■広沢観音については、「新編武蔵風土記稿」の記述によれば「広沢観音は、以前は現在の場所よりも南の岡上にあり、堂宇も広大であったが、天正18年の滝の城の合戦の時に後北条方が合図の狼煙を上げるために、堂宇に火をかけたというような伝承があるが、今は礎石だけしか残されていない」と記され、また、このあたりを堂山という小名が残されているとも伝えている。 広沢庄は古くは、平安時代からの荘園の存在から伝わっていると考えられる名称であるが、「朝霞市史通史編」によれば練馬区の大泉に所在する妙福寺の梵鐘銘に「武州新倉郡広沢庄」と刻まれているものが最も古いものとされている。しかしこれは、寛文4年(1664年)に鋳造されたものであり荘園が存在した時代よりもはるか後世の存在である。また、「同史」によれば「広沢郷」とした場合には延徳3年(1491年)の鍔口銘に見られるという。その範囲については「続日本紀」に見られる奈良時代末に設置された「新羅郡」の範囲を想定して、朝霞市、新座市、和光市と保谷市、志木市の一部を含むものと推定されている。また、「吾妻鏡」には広沢氏に関する記述があり、広沢の地との関連をうかがわせている。 こうしたことから、荘園役人である荘官の館が築かれその後中世武士の館として機能していったというようなことが推定できるものの、具体的な確証を欠いている。なお、この地の西側にはかつて戦前には陸軍の被服廠朝霞分廠地がおかれ、戦後は米軍の通称キャプテンドレイクといわれた軍事施設のキャンプが長期にわたり設置されたために、土地の形状は大きく改変されているという事情があり、広沢庄やその館の歴史を掘り起こすことは困難な模様である。 |