦前は陸軍の施設があり、戦後暫くは米軍の通称キャンプドレイクと呼ばれる基地があったため、小学校の建設以前に土地の形状が相当に変更を加えられて現在に至っていますので、古代から中世にかけての荘園「広沢荘」についての伝承のみ遺されているという状況でした。僅かに観音堂のあるあたりは周辺が宅地に囲まれているものの、いかにも歴史的なたたずまいを感じさせる光景が残されています。しかし、市の文化財に指定されている景勝地広沢の池も、崖線からの湧水はあるようですが池全体の水質が落ちてきているのでしょうか、深さ不詳の黒々とした水を湛えていました。歴史的な経緯は明確ではありませんが、伝承・伝説の類に関してはかなり遺されています。

Best Shot?

 道路沿いから見たこの角度だけが唯一落ち着いた佇まいを感じさせる広沢の池。
 観音堂の付近は安全対策、ゴミの不法投棄対策などの理由だと思いますが、下の写真のようなネットフェンスで囲まれており、一時的なものだとは思われますが、写真の左側手前の部分は鉄板を設置した護岸工事が施されています。
 ( 2005/02/21 撮影 晴 )
交通アクセス

・東武東上線朝霞駅西口下車徒歩7分。MapFan Web の案内図です 


( 2005/02/21 撮影 )

■歴史の古い広沢観音堂。「市史民俗編」によると広沢観音は現在は東圓寺の所管となっていますが、実態としては地元の広沢町内会の広沢観音講の関係者によって管理されているということです。また、広沢の観音様は浅草の観音様と姉妹であるという伝承もあります。天承18年の時も観音様は焼け残り、敗戦後進駐軍の兵士により持ち出されたりするなどの盗難にあっても必ず元に戻ってくるという伝承とも現実とも区別できない不思議な曰くがあるそうです。
■市の立てた広沢の池の標柱。また、どこの土地にも時々登場しますが、杖で地面をたたいたら水が湧き出して広沢の池となったという弘法大師の伝承もあります。 「市史」では荘園のあり方も含め京都の広沢の池との関係を窺わせる記述をしているが。
■崖の中腹にある祠へと続く小道。
■先ほどの小道は途中で行き止まりですが、その崖の上は現在はこのような風景で、この右手の一段高くなっている所に小学校の校庭があります。
■観音堂境内に所在する、延宝4年(1676年)の銘がある十一面観世音菩薩(左側)。頭部は後世の修復によるもの。中央は貞享3年(1686年)の銘が刻まれていた地蔵菩薩?
■広沢の池のほとりにある幕末の文久2年に建立された不動明王像。
 
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