群馬県内の城館跡目次
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1歴史伝承 2残存遺構 3訪城記録/記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考/引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2018年4月2日のブログ 
所在地
 群馬県伊勢崎市(旧赤堀町)香林町
歴史、人物、伝承

赤堀氏一族の屋敷跡か
 「マッピングぐんま」「日本城郭大系」には掲載されていない城館跡です。しかし「群馬県の中世城館跡」や「赤堀町誌」などによりますと、南北朝期から戦国時代にかけて赤城山南麓の早川と神沢川に挟まれた中流域に所在している今井、香林などを中心にこの地を治めていたとされている赤堀氏の一族に関わる屋敷跡のひとつと考えられているようです。尤も文献史料などは見当たらず、その歴史的背景を含む詳細については不明です。
 なお「群馬県の中世城館跡」や「赤堀町誌」によりますと、赤堀氏の故地とも考えられる香林地域(香林郷/こうばやしごう)にはこのほかに宮前屋敷と臼田屋敷(板野屋敷の北北西約200m地点)などが所在し、何れも赤堀氏一族に関連する城館跡と考えられています。
 また板野屋敷という名称の由来については「群馬県の中世城館跡」に掲載されているだけで、今のところその詳細について確認をしてはおりません。

確認可能な遺構
 土塁?(調査当時の遺構として「土居」の表記有/「群馬県の中世城館跡」より)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2018年4月2日 14時14分から14時50分
訪城の記録 記念撮影

 遺構不詳?
 手持ちの資料などから概ねの所在地は把握しておりましたが、現地では具体的な所在地の特定に際して少々迷うこととなりました。当該地の東側県道293号線沿いにはコンビニ(この当時はセーブオン/現ローソン)も所在していましたが、「群馬県の中世城館跡」掲載の略測図(山崎一氏/作成か)を参照する限りでは、その西側の民家部分を指しているように思われました。
当該地と目される個所には屋敷門と土蔵などが存在する地元の旧家を含む2軒の屋敷地が所在しており、恐らくはこちらが「板野屋敷」に相当するものと思われましたが、周辺から拝見する限りでは民家の宅地内であることから地表の様子などの詳細については分かりかねました。
 さてこの日は旧赤堀町の図書館近くの駐車場をお借りして、冒頭の天幕城を含めて全て徒歩で探訪しておりました。むろん極力路駐を避けたいという信念のようなものもあるのですが、何と言っても見落としが少ないことが大きなメリットでもあります。このため今回も徒歩でなければ気づくことのなかった地面の傾斜や地表の凹凸を感じ取ることができており〆て約20kmの散策となりました。この日の気温も前々日と同様に到底4月上旬とは思えない、春を通り越した摂氏25度前後という初夏の陽気であり、極度に暑さに弱い管理人としては一昨日の筋肉痛とも相俟って文字通り足取りの重い探訪となりました。
 この後の行動計画としては何しろ気温の上昇が尋常ではないことから、近県では今シーズン最後の山城的な個所を探訪するべく計画を練ることとなりました。しかし足回りの老化をひしひしと感じていることから、比高差と傾斜角度、道の有無に左右されることはいう間でも無さそうです。何しろ最近は到底先々の加齢とこれに伴う健康状態が読めないことを認識し、行けるうちに行くということを鉄則にしております。なお、帰路の上武道路では全く同じルート戻っていたのですが、予想以上に順調に走行することとなりました。帰宅時の混雑を見込んで地元の図書館などに立ち寄り少々時間調整をしたこともあるのか、都合2時間半と往路よりも寧ろ早い結果となりました。
( 2019/9/30 )記述
板野屋敷
板野屋敷付近 −画像A−
( 2018年4月2日 撮影 )
凸「板野屋敷」の南西部付近に所在している地元の旧家です。右端に所在している白壁造りの土蔵には「下がり藤」の家紋が描かれておりますが、当地の赤堀氏の分流である伊勢赤堀氏もまた同様の家紋を用いていたようです。

国土地理院航空写真より「板野屋敷」とその周辺
国土地理院航空写真より「板野屋敷」とその周辺城 −画像B−
( 2019年9月4日 編集加工 )
凸「群馬県の中世城館跡」に収録されている略測図等を参考にする限りでは、恐らくは赤色の破線で囲んだ部分が板野屋敷として把握されているものと考えられます。(※あくまでも管理人の私見です)この航空写真からもは「板野屋敷」「臼田屋敷」はともにその西側の南北方向に伸びた水路を含む帯状をした低地に接した微高地に立地していることが分かります。

訪城アルバム
北東方向に所在する
太陽光発電パネル
凸1 曦(あさひ)観音堂
 板野屋敷から見て北北東約100mの地点に所在している伊勢崎市の重要文化財に指定されている2体の観音像(木造如意輪観音坐像/石像観音菩薩坐像)が安置されている堂宇です。⇒現地解説板へ
 このうち石造観音菩薩坐像については南北朝期の作と推定されていることから、当地の赤堀氏一族と何らかの関連のあったことが想定されますが、そうした背景については不詳である模様です。
※画像クリックで拡大します
凸2 太陽光発電パネル
 以前には耕作地であったと思われる屋敷跡の北側の隣地にはこうした太陽光発電設備のパネルが設置されておりました。東日本の震災以降において中世城館跡とその付近に散見される後継です。
 あくまでも上記画像Bと「群馬県の中世城館跡」収録の略測図を参照する限りでは、たぶんこの個所は屋敷跡の所在地からは外れているように思います。画像中央やや上に見える堂宇が画像1の観音堂に相当します。
※画像クリックで拡大します

土塁跡?
西方の屋敷構え
凸3 土塁跡か?
 屋敷跡に西側から拝見した画像で、画像奥の屋敷林付近に長さ数mばかりの人工的な地形の高まりの存在が窺えましたが、宅地内であることから市道沿いからほんの数秒ほどチラッと拝見するに止めました。画像Bの航空写真からもその存在が窺えますが、無論2軒のお宅の境界部分?であると想定されることから後世における屋敷境の土塁であるという可能性も考えられます。
※画像クリックで拡大します
凸4 西方に所在する屋敷構え
 帰路旧赤堀町の図書館方向へと戻る際に、偶々目に入りました地元旧家の屋敷構え部分で、明らかに周囲の地表部分よりも高く築造されていることが窺えました。無論その時代背景などは一切不明ですが、「板野屋敷」の付近では明確な遺構の存在を確認できなかったこともあり、あくまでも周辺部の景観とひとつとして撮影をさせていただきました。「板野屋敷」からは西南西に約200mほどの地点です。
※画像クリックで拡大します
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)掲載なし
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)⇒掲載あり/略測図あり

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)⇒「香林」の項参照
 「香林/こうばやし」の名称については「赤堀村誌」からの引用で「昔から松の大木が多かった地方で、松の香高く林をなしたことに由来する」と云われていると記されている。
 「香林郷」については「南北朝期に見える郷名であり」、「佐位郡渕名荘のうち」と記されている。
 観応3年(1352)5月日(日付不詳)の香林直秀軍忠状によれば、山上氏、芳賀氏に属して足利尊氏方として戦い、本貫地である香林郷の所領安堵を求めていることが記されています。(赤堀文書−編年史料936/群馬県史資料編6)
 また、文和4年(1355)9月5日の足利尊氏御判御教書によると赤堀時秀に対し香林郷の所領が安堵されている。(赤堀文書−編年史料975/群馬県史資料編6)
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「増補改訂戦国大名と外様国衆」(2015/戎光祥出版)
「群馬県史資料編5中世1」(1978/群馬県)
「群馬県史資料編6中世2」(1984/群馬県)
「伊勢崎市史通史編1原始古代中世」(1987/伊勢崎市)
「伊勢崎市文化財ハンドブック」(2014/伊勢崎市教育委員会)
「赤堀町誌」(2004/赤堀町)南北朝期から戦国時代末期までの赤堀氏に関する動向に関する記述が詳しい。

史料、地誌、軍記物
なし

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 掲載なし
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。


更新記録
・2019年 9月30日 HPアップ
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