群馬県内の城館跡目次
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1歴史伝承 2残存遺構 3訪城記録/記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考/引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2018年4月2日のブログ 板野屋敷 臼田屋敷 
所在地
 群馬県伊勢崎市香林町二丁目776ほか(※「マッピングぐんま」より引用)
歴史、人物、伝承

城館名について
 この城館跡の呼称については「マッピングぐんま」所収の文化財マップによりますと宮前土手屋敷遺跡(みやまえ/どてやしき/いせき/※旧字名などから)として掲載されており、恐らくは遺跡台帳などに記載された名称によるものではないかと思います。
 一方群馬県教育委員会が実施した悉皆調査報告書である「群馬県の中世城館跡」では宮前屋敷(みやまえやしき/※呼称の経緯は旧字名から)として記載されています。
 またその後に刊行された「赤堀町誌」によれば臼田屋敷、板野屋敷とならび宮前屋敷として掲載されていることから、あくまでも便宜上から「赤堀町誌」の記載を当城館名の名称として表記しております。

赤堀氏一族の屋敷跡か
「群馬県の中世城館跡」や「赤堀町誌」などによりますと、南北朝期から戦国時代にかけて赤城山南麓の早川と神沢川に挟まれた中流域に所在している今井、香林などを中心にこの地を治めていたとされている赤堀氏の一族に関わる屋敷跡のひとつとして想定されているようです。しかし直接的な文献史料などは見当たらないらしく、その歴史的背景を含む詳細な経緯については不明のように思われます。
 なお「群馬県の中世城館跡」や「赤堀町誌」によりますと、赤堀氏の故地とも考えられる香林地域(香林郷/こうばやしごう)にはこのほかに臼田屋敷と板野屋敷などが所在し、その何れもが赤堀氏一族に関連する城館跡として把握されています。

確認可能な遺構
 土塁?(屋敷東側の一部)
文化財指定
 なし(標柱/説明板なし)
訪城年月日
 2018年4月2日 13時55分から14時05分
訪城の記録 記念撮影

 寝坊は何時ものことです
 旧赤堀町の図書館で資料の複写申請を行ったコピー受領めため1日おいて再び群馬県伊勢崎市へと向いました。そうはいっても往復にして6時間以上を要することもあり、折角なので一昨日探訪を諦めた天幕城などにも向かうこととしました。ところが前日セットしたはずの目覚ましが全く機能せず、起床した時刻はすでに午前7時半を回っていました。このため自宅発の時刻はある程度の支度も必要であることからどんなに早くとも午前8時半頃となってしまいました。
 そうなると途中の交通渋滞などの事情により現地到着時刻が大きく遅れることになることから、自分の性格上ではそのままずるずると日延べしてしまうことも考えられるのでありました。然しながらそうした事態が起こることについて、数日前頃から、午前6時発、午前9時過ぎ発など複数のパターンについて予め想定し、起床時刻の遅延を理由に探訪が中止とならないように考慮していたのでありますが、元々直接的な寝坊の原因が目覚ましスイッチの入れ忘れなので、相変わらず自分自身の性格がよく理解できていないことに呆れるばかりなのでありました。
 この日天幕城などに続く3か所目でしたが、季節柄サクラが満開の時期でもあったことから、「大正用水」の様子の観察もあわせて極めてのんびりと全て徒歩にて回遊することといたしました。
 見学の時点では特に「中世に遡及する可能性のある屋敷跡」であるような文化財の標柱、解説板などの類は見かけませんでした。それでも関係資料によれば、おそらく当地に所在している旧家が該当するものと思われましたので、道路沿いから拝見をさせていただくことといたしました。「遺構」に関しては強いて挙げますと北東部(道路沿い)にごく小規模な土塁状地形(長さ約20m、高さ約1.3m程度)が認められましたが、現地での滞在時間は僅かに10分ほどでしたので、西側と北側方面の様子については不明です。
 ただしその性格や時代背景については今のところ全く分かりませんが、仮に後世の風除けのための屋敷囲いであるとすれば東側の一部のみが遺されていることに違和感があり、あるいは土地の境界を示すためのものであるといたしますと道路沿いからやや引っ込んだ個所に位置しているという意味が理解できないのでありました。附近には駐車スペースも見当たらず、徒歩ではなく車で移動していてはまず目にすることのできない状況でもありました。
( 2019/10/27 記述 )
宮前屋敷
宮前屋敷付近 −画像A−
( 2018年4月2日 撮影 )
凸関係資料によりますと、おおむね屋敷林の所在している旧家が宮前屋敷に相当するものと推定されます。
 なお、画像左側の道路は画像左端の個所で小さくカーブしていますが、「群馬県の中世城館跡」所収の略測図からは道路の改修以前にはクランク状の形態であったことが窺われます。

国土地理院航空写真画像/宮前屋敷とその周辺
国土地理院航空写真画像/宮前屋敷とその周辺城 −画像B−
( 2018年4月2日 撮影 )
凸おおむね赤色の太い破線で囲んだ範囲がが宮前屋敷と推定されます。広さは東西約70m、南北約80mほどの範囲に納まるものと思われ、同じ香林地域に所在している板野屋敷や臼田屋敷と比べほぼ同様の規模であるように感じました。
 なお、この航空写真画像からはやや不鮮明ではあるものの、南側と東側の土塁状の地形の存在が窺えるようにも思えるのですが果たしてどうなのでありましょうか。

訪城アルバム
大正用水
宮前屋敷
凸1 大正用水
 宮前屋敷の南西部を流れている灌漑用水です。赤城山南麓の田畑を潤す灌漑用水として開削されて現在に至っています。大正年間に計画されたものの、最終的に完成/供用に至ったのは戦後の昭和22年であった模様です。
 この付近の航空写真画像を捜索するなどの際にその人工的な流路の形状からよく目立つこともあり、「女堀」遺構と共に大変有難い存在でもあります。
凸2 宮前屋敷
 南側の道路沿いから撮影させていただきました。上記画像Bの航空写真画像と照合いたしますと、戦後間もない時期には画像中段の左側の低木のような景観の付近に南辺の土塁が残存していたものと推定されます。
 なお現在のこちらの民家の入口が当時の虎口であったのかどうかについては分かりかねました。

東側の土塁地形
東側の土塁地形
凸3 東側の土塁地形
 南から眺めた屋敷東側の土塁状の地形なのですが、画像の右側の路地と平行では無いような位置関係にあるように思われます。
凸4 東側の土塁地形
 同様の地形を北側から撮影しております。定石では画像の左側に堀跡が付随することが多いものと考えますが、特に目立った窪み地形を確認するには至りませんでした。

東側の土塁地形
凸5 東側の土塁地形
 北側の先端部分近くから撮影したものですが、地表部からは東西、南北方向への土塁の痕跡を確認することはできませんでした。
凸6 東側の土塁地形
 概ね東側の路地から撮影した画像です。長さは約20mばかりで、高さは最高地点でも約1.3m程度の小規模なものでした。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)掲載なし
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)「宮前屋敷」として掲載/略測図を所収

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)⇒「香林」の項参照
「香林/こうばやし」の名称については「赤堀村誌」からの引用で「昔から松の大木が多かった地方で、松の香高く林をなしたことに由来する」と云われていると記されている。
「香林郷」については「南北朝期に見える郷名であり」、「佐位郡渕名荘のうち」と記されている。  観応3年(1352)5月日(日付不詳)の香林直秀軍忠状によれば、山上氏、芳賀氏に属して足利尊氏方として戦い、本貫地である香林郷の所領安堵を求めていることが記されています。(赤堀文書−編年史料936/群馬県史資料編6)
 また、文和4年(1355)9月5日の足利尊氏御判御教書によると赤堀時秀に対し香林郷の所領が安堵されている。(赤堀文書−編年史料975/群馬県史資料編6)
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「増補改訂戦国大名と外様国衆」(2015/戎光祥出版)
「群馬県史資料編5中世1」(1978/群馬県)
「群馬県史資料編6中世2」(1984/群馬県)
「伊勢崎市史通史編1原始古代中世」(1987/伊勢崎市)
「伊勢崎市文化財ハンドブック」(2014/伊勢崎市教育委員会)
「赤堀町誌」(2004/赤堀町)南北朝期から戦国時代末期までの赤堀氏に関する動向に関する記述が詳しい。

史料、地誌、軍記物
なし

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 「宮前土手屋敷遺跡」として掲載
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、この事例のようにその当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。


更新記録
・2019年10月27日 HPアップ
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