■「上福岡市史」によれぱ発掘調査により延長約60mの箱薬研形状の堀が確認されて、中央部の大型の井戸跡を始めとする複数の井戸後も確認されている。 出土した遺物からは古いもので13世紀ごろのものがあるが、大半は15世紀から17世紀にかけてのものであることから、一般の農民層とは異なる中国製青磁器、瀬戸美濃産天目茶碗、志野皿などの高級品が含まれ、この年代に堀に囲まれた屋敷群が存在したものと推定している。全体の分布状況としては長宮氷川神社の東側に多いということである。 ■また、長宮氷川神社の縁起によれば神社の周辺は「長宮千軒」として栄え、戦乱により戦国時代に壊滅したという伝承があるとのことである。しかし、「新編武蔵風土記稿館」にも伝承の記述はなく、館の主などの資料も不明な模様である。 ■長宮氷川神社に伝わる「長宮氷川大明神略記」によれば、栄禄年間に後北条氏が福岡城の富永善左衛門を通じて、「神領若干、神燈油料の免田迄奇付せらる」と記されている。 つまり、これは神前に奉げる燈明の燈油のための免税地を寄進されたという記録であり、また、「油面」(免田?)という伝承地名は現在も神社北東の地名として残されているとのことである。 |