群馬県内の城館跡目次
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1歴史伝承 2残存遺構 3訪城記録/記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考/引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2018年4月2日のブログ 磯前田遺跡 宮前屋敷 板野屋敷 臼田屋敷
所在地
 群馬県伊勢崎市磯町293−1ほか
歴史、人物、伝承

赤堀氏関連の城址か
 「日本城郭大系」「群馬県の中世城館跡」「赤堀町誌」などの記述を参照いたしますと、南北朝期から戦国時代にかけて赤城山南麓の早川と神沢川に挟まれた中流域に所在している今井、香林などを中心にこの地を治めていたとされている赤堀氏の一族に関わる城跡のひとつとして想定されているようです。しかし「赤堀文書」などの直接的な文献史料などは現れないようで、その歴史的背景を含む詳細な経緯については、あくまでも想定の域を出ないものであり不明であるように思われます。
 なお「角川地名大辞典/群馬県」においても、この天幕城に関しては直接ふれられてはおりません。その一方で「赤堀町誌」などによりますと、赤堀氏の故地とも考えられる香林地域(香林郷/こうばやしごう)にはこのほかに臼田屋敷と板野屋敷などが所在し、その何れもが赤堀氏一族に関連する城館跡として把握されています。

別名と読み方
 「日本城郭大系」によりますと別名を地名に因んで磯城ともいうようですが余りこの名称で呼ばれているようには感じられません。また天幕城の読み方については「日本城郭大系」「日本城郭全集」によりますと「てんまくじょう」と記されておりますが、現地の説明板や伊勢崎市のホームページ上には「てんばくじょう」として記されております。

確認可能な遺構
 主郭、土塁(※詰めの郭/物見台か)、堀跡(蓮田/外堀)
文化財指定
 2004年8月10日 伊勢崎市指定史跡
訪城年月日
 2018年4月2日 12時10分から13時05分頃まで
訪城の記録 記念撮影

 蓮園のある城跡
 過日資料複写申請を行ったコピーを受領するため1日おいて再び群馬県伊勢崎市へ参りました。往復にして概ね6時間以上を要することもあり、折角なので一昨日探訪を諦めた天幕城などにも向かうこととしました。そうはいうものの前日セットしたはずの肝心な目覚ましが機能せず、起床した時刻はすでに午前7時半を回ってしまいました。 このため自宅発の時刻はある程度の支度も必要であることから早くとも午前8時半となりました。そうなると途中の交通渋滞などの事情により現地到着時刻が大きく遅れることになりますので、そのままずるずると日延べしてしまうことも考えられます。こうした事態を数日前頃から、午前6時発、午前8時半発などのパターンについて予め想定し起床時刻の遅延を理由に探訪中止とならないように考慮していたのであります。もっとも直接的な寝坊の原因は目覚ましスイッチの入れ忘れなので、相変わらず自分自身の性格がよく理解できていないことに気が付くような始末なのでありました。
 さてこの日は季節柄サクラが満開の時期でもあったことから、この日現地では極めてのんびりと全て徒歩にて回遊いたしました。一応は赤堀城、毒島城などとともに市指定史跡とされておりますが、赤堀城や毒島城に比べるとどちらかといえば幾分かは史跡整備の按排は良さそうな印象があるようにも思えました。もっともこの印象は夏季の蓮園開設と関連しているものであるのかも知れませんが。
 主郭を中心としてひととおりは土塁、帯郭、空堀などの遺構を確認することができます。また主郭の虎口は北西角付近にもそれらしいルートが確認されるのですが、現在土塁の無い東側にも存在していた可能性も否定できないような気がしました。
 なお、西側の帯郭周辺に自然石である可能性の高い悩ましい石積?状の形跡が数か所程見に入ります。ある程度成形された石がまとまって放置されているように見受けられる個所(※井戸跡という説も)もあるのですが、これは河川の護岸工事などの遺物であるようにも見受けられました。
 このあとは徒歩で4か所程回ったのちに赤堀図書館の開館時間中に入館するという必要があったことから、城址の西側方面の様子や大正用水の南側の様子などを詳細に確認することなく移動することとなりました。
( 2019/11/22 記述 )
天幕城全景
天幕城の全景 −画像A−
( 2018年4月2日 撮影 )
凸城域となる東側の郭(現/畑)の南東方向から眺めた天幕城の主郭部分で、画像の上段の黄色っぽい切岸状地形の削平地が天幕城の主郭部分で、その奥に一段高い土塁地形が残存しております。
 この辺りの農道部分から拝見いたしますとこのように主郭部のほぼ全容を目にすることができますが、くれぐれも極力耕作地内へは直接足を踏み入れることの無いように見学することが大事ですね。

国土地理院航空写真より編集加工
国土地理院航空写真より編集加工 −画像B−
( 2019年11月3日 編集加工 )
凸主郭を中心としたおおまかな縄張などを確認することができ、大正用水の南側にも堀跡状の地形が続いていたことや蕨沢川(※この画像の説明では「藤沢川」となっておりますが蕨沢川の誤りです<(_ _)>)の蛇行の様子などが確認できます。しかしこの終戦後の間もない時期に撮影された航空写真においても、既に大正用水の開削などにより城域の現況は大きく改変されていたことが窺えるようにも思います。
 なお、天幕城の北東に所在する単一の郭状にも見えてしまう地形は「磯沼」という名称の灌漑用水池に伴う地形です。

訪城アルバム
新田貞義像
鏑木川沿いのサクラ
凸1 新田貞義像
 旧新田町/現太田市の歴史資料館に設置されているかの有名な新田貞義のブロンズ製?の銅像です。
 このポーズは鎌倉の「♪♪稲村ケ崎名勝の/剣投ぜし古戦場♪♪」(※1950年代生まれ以前の方々にはよく知られているであろうと思われる「太平記」鎌倉攻めの故事による文部省唱歌「鎌倉」から)の恰も旧約聖書に登場する預言者モーゼのような奇跡を起こした際の「海神に対する剣奉呈」を表しているものと思われます。
 なお近年太田市内にはこのようにして延べにして10回ほどは訪れてはいるのですが、トイレ休憩を兼ねて休館日や閉館後、開館前などの場合が多い故なのか、未だにこの資料館には一度も入館した記憶がありません (^^ゞ
凸2 鏑木川沿いのサクラ
 この日は旧赤堀町の図書館近くの駐車場に軽自動車を停めさせていただいて、そこから徒歩にて時計回りにぐるっと天幕城〜磯前田遺跡〜宮前屋敷〜臼田屋敷〜板野屋敷というように巡回いたしました。
 なおこの日まわった城郭跡で比較的知られておりますのはこの天幕城だけで、たぶん他の4か所についてはほぼ無名に近いといってもよさそうな中世末期と推定されている屋敷跡なのでありました。
 天幕城(約1km先の画像の奥の方)では赤堀城と同様にこの画像の鏑木川を東側の天然の防御ラインとして意図されているものとも考えられますが、現在ではあくまでもこのような川幅の狭い細流に過ぎません。

案内標識
大正用水
凸3 案内標識
 伊勢崎市の指定文化財でもあることから、こうした案内標識が設置されております。一般に余り下調べをすることなくこうした半ば平地に近い占地の城館跡を訪問する場合には、その地形の起伏などから目的地を探すことが難しくこうした案内標識の存在は実に有難いものがあるように思われます。
 尤も管理人の場合には「下調べ」については飽きるくらいに行うことが多いため、余り現地において迷ったりすることは無いのですが (^^ゞ
凸4 大正用水
 「日本城郭大系」や「赤堀町史」などにより城域と推定されている南部を南北に分断している大正用水です。近代に開削が始まり終戦後に竣工した農業用灌漑用水で、現在の利根川坂東橋(旧北橘村下箱田/現在渋川市)付近から取水され伊勢崎市香林町の早川に至っています。画像の奥が上流側に当たります。この大正用水に架かる小さな橋を渡り、画像の右手に100mほど歩いていきますと、公道の右側には蓮見学のための市営駐車場が所在しています。

蓮園駐車場
植樹の桜
凸5 蓮園駐車場
 この蓮園は平成14年(2002)に日中友好の蓮を植えつけたことに始まったことなどが記されておりました。こちらの駐車場が閉鎖されている際には、「画像8」近くの道路端に路駐する以外にはないのかも知れません。
凸6 磯沼土手の桜
 訪れましたのが4月初旬という季節柄からでしょうか、磯沼灌漑池の堤防に植樹された桜が満開で堤防下の菜の花とのコントラストがとても印象的でありました。

天幕城主郭部
北側虎口?付近
凸7 天幕城主郭部
 「画像5」の蓮園駐車場前の公道からは天幕城の外堀でもある蓮田と天幕城の主郭部を手に取るように眺めることができます。
 「蓮」の開花とは季節外れの時期ということもあり、城跡には管理人一人でありました。
凸8 北側虎口?付近
 現在のところでは、天幕城の主郭部へと進む事実上唯一のルートとなっているようです。
 北側の虎口?付近には天幕城の標柱と文化財解説板が設置されておりますが、主郭部や土塁上などにはそうした説明/解説に関するものは設置はされておりませんでした。

東側外堀
解説板
凸9 東側外堀
 毎年7月になりますと中国産の大ぶりのハスが開花して賑わいを見せるということですが、4月初旬ということもあり訪れているのは終始管理人一人だけなのでありました。
 この外堀は城跡の西側を南流している蕨沢川の旧流路ではないかと推定されております。
凸10 解説板
 この解説板の縄張図(※おそらく山崎一氏の手によるものと推定)からは、かつては大正用水の南方にも遺構の一部が広がっていた様子が窺えますが、ざっと一瞥した限りでは現在残存している遺構は大正用水の北側に限られているように思われました。

主郭北側の空堀
主郭土塁
凸11 主郭北側の空堀
 画像の左側が主郭で右側が主郭の北側につつく削平地(郭)です。この両郭の間をこの空堀地形が分断し、「画像21/26」などの帯郭地形へと続いております。この付近を虎口跡と考えることもできるように思いますが、現在では地表上には明確な痕跡が確認できません。
凸12 主郭土塁
 「画像11」の左側の土塁上の地形に相当します。この位置からは前項画像の空堀は完全に俯瞰される関係にあり、この画像の土塁の背後に相当する「画像26」の個所から主郭へと続くというルートも考えられるのですが、何分にも主郭の東側虎口部分が比高差も含めてあまり明確ではないことから城内の動線が分かりにくくなっておりました。

主郭から北側の郭
主郭土塁
凸13 主郭から北側の郭
 この画像の左側が蕨沢川が流れており比高差は低いながらも崖線地形を呈しております
。ただし、蕨沢川は過去において幾度かにわたりその流路を変遷させていることが窺われ、戦後においても河川改修の影響を受けております。
凸14 主郭土塁
 南へ向かうと次第に細くなるという形状ですが、耕作地と接していることから廃城後の開墾などに伴い地形の改変を受けている可能性も考えられるような気も致します。

主郭土塁
凸15 主郭土塁
 画像の右手には腰郭状の削平地も確認できますが、後世の耕作などの地形改変の可能性も考慮に入れるべきなのかも知れません。
凸16 山桜と主郭
 折りからたぶん山桜系統と思われる白色のサクラも風に吹かれて8分咲きくらいになっておりました。

主郭の南側切岸
主郭
凸17 主郭の南側切岸
 現状では比高差にして2m超ほどの切岸地形ですが、これもまた廃城後の耕作に伴う開墾などにより後世の地形改変を受けている可能性がありそうです。山崎一氏によりますと、切岸下には内堀の存在を示唆されていますが、現状は耕作に伴う埋戻しによりその形跡を確認することはできませんでしたが、そうした堀跡の存在については上記の「画像B」からも容易に想像ができるように思われます。
 なお地平線が傾斜しているように見えますが、これは赤城山の山麓の傾斜などによるものであると考えられます。
凸18 主郭
 主郭そのものはこの画像の右側のように耕作地となっているために往時の姿を偲ぶには些か寂しげな印象を感じてしまいますが、画像左側の一段高い土塁状の地形の個所を中心にしてある程度の遺構が残存しておりましたので満足のいく城館探訪となりました(^^ゞ

古墳跡?
凸19 古墳跡?
 関係資料などによりますと、この辺りに小規模な群集墳の一部が残存しているようです。おそらくは画像中央やや右の高まりを指しているのかも知れませんが、詳しい資料を確認しておりませんので正確なところは分かりませんでした <(_ _)>
 なお当該古墳については「峰岸山32号墳」とされている模様であります(※こちらについてはネットの「古墳マップ」の記述を参照しました)
凸20 井戸跡?
 山崎一氏の作成された縄張図によりますと、おおむねこの辺りに井戸跡が存在していたことが記されておりますので、たぶんこの石積みの跡と窪みを指しているものであるように思われます。
 仮にこの個所が主要な井戸跡であるといたしますと、蕨沢川により隔てられているとはいえども防御性に大きな影響のあることが危惧されてしまうのですが・・・

主郭西側
主郭西側
凸21 主郭西側帯郭
 「画像20井戸跡」のすぐ北側辺りから主郭の西側の様子を北へ向けて撮影しておりますが、このように北へと向けて緩やかな上りとなる帯郭状の細長い地形が続いております。
凸22 主郭西側
 「画像21」の地形を北方向から撮影しています。「画像20」の井戸跡とされている個所はこの画像の中央やや右寄りの辺りになるものと思われます。

主郭西側
主郭西側
凸23 主郭西側の帯郭状地形
 「画像21」の撮影個所から少し北側に移動した地点の撮影です。
 西側を南流している蕨沢川も人工的な河川改修を含む後世の流路の変遷があることから、現在ではそうした形跡を確認することは困難な状況となっておりますが、かつてはこの西側にも虎口に相当する関門が設置されていたようにも思われました。
凸24 主郭西側
 よく観察してみますと石積跡のようにも見えなくもない形跡が散見されるのですが、若しも井戸跡の石積みが井戸跡と直接関係するものであるとすれば、こちらの石の断片もまた塁壁を部分的に強化する役割を担ってたいものなのでしょうか。尤もあまりにもバラついた現状ですので何とも分かりかねますが・・・

自然石?
主郭へのルート?
凸25 自然石?
 人の頭大の小さなものもあれば、このような大きな石もあり気にはなるのですが、蕨沢川方面の河川改修にともなう流路の変更などもあり良く分かりません <(_ _)>
凸26 主郭へのルート?
 「画像23」などの帯郭状の地形からは、現在この主郭の土塁へと直接登るルートが敷設されております。ただし山崎一氏の記された縄張図には掲載が確認できません。
 このルートが城跡が本来の役割を担っていた当時からのものであるのか、或いは後世の耕作や山仕事などの関係で踏み固められて出来上がったものなのか、果たしてどちらの性格ものなのでしょうか・・・

主郭北側の郭から主郭
用水路
凸27
 主郭北側の郭から主郭

 画像中段に見えているのが、主郭の北側の土塁となります。
凸28 用水路
 主郭北側の郭下を東へと流れてる水路で、恐らくはかつての蕨沢川の流路?を活用した戦後に開削された用水路ではないかと思われます。

天幕城遠景
天幕城遠景
凸29 天幕城遠景
 蓮田(外堀)の遊歩道から天幕城主郭の遠景です。
凸30 天幕城遠景
 同左。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載あり
 本書によればこの城郭の来歴について「あるときは那波氏の持ちとなり、あるときは由良氏に攻撃され、また謙信(※上杉謙信の越山を指す)に降り、信玄(※武田信玄の上州侵攻)に投じ、氏康(※北条氏康による天文期の上州侵攻)の蹂躙するところとなり、勝頼に屈し(※越相同盟期における武田勝頼による上州東部への侵攻)、戦国の頃を波瀾のうちにもまれ、はては天正18年(1590)小田原(※小田原北条氏/後北条氏)とともに滅んだのである」との記載があるが、これらについてはあくまでも周囲の歴史的背景から想定した内容であることに留意する必要があるものと考えられる。
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)掲載あり、縄張図あり
 赤堀氏による永禄年間初期の築城で赤堀城の支城としているが、実際の城址の規模については余り大差は見られない。
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)掲載あり

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)磯町の項に直接関連するような記述は確認できない
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫)
「群馬県史資料編5中世1」(1978/群馬県)
「群馬県史資料編6中世2」(1984/群馬県)「赤堀文書」を収録
「前橋市史第1巻」(1971/前橋市)
「伊勢崎市史通史編1原始古代中世」(1987/伊勢崎市)
「伊勢崎市文化財ハンドブック」(2014/伊勢崎市教育委員会)
「赤堀町誌」(2004/赤堀町)南北朝期から戦国時代末期までの赤堀氏に関する動向に関する記述が詳しい。

史料、地誌、軍記物
 なし

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。
伊勢崎市公式HPなど


更新記録
・2019年11月23日 HPアップ(※画像の取捨選択が難しいので多すぎました <(_ _)>)
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