群馬県内の城館跡目次
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 素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。
群馬県の城館索引へ戻る 滋野屋敷 滋野屋敷のロゴ 滋野屋敷
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2019年3月14日のブログ 上泉城 亀泉城 
所在地
 群馬県前橋市端気町(はけまち)
歴史、人物、伝承

滋野氏に関わる屋敷跡か
 上泉城が所在する台地とは浅い谷筋を挟んだ西隣の台地でり、南東約1kmに所在している上泉城もその南側は旧利根川の流路でもあった桃ノ木川により防御されているが、この16世紀頃とされている滋野屋敷においても桃ノ木川と合わせてその支流である時沢とも呼ばれている西側の小流などにより隔絶される地形である。
 なお、所在地である端気(ハケ)町の地名は「崖」(ガケ)から転じたものであり、経験上からは地形上の要害性を有した中世城館跡に関連している場合も少なくない。 この場合も赤城山南麓に所在する低丘陵の南端部に位置しており、その水田からの比高差は最大で10mほどを測る。
 「日本城郭大系」と「前橋市史」などには掲載が無く、城館関係の基礎資料は「マッピングぐんま」と「群馬県の中世城館跡」のみであるが、1983年に発掘調査が行われた模様であり、概ね東西約200m、南北約120mから150mの範囲の丘陵地帯に納まる方100m四方の規模を有すると考えられている城館跡である。
 なお「群馬県の中世城館跡」によれば、滋野氏の屋敷である旨が記載され、かつては土塁と堀が残存していたことが記されている。 なお「群馬県の中世城館跡」および「マッピングぐんま」などによれば、近隣には上泉城、亀泉城など大胡氏との関連が窺える中世城館跡が所在している。

確認可能な遺構
 ほぼ消滅か?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2019年3月14日 午前9時30分から10時00分
訪城の記録 記念撮影

 北西の風やや強し
 駐車可能なスペースが見当たらないことが予想されたので、県道76号線の上泉城近くのコンビニで買い物して、そこから約800mほど歩いて向かうこととしました。 こうして実際に歩いてみるととても地形の繋がりが理解しやすく、上泉城が所在する台地とは浅い谷筋を挟んだ西隣の台地であったということが判明しました。 上泉城自体もその南側は旧利根川の流路でもあった桃ノ木川により防御されているのですが、この滋野屋敷においても桃ノ木川と合わせてその支流である時沢とも呼ばれている西側の小流を含めて隔絶されるという地形なのでありました。
 現状では屋敷跡の範囲外となると思われる北東部付近に一部土塁と堀跡のような形跡が存在しているようにも感じるのですが、周囲を崖と耕作地などに囲まれた民家の敷地内であることから詳しくは確認することができませんでした。
なおこの時点では、北寄りの冷風がその強さを増し吹き抜け始めて、持参している関連資料のページをめくることさえ困難となってきていました。 このため、ついついうっかりして善勝寺、下曲輪地域等の中世の板碑及び前方後円墳である大塚の確認作業等を失念してしまったのでありました。 明らかな手抜かりでもあり、本来は再訪し確認をすべき事案であるのかも知れないのですが、己の年齢などを考慮しますとおそらくは未来永劫に渉りその機会はほぼ訪れることのないように思えるのでありました (^^ゞ
 なお辺縁部を反時計回りで回遊中、城館跡の西側崖線下道路沿いに若干の駐車スペースが存在していることが帰りがけに把握しました ^^
( 2019/3/23 )記述
屋敷跡の北東部から見える赤城山
屋敷跡の北東部から見える赤城山 −画像A−
( 2019年3月14日 撮影 )
凸春霞などのため少し霞んだように見える赤城山の雄姿で、画像手前の白い小さな花は春の野草のナズナ(別名をぺんぺん草とも)です。
滋野屋敷の中心部から東へと少し離れた辺りから撮影しております。

滋野屋敷付近
滋野屋敷付近 −画像B−
( 2018年月日 撮影 )
凸山崎一氏の作成された略測図と現状の地形を照合いたしますと、たぶん画像手前のダイコンの野菜畑付近が滋野屋敷の東側に相当するようです。
なお、屋敷跡と考えられる個所からはいくぶん東へ逸れてはいますが、画像右上の民家付近の景観が往時の趣をよく伝えているような印象を抱きました。

国土地理院航空写真
国土地理院航空写真 −画像C−
( 2019年3月23日 編集加工 )
凸赤色の太枠で囲んだ部分が文化財包蔵地と考えられ、山崎一氏が屋敷跡として想定されていますのは、そのほぼ中心付近の樹木に覆われている個所となるように思われます。

訪城アルバム
赤城山方面
凸1 赤城山方面
 屋敷跡が所在する丘陵の東側のやや浅い谷津地形です。

東側の道路
凸2 東側通路
 屋敷跡の東側約50メートルほどの個所を通る古い集落内の通路で70年前に撮影された航空写真画像に一致しております。
カーブの按配がとても自然で美しく感じられますが、正面に見える赤城山方向に向けて緩い上り坂となり、かつ画像左側の耕作地との比高差が徐々に増していきます。

字中曲輪付近
凸3 字中曲輪付近
 屋敷跡の存在との関わりは不明ですが、字名として伝わっているようです。

字井戸田付近から
凸4 字井戸田付近から
 丘陵東側の字井戸田という地名が残る谷筋の低地から見上げた地形で、屋敷跡が所在する方向は画像左奥で、右側は字中曲輪の地名が遺されている一帯です。

屋敷跡の中心付近
凸5 屋敷跡の中心付近
 この画像の手前から奥にかけて南北方向に貫通している道路がの両側辺りが屋敷跡の中心部です。 また画像右側の民家には屋敷門も見えて地元の旧家の佇まいが感じられました。
 なお山崎一氏が記された当該略測図によりますと、屋敷跡の北西角すなわちこの画像の左奥付近の一画に鉤の手状の土塁跡のように見える地形が記されておりましたが、現在は民家の宅地内となり既に削平されているように思われました。

ネコさん
凸6 人懐こいネコさん
 帰りがけに物凄く人懐こいネコさんに遭遇してしまいました^^  日向ぼっこの最中でしたが、警戒する素振りが見えなかったことから、試しに「おいでおいで」の合図をしてみたところ、「ニャオ〜」と鳴いて向うからどんどん近寄り足元にまつわりつきはじめ、口元を近づけてマーキングを始めました。 折角なので喉の辺りをそうっとなでてみると、こんな感じで狂喜乱舞することとなったのでありました。
 城跡ではネコさんに出会うことは珍しくはありませんが、これほど歓待されたのは10年ぶりのような気もいたしました。そうはいってもこのあとの予定もあることから、何時までも遊んでもらうわけにもかず、ほど良いところを見計らいサヨナラをしてきたのですが、50メートル以上離れても律儀にずっとこちらを眺め続けていてくれました =^_^=
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社) 掲載なし
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)掲載なし
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会) ⇒ 掲載あり

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫)
「前橋市史第1巻」(1971/前橋市)掲載なし

史料、地誌、軍記物
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 ⇒諸国廃城考、諸国城主記、主図合結記を所収本
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
 「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)掲載なし

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。


更新記録
・2019年3月23日 HPアップ
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