群馬県内の城館跡目次
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素人の趣味のため思い込みと錯誤についてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願います。  
群馬県の城館索引へ戻る 磯前田遺跡 磯前田遺跡のロゴ 磯前田遺跡
1歴史伝承 2残存遺構 3訪城記録/記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考/引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2018年4月2日のブログ 板野屋敷 臼田屋敷 宮前屋敷
所在地
 群馬県伊勢崎市磯町(いそちょう)73他 (※「マッピングぐんま」より)
歴史、人物、伝承

赤堀氏一族か
 この城館跡についてはあくまでも「マッピングぐんま」の文化財地図に掲載されている情報を頼りに訪れたもので、直接関連する各種の遺跡発掘調査報告書を閲覧しているものではありません。従いまして、遺跡全体の凡その位置関係について地表部分の様子を観察したものの、より詳細かつ具体的に中世と思われる城館部分の遺構がどの場所で検出/確認されているかどうかについて把握してはおりません <(_ _)>
 このためこの地域に所在している宮前屋敷、板野屋敷、臼田屋敷などの立地条件の類似性と、ほぼ隣接する関係にある天幕城との位置関係などから単に赤堀氏一族との関連性を想定してみたものにすきません (^^ゞ
 当該遺跡は天幕城と同様に蕨沢川と鏑木川に挟まれた赤城山南麓の緩やかな傾斜地に所在しています。

確認可能な遺構
 土塁跡か?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2018年4月2日 13時15分頃からから13時30分頃まで
訪城の記録 記念撮影

 遠望する遺跡
 この城館跡の出典は「マッピングぐんま」の「城館」をキーワードに検索した結果からに過ぎないものであります。もともとが埋蔵文化財の保全等を意識して作成された情報をプロトタイプとするものと思われますが、近年は他の市地理情報含めた総合化したデータベースが作成されていたりすることが珍しくは無くなってきているようです。このデータベースについても少なくとも一度は大きくシステム改修がなされており、10年ほど以前と比較すると正しく昔日の感があります。
 群馬県全体をカバーするシステムだとは思いますが、元々の情報選定を含むデータ入力には当該市町村担当者の力量、知見、関心、姿勢などに依拠する部分が少なくないことが多いように感じます。このため大まかに言えば、ややもすると市町村によりある程度の格差(遺漏/錯誤/誤謬を含む)が存在するものであることに留意する必要があるものと思われます。
 こうした地図システムとの関連については民間事業者である「パスコ」の会社名もよく見かけます。昭和の終わり頃に別途仕事上の取引等で縁のあった事業者でもあることから懐かしいような気もいたします。
 とはいえども、「発掘調査報告書」を目にしていないこともあり、殆ど事前情報は無く皆目不明状態でありました。強いて挙げますと一般に「前田」という地名については、その土地を支配する一族の本拠地にまつわるという事例が存在しているということぐらいなのでありました(^^ゞ
 さて当該地の一画である南端部では、偶々屋敷林の伐採直後でもあり公道沿いからでも古い石祠が祀られている盛土地形が存在していることが確認できました。しかし遺跡としての捉え方が複合遺跡という性格もあるらしく、余りにも予想通り不明な部分が多すぎました。そのなかで強いて言えば地形全体としては包蔵地の南限の段丘地形とその東側の段丘地形などが挙げられるのかも知れません。
 何れにしましても、この日のように徒歩で探訪してみるということは、多少時間はかかるけれどもある程度は有効なのかも知れません。
( 2019/11/2 記述 )
磯前田遺跡の南端部付近の様子
磯前田遺跡の南端部付近の様子 −画像A−
( 2018年4月2日 撮影 )
凸屋敷神を祀ると思われる石祠の辺りを軸にしてL字形状の表土の盛上り(旧家の北辺と西辺附近に位置する低土塁状の地形)が確認できますが、この地形を以て「中世城館跡」とすべきであるのかにつきましては分かりかねました。

国土地理院航空写真を編集加工
磯前田遺跡および天幕城付近の航空写真画像 −画像B−
( 2019年10月28日 編集加工 )
凸比較的知られている天幕城からは直線で約200mの至近距離に位置しています。なお「画像A」の個所は赤色の太破線で囲われた複合遺跡の南西端付近に位置しております。

訪城アルバム
大正用水
大正用水の土手
凸1 大正用水
 宮遺跡の北部付近をを流れている近代の灌漑用水で、赤城山南麓の田畑を潤す灌漑用水として開削されて現在に至っています。大正年間に計画されたものの、最終的に完成/供用に至ったのは戦後の昭和22年であった模様です。
 この付近の航空写真画像を捜索するなどの際にその人工的な流路の形状からよく目立つこともあり、「女堀」遺構と共に大変有難い存在でもあります。

凸2 大正用水の土手
 この角度から眺めますと恰も土塁のように見えなくもありませんが、あくまでも画像左の大正用水を開削したさいに排出された土砂により築堤されたものであると考えられます。
 この画像の左手の部分の地形が「十二所古墳」(全長約48メートルで5世紀頃の築造ともいわれているが、全域に及ぶ発掘調査は未了であり不明な部分が多いとされている)の所在する低丘陵に続く地形となります。

十二所古墳
遺跡の南西部
凸3 十二所古墳の遠景
 画像の中央部やや上に見え隠れしている辺りが伊勢崎市の指定文化財でもある「十二所古墳」です。この日は現地到着が既に正午過ぎであったことから、先を急ぐべく見学は致してはおりません。
 白色の建物の右側に見える盛土状の地形は大正用水の開削に伴う築堤工事によるものと考えられます。
凸4 遺跡の南西部
 訪れた折に偶々こちらの旧家の屋敷林が伐採されており、公道沿いから散策するだけでもその地表部分についてはある程度の様子を拝見することができました。
 尤も、この日の最初の目的地である天幕城へと北進する公道からも直線で約300m程しか離れていないこともあり、こちらの様子についてはある程度窺い知れてはおりました。

共同墓地
遺跡南端部
凸5 共同墓地
 遺跡の南端部に所在している共同墓地で、地元旧家と推定される境野家というお名前のの墓石がやや多く所在しているように感じました。近世に遡及する墓碑も拝見させていただきましたが、無論中世以前の関連性については分かりませんでした。
凸6 遺跡南端部
 「画像4」の個所を東側の公道沿いから遠望した画像です。この南端部では幾分高低差を確認できますが、それほどの比高差を有するというわけではなく余り地形上の有利性を感じることは有りませんでした。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)掲載なし
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)掲載なし

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)⇒磯村として「寛文郷帳」に当該地名が記されているが、現在のところ中世以前における状況は不明である。
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫)
「群馬県史資料編5中世1」(1978/群馬県)
「群馬県史資料編6中世2」(1984/群馬県)
「前橋市史第1巻」(1971/前橋市)
「伊勢崎市史通史編1原始古代中世」(1987/伊勢崎市)
「伊勢崎市文化財ハンドブック」(2014/伊勢崎市教育委員会)
「赤堀町誌」(2004/赤堀町)南北朝期から戦国時代末期までの赤堀氏に関する動向に関する記述が詳しい。

史料、地誌、軍記物
 なし
その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
 当該データベースにおいては「市町村遺跡番号/AK027、時代/縄文・古墳・奈良・平安・中世、種別/集落・城館・墓・その他」と記され、関連文献としては「町内遺跡発掘調査概報」「今井学校遺跡発掘調査」「香林萱野遺跡第2地点発掘調査」「磯前田遺跡発掘調査」「今井字北原第3地点発掘調査」などが付記されている。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。
伊勢崎市公式HPの文化財ページ


更新記録
・2019年11月 2日 HP暫定アップ
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