群馬県内の城館跡目次
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素人の趣味のため思い込みと錯誤についてはご容赦を。お気づきの点などございましたらご教示願います。  
群馬県の城館索引へ戻る 臼田屋敷 臼田屋敷のロゴ 臼田屋敷
1歴史伝承 2残存遺構 3訪城記録/記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考/引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2018年4月2日のブログ 板野屋敷
所在地
 群馬県伊勢崎市香林町1丁目368他(※「マッピングぐんま」より引用)
歴史、人物、伝承

城館名について
 この城館跡の呼称については「マッピングぐんま」所収の文化財マップによりますと花ノ木土手屋敷遺跡(はなのき/どてやしき/いせき/旧字名などから)として掲載されており、恐らくは遺跡台帳に記載された名称と考えられます。
 一方群馬県教育委員会が実施した悉皆調査報告書である「群馬県の中世城館跡」では白田屋敷(しろたやしき?/呼称の経緯不明)として記載されています。しかし、その一方でその後に刊行された「赤堀町誌」によれば臼田屋敷(うすだやしき)として掲載されているために些か紛らわしいものがあります。この誤植/誤記?とも思われるような呼称の相違につきましては、今までの経験上から「群馬県の中世城館跡」サイドの誤記/誤植である可能性が少なくないように思われるという事情もあることもあり、あくまでも便宜上後者の「赤堀町誌」の記載を当城館名の名称として表記しております。

赤堀氏一族の屋敷跡か
「群馬県の中世城館跡」や「赤堀町誌」などによりますと、南北朝期から戦国時代にかけて赤城山南麓の早川と神沢川に挟まれた中流域に所在している今井、香林などを中心にこの地を治めていたとされている赤堀氏の一族に関わる屋敷跡のひとつと考えられているようです。尤も直接的な文献史料などは見当たらず、その歴史的背景を含む詳細については不明です。
 なお「群馬県の中世城館跡」や「赤堀町誌」によりますと、赤堀氏の故地とも考えられる香林地域(香林郷/こうばやしごう)にはこのほかに宮前屋敷と板野屋敷(臼田屋敷の南南東約200m地点)などが所在し、何れも赤堀氏一族に関連する城館跡と考えられています。
 また臼田屋敷(或いは白田屋敷)という名称の由来についてはそれらの資料/文献に掲載されているだけで、今のところその詳細について確認をしてはおりません。

確認可能な遺構
 切岸地形?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2018年4月2日 14時30分から14時40分
訪城の記録 記念撮影

 屋敷構え
 過日資料複写申請を行ったコピーを受領するため1日おいて再び群馬県伊勢崎市へ参りました。往復にして概ね6時間以上を要することもあり、折角なので一昨日探訪を諦めた天幕城などにも向かうこととしました。そうはいうものの前日セットしたはずの肝心な目覚ましが機能せず、起床した時刻はすでに午前7時半を回ってしまいました。 このため自宅発の時刻はある程度の支度も必要であることから早くとも午前8時半となりました。そうなると途中の交通渋滞などの事情により現地到着時刻が大きく遅れることになりますので、そのままずるずると日延べしてしまうことも考えられます。こうした事態を数日前頃から、午前6時発、午前8時半発などのパターンについて予め想定し起床時刻の遅延を理由に探訪中止とならないように考慮していたのであります。もっとも直接的な寝坊の原因は目覚ましスイッチの入れ忘れなので、相変わらず自分自身の性格がよく理解できていないことに気が付くような始末なのでありました。
 さてこの日は季節柄サクラが満開の時期でもあったことから、この日現地では極めてのんびりと全て徒歩にて回遊いたしました。
「群馬県の中世城館跡」「マッピングぐんま」なとの基礎資料を参照する限りでは、南側に大きなビニールハウスのある旧家の辺りがこの城館跡に相当するもののように思われました。
なお宅地の北側境界部分には小さな石祠(いわゆる屋敷神か?)が祀られた区画が存在し、概ねL字型をした土壇状の盛土状の地名がが現存しておりましたので屋敷構の一部が残存しているものと思われました。しかしそれらが近世以降のものか、戦国時代に遡及するものであるのかについては分かりかねました。
 駐車場所については複写資料の受領という事情もあることから、旧赤堀町の図書館近くの駐車場をお借りしいたしました。むろん極力路駐を避けたいという信念のようなものもあるのですが、何と言っても見落としが少ないことが大きなメリットでもあります。このため今回も徒歩でなければ気づくことのなかった地面の傾斜や地表の凹凸を感じ取ることができており〆て約20kmほどの散策となりました。この日の気温も前々日と同様に到底4月上旬とは思えない、春を通り越した摂氏25度前後という初夏の陽気であり、極度に暑さに弱い管理人としては一昨日の筋肉痛とも相俟って文字通り足取りの重い探訪となりました。
( 2019/10/07 )記述
臼田屋敷
臼田屋敷 −画像A−
( 2018年4月2日 撮影 )
凸おおむね桜の木が植樹されている旧家の辺り一帯がこの屋敷跡と考えられているようなのですが、その現状から堀跡の存在について形跡を辿ることは難しいように感じました。一方でこの画像のように辛うじて如何にも旧家の屋敷構え然としたL字型をした土塁状の盛土地形が遺されておりました。尤もこの地形が何時の時代まで遡及するものなのかなどの時代背景については何とも分かりかねました。

国土地理院航空写真から編集加工
臼田屋敷とその周辺部の航空写真 −画像B−
( 2019年9月4日 編集加工 )
凸緑色の実線で囲まれた辺りが概ね臼田屋敷と考えられ、土塁跡とも思われる囲繞された地形も存在しているように見受けられますが、無料画像利用としての限界もあり余り判然とはしておりません。なお、この航空写真画像は「板野屋敷」のものと同一であることから、手数を省くために遣いまわしをしております (^^ゞ

訪城アルバム
謎の盛り土
凸1 曦(あさひ)観音堂
 臼田屋敷から見て南東約100mの地点に所在している伊勢崎市の重要文化財に指定されている2体の観音像(木造如意輪観音坐像/石像観音菩薩坐像)が安置されている堂宇です。⇒現地解説板へ
 このうち石造観音菩薩坐像については南北朝期の作と推定されていることから、当地の赤堀氏一族と何らかの関連のあったことが想定されますが、そうした背景については不詳である模様です。
※画像クリックで拡大します
凸2 謎の盛り土
 曦(あさひ)観音堂境内の北西角付近に存在している盛り土です。
 この画像の中央付近に盛り土地形が見えておりますが、その形状などから見ておそらくは後世の人工地形であるように感じました。。たぶん古墳では無いようで、古くとも近世の塚跡或いは比較的近年の盛り土なのかも知れません。
 誠に不勉強で申し訳ありません <(_ _)>
※画像クリックで拡大します

南側から
西側から
凸3 南側から
 屋敷跡と推定されている個所を南側から拝見しております。こちらでも折りから桜が満開となっておりましたので、編集した画像にも多くのサクラが写りこむこととなりました。
凸4 西側から
 画像では平坦な地形に見えてしまいますが、あくまでも微高地に所在しております。宅地部分と撮影地点の比高差は2m以上を測り、鏑木川と並行する水路沿いからは3m近い比高差を有しているように感じられました。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)掲載なし
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)⇒「白田屋敷」として掲載

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)⇒「香林」の項参照
 「香林/こうばやし」の名称については「赤堀村誌」からの引用で「昔から松の大木が多かった地方で、松の香高く林をなしたことに由来する」と云われていると記されている。
 「香林郷」については「南北朝期に見える郷名であり」、「佐位郡渕名荘のうち」と記されている。
 観応3年(1352)5月日(日付不詳)の香林直秀軍忠状によれば、山上氏、芳賀氏に属して足利尊氏方として戦い、本貫地である香林郷の所領安堵を求めていることが記されています。(赤堀文書−編年史料936/群馬県史資料編6)
 また、文和4年(1355)9月5日の足利尊氏御判御教書によると赤堀時秀に対し香林郷の所領が安堵されている。(赤堀文書−編年史料975/群馬県史資料編6)
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「増補改訂戦国大名と外様国衆」(2015/戎光祥出版)
「群馬県史資料編5中世1」(1978/群馬県)
「群馬県史資料編6中世2」(1984/群馬県)

「伊勢崎市史通史編1原始古代中世」(1987/伊勢崎市)
「伊勢崎市文化財ハンドブック」(2014/伊勢崎市教育委員会)
「赤堀町誌」(2004/赤堀町)南北朝期から戦国時代末期までの赤堀氏に関する動向に関する記述が詳

史料、地誌、軍記物
なし
その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 「花ノ木土手屋敷遺跡」として掲載
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。


更新記録
・2019年10月06日 HPアップ
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