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2019年3月14日のブログ 凸小神明の砦 凸小神明の寄居 凸滋野屋敷 凸勝沢城 |
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群馬県前橋市鳥取町309―1ほか |
( 2019年3月14日 撮影 ) 凸城館跡の西側(画像の手前部分)には藤沢川が流れており、その堰堤上を北に向って歩いているとの右手(東側)の民家裏にこのような感じの人工的な地面の高まりが目に入りました。近年に樹木等の伐採が行われたことにより目につきやすくなったいう印象はありますが、足元からの高さは3m近くあるように思われました。
おそらくは現在の堰堤が整備される以前の古い堤防か、民家の屋敷神などを祀るための築山か、あるいは城館跡の残滓であるのかについては不明なのですが、その後いろいろと調べておりましたところ、この付近でかつての藤沢川の川道が大きく東側(画像の奥方向)に蛇行していたことが分かりました。従ってこのことに起因する地形である可能性が高いのですが、それでもその全てが河川の蛇行とこれに伴う築堤工事によるものであるのかまでは断定できないようにも思われました。 ( 2019年3月14日 撮影 ) 凸鳥取城北辺部の西側付近の低い河岸段丘状の地形のようにも見える画像です。 城跡としての領域はこの画像の屋敷林の所在する右側部分であると推定されていることから、画像左側の石積みは領域外となるためあくまでも後世のものであるのかも知れません。
なおこの画像の右手付近の民家宅地境には、ほんの僅かではありますが土塁と堀跡のように見えなくもない地形が残存しているように見受けられましたが、屋敷の北西方向でもあることからむろん後世における屋敷の風除けのための土塁である可能性も考えられます。 ( 2019年3月14日 撮影 ) 凸現在鳥取城跡の中心部付近にはこの大鳥神社が所在しており、この神社の文化財解説板のなかに僅か2行ほどですがこの城館跡に関する記述を見ることができます。
( 2019年4月1日 編集加工 ) 凸赤色の破線で囲んだ個所が鳥取城の領域であると考えられているようです。現在では城跡のすぐ北側には大正期に建設された灌漑施設である「大正用水」が流れ、この画像には書き入れませんでしたがそのさらに北側には国道17号線バイパスでもある「上武道路」が東西方向に縦断しています。
一見しますと北方の丘陵続きの部分がこの城館跡の地形上の弱点であるように感じられますが、仮に古河公方、扇谷上杉氏勢力を意識した場合には、主に南と東にその防御の重点を置くものと考えられることからそれなりの整合性は保たれているのかも知れません。 |
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凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの) ■城郭関係 ■歴史・郷土史関係 ・2019年4月2日 HPアップ
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