群馬県内の城館跡目次
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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク 2019年3月14日のブログ 小神明の砦 小神明の寄居 滋野屋敷 勝沢城
所在地
 群馬県前橋市鳥取町309―1ほか
歴史、人物、伝承

長享の乱の足跡
◎あの鳥取城とは無縁
 名称は同じではあるがかの有名な豊臣秀吉による「餓え殺し」とも称された包囲戦術により落城した鳥取県に所在する鳥取城とはあくまでも無関係の城館跡である。
然しこの鳥取の地名が冠されたのは既に15世紀末頃に既に「鳥取」という地名が既に存在していたことによるものであることから、無論後世の作為やこじつけなどによるものでは無い。
 この「鳥取」の地名については、かつてこの地に所在していた「鳥取大明神」に因むものとされ、残されていたかつての「神額」から現在の大鳥神社をこの鳥取大明神であると比定しているという。(「芳賀村誌」より)

旧芳賀村は明治22年から昭和29年の間に存在した村名であり、この旧鳥取村を含む小坂子、五代、端気、嶺、勝沢、小神明の七か村が合併し成立したものである。また「芳賀」の地名は「和名類聚抄」によれば既に平安期に見えているという古代に遡る古い地名であるとされている。(「角川日本地名大辞典」より)

◎長享年間に赤堀氏、発智氏が在陣
 築城などの年代、経緯は不明であるとされているが、下記15世紀末の長享年間の古文書に上野衆等の鳥取在陣に関する動向が記されており、この鳥取には他に城館跡の形跡が確認されないことから、これらの記述がこの鳥取城に関連するとものと推定しても差し支えないようにも思われる。
 長享元年(1487)?と推定される年未詳12月18日の「赤堀上野介宛上杉定昌書状」(赤堀文書/群馬県史資料編7巻)に「鳥取在陣衆、無越度様、可被意見候」とあり、これは扇谷上杉氏との同族争いである「長享の乱」に際して、越後守護上杉房定の嫡子である上杉定昌がその当時この鳥取の地に軍勢を在陣させていた赤堀氏に対して発給されたものである。
 また長享2年(1488)2月7日には定昌の実弟である関東管領上杉顕定より赤堀氏に対して鳥取在陣とその働きに関する感状が発給されている。(「戦国史 上州の150年戦争」41頁より)なお、ほぼこの同時期に越後魚沼郡を本貫地としていた発智氏もこの鳥取に在陣していたことを窺わせる文書も伝わっている。(「発智文書」/「戦国史 上州の150年戦争」42頁より)

上杉定昌は長享2年(1488)3月24日に上野の白井城において自死したとも伝わるが、その背景を巡っては実弟の房能との越後守護の家督争い、扇谷上杉氏あるいは長尾景春などによる暗殺説もあり不明な点が少なくない。

確認可能な遺構
 一部に土塁・堀跡の残滓?
文化財指定
 なし(※大鳥神社境内に所在する解説板のごく一部に鳥取城の記述がある)
訪城年月日
 2019年3月14日 12時50分から13時30分(※この日もほぼ昼食抜き)
訪城の記録 記念撮影

 一日は2万歩まで
 城館跡の西側には藤沢川が流れており、その堰堤上を北に向って歩いていると右手(東側)の民家裏に人工的な地面の高まりが目に入りました。 現在の堰堤が整備される以前の古い堤防か、民家の屋敷神などを祀るための築山か、あるいは城館跡の残滓であるのかについては不明です。 さらに北へと歩みを進めていくと右手方向に折れてゆく小道がありましたが、どうやらこの小道が城館跡の北限に相当するものと思われたことから、そのまま上武鳥取交差点へと向かう市道を横断して、城館跡の東側へと向かうことにしました。
 また途中の民家宅地境には、ほんの僅かですが土塁と堀跡のように見えなくもない地形が残存していましたが、むろん後世における屋敷の風除けのための土塁である可能性も考えられるなどと思いつつ先を急ぎました。 当城跡の中心部付近には大鳥神社が所在し、神社の解説板に僅かにこの城館跡に関する記述を見ることができます。 なお現在では当該砦跡の中心部には金型製造の工場が所在しています。
 さて、この時点で時刻は未だ午後1時半過ぎでした。 それでも午前中は吹きまくっていた北寄りの風も弱まり、少し暑いくらいの春先の陽気となってきました。 しかし今回は約2か月以上のブランクが存在していました。  一向に改善されない様子の変形性股関症の可能性などの問題もあり、今回は殆ど遺構が現存していない文字通りの城館跡ではありましたが、すでに当初の目標であった以上の6個所を廻り終えていたこともあり、別途内反小指の痛みを感じ始めたところで撤収を即断いたしました。
 なお今回の探訪先はほぼその全てが赤城山の南麓に位置する城館跡であり、赤城山の中腹辺りに水源を有する小河川による浸食谷によりその東西方向が防御されることとなるという共通性を有しています。 また上武道路を挟み北約1kmに所在している勝沢城とは東西を流れる小河川が共通していることにあらためて気づきました。
 今回は全て車で近くまでアプローチして最短距離を歩くことも考えたのですが、次第に足の動きも軽くなってきたこともあり、足の感触を確認すべく結局約2万歩ほどの行程となりました。 その結果、平地であるとはいうものの当初の懸念とは裏腹に、歩幅とスピードについては問題があるもののどうにか歩行できることだけは確認できました。 尤もそのことが比高差を有する山城方面への適応力となるのかどうかについては、自分の体ではあるが今のところは何とも分からないというのが現状でした。 今後に再び山城方面へ向かうとしても、あと少なくとも2度くらいは平地を歩き足回りの引き続きその様子を観察しておくべきであろうとも感じました。
 帰路は上武鳥取町の交差点から再び上武道路を経由したが、花粉症の症状は継続する明確な目のかゆみとして現れていました。 また帰宅後に鼻腔の周りを検証してみると明らかに花粉の塊と思われる物質が付着していたので洗面所にてきれいさっぱりと洗い落としました。 たぶん少なくともこうした症状はあと1か月くらいは続く感じがするのですが、今年の花粉症の症状はとりわけ目に来るという傾向があるようでした。
( 2019/4/2 )記述
鳥取城の西域
鳥取城西域附近の地形 −画像A−
( 2019年3月14日 撮影 )
凸城館跡の西側(画像の手前部分)には藤沢川が流れており、その堰堤上を北に向って歩いているとの右手(東側)の民家裏にこのような感じの人工的な地面の高まりが目に入りました。近年に樹木等の伐採が行われたことにより目につきやすくなったいう印象はありますが、足元からの高さは3m近くあるように思われました。
 おそらくは現在の堰堤が整備される以前の古い堤防か、民家の屋敷神などを祀るための築山か、あるいは城館跡の残滓であるのかについては不明なのですが、その後いろいろと調べておりましたところ、この付近でかつての藤沢川の川道が大きく東側(画像の奥方向)に蛇行していたことが分かりました。従ってこのことに起因する地形である可能性が高いのですが、それでもその全てが河川の蛇行とこれに伴う築堤工事によるものであるのかまでは断定できないようにも思われました。

鳥取城の北西部付近
鳥取城の北西部付近 −画像B−
( 2019年3月14日 撮影 )
凸鳥取城北辺部の西側付近の低い河岸段丘状の地形のようにも見える画像です。 城跡としての領域はこの画像の屋敷林の所在する右側部分であると推定されていることから、画像左側の石積みは領域外となるためあくまでも後世のものであるのかも知れません。
 なおこの画像の右手付近の民家宅地境には、ほんの僅かではありますが土塁と堀跡のように見えなくもない地形が残存しているように見受けられましたが、屋敷の北西方向でもあることからむろん後世における屋敷の風除けのための土塁である可能性も考えられます。

大鳥神社の文化財解説板
大鳥神社の文化財解説板 −画像C−
( 2019年3月14日 撮影 )
凸現在鳥取城跡の中心部付近にはこの大鳥神社が所在しており、この神社の文化財解説板のなかに僅か2行ほどですがこの城館跡に関する記述を見ることができます。

国土地理院航空写真
国土地理院航空写真 −画像D−
( 2019年4月1日 編集加工 )
凸赤色の破線で囲んだ個所が鳥取城の領域であると考えられているようです。現在では城跡のすぐ北側には大正期に建設された灌漑施設である「大正用水」が流れ、この画像には書き入れませんでしたがそのさらに北側には国道17号線バイパスでもある「上武道路」が東西方向に縦断しています。
 一見しますと北方の丘陵続きの部分がこの城館跡の地形上の弱点であるように感じられますが、仮に古河公方、扇谷上杉氏勢力を意識した場合には、主に南と東にその防御の重点を置くものと考えられることからそれなりの整合性は保たれているのかも知れません。

訪城アルバム
榛名山方面
凸1 榛名山方面
 鳥取城の西側から撮影したもので、北西方向にはこの榛名山が、そして以下の画像のように北側には赤城山が眼前に聳える眺めの良い城跡です。

赤城山方面
凸2 赤城山方面
 鳥取城の領域は画像の右側で、画像左側にはの藤沢川がながれ、その流路は河川改修などにより変わってはおりますが、往時には天然の防御ラインとなっていたものと推定されます。

赤城山方面
凸3 赤城山方面
 この日は午前中から正午頃までにかけては北よりの風が強く吹き荒れて、いつもなら春霞みに隠れがちな赤城山方面の眺めもなかなかの絶景となりました。

城跡北辺部
凸4 城跡北辺部
 「略測図」などに参照しますと、おそらくこの細い路地のライン附近が鳥取城跡の北限のように思われました。

内出付近
凸5 内出付近
 東側の河川沿いから撮影したもので、上記画像Bと同様に段丘状の地形が所在しており、この高台となっている辺りが概ね「内出」と呼ばれていたように思われます。

城跡の東側
凸6 城跡の東側
 城跡の西側を流れている藤沢川に比べますと、河川改修の影響もあるのか幾分川幅も狭いように感じましたが、それでも鳥取城東側の重要な防御ラインであったもののように思われました。

大鳥神社
凸7 大鳥神社
 東日本震災などの影響でしょうか、瓦屋根の一部が破損しており、安全のためロープが張り巡らされ参拝が規制されておりました。

大鳥神社境内
凸8 大鳥神社境内
 大鳥神社の境内地は、河岸段丘や赤城山の火山活動など全くの自然地形によるものなのか、或いは城跡の普請に伴うものか、神社の整備に伴うものかは不明ですが、このように幾分高台となっておりました。

内出付近
凸9 内出付近
 「内出」の地名が伝わるという城跡の中心部の様子ですが、宅地化が進んでいるためにあまり城跡の面影は見られませんでした。 なお画像の右側には大鳥神社の境内が所在しています。

石仏群
凸10 石仏群
 以前には城跡南端部の鳥取集会所に所在していたはずの中世の板碑を探してみたのですが、集会所の建替えなどによりどうやら移転したらしく、結局その所在が分かりませんでした。
このため地蔵堂近くの野仏などの石造物を撮影しました。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)巻末一覧表に掲載
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)掲載あり

歴史・郷土史関係
「戦国人名辞典」(2006/吉川弘文館)
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
 40ページから42ページにかけて、長享の乱における赤堀氏の行動に関する記述がある。
 42ページから44ページにかけて、長享の乱における発智氏の動向に関する記述がある。
「増補改訂戦国大名と外様国衆」(2015/戎光祥出版)
「戦国期上杉・武田氏の上野支配」(2010/岩田書院)
「関東上杉一族-中世関東武士の研究22巻」(2018/戎光祥出版)より「(上杉)房定の一族と家臣」(片桐明彦/著)
 ⇒ 上杉房定の嫡子である上杉定昌に関する事跡が掲載されている。
「前橋市史第1巻」(1971/前橋市)掲載なし

史料、地誌、軍記物
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
 「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。 ただしこの鳥取城の場合には残念ながら河川の流路以外には余り判然とはしていない。


更新記録
・2019年4月2日 HPアップ
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