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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/01/05のブログ 多胡砦 多胡下城 長根城 大蔵館
所在地
 群馬県吉井町大字多胡字元郷30、31ほか
歴史、人物、伝承

戦国期には多胡氏の居館
 多胡丘陵の平坦地に築かれた東西南北約110mの規模を有する方形館で、平成11年の発掘調査により堀底部分から天仁元年(1108)の浅間山大噴火の際に飛散した軽石層(火山活動に伴う排出・堆積物−浅間Bテフラ層−厚さ約20cm)が確認されました。このことにより館の築造年代は11世紀以前に遡る可能性も想定されます。戦国時代には、その立地条件から北東側に隣接する「多胡砦」、南側約800mに所在する「多胡下城」(別名を「金沢城」とも)との関連が窺えます。
 永治・康治年間(1141-1144)の頃(⇒「延慶本平家物語」では仁平3年(1153)としています)、源為義の二男義賢(木曾義仲の父)がこの多胡館に居を構えたと推定され、その後秩父平氏の援助を受け武蔵大蔵館へと進出しましたが、久寿2年(1155)都の政争を背景とした源氏一族の内訌等により源義朝の嫡男悪源太義平(義賢の甥)により同館にて討ち死にを遂げたとされています。義賢は在京時には後の近衛天皇となる東宮の警備を任されたことから帯刀先生(たてわきせんじょう)と呼称され、東国移住後には多胡先生(たごせんじょう)とも呼ばれたとのことです。なお、埼玉県上里町の帯刀地区にも所縁の墓石が伝わり、その伝承を残していますが歴史的な経緯は不明な模様です。
 義賢の滅亡後に多胡氏の居館となったと考えられ、「吾妻鑑」によれば建久6年(1195)源頼朝の奈良東大寺供養した隋兵のなかに小林氏、小串氏とともに多胡宗太の名が、承久の乱(1221)では宇治川合戦に多胡宗内の名がそれぞれ記されています。また戦国時代の永禄3年(1560)の長尾景虎の下に参集した軍勢の着到状である「関東幕注文」(文書作成時期には複数の異説あり)にも惣社衆の一人として多胡氏の名が記されていますがその詳細は不明なようです。(「吉井町誌」「吉井町の文化財」等より)

確認可能な遺構
 土塁、堀跡ほか
文化財指定
 吉井町指定史跡 1977年3月24日指定
訪城年月日
 2008年1月5日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/01/05 )
 源義賢の館跡との伝承
 源先生義賢の館跡と伝わる方形館。歴史の古いことに関しては、平成11年の発掘調査の結果からまず間違いのないところ。けれども事実上文献史料が存在しないのでこの、一連の経緯に関しては肯定も否定も難しいところではないかと思われます。明確な土塁と空堀等の遺構が現存していることは確実なのですが、何分にも周囲の竹林の生育が旺盛のため北側の一部分しか拝見できないところが残念と言えば残念なのでありました。



「多胡館」 画像クリックで拡大します
多胡館
( 2008/01/05 北西側より撮影 )
訪城アルバム
多胡館への入り口
多胡館の標柱
凸1 館跡への入口
 表通りからでも分かりやすい案内標識が整備され、アプローチに関しては至れり尽くせりという印象です。丁寧かつ簡潔な現地説明板も土塁の近くに設置されていました。
 ただし、南北方向が通常とは逆に記された現地説明板の遺構概要図なので、一瞬「?」マークが頭上に浮かぶことに。通路の反対側に設置すれば、わざわざ天地を逆さまにする必要もないと思うのでありましたが、なにか深い事情があったものと理解することといたしました。
 なお、画像右端の先端部付近が戦国時代の「多胡砦」にあたります。
凸2 館跡の標柱
 土塁、堀跡遺構への道もこのように立派に整備され、これほど楽な城館探訪も最近は珍しく。

 右側(西側)へと続く大規模な堀跡(手前の窪み)と土塁なのですが、屋敷周囲の竹林がすこぶる元気。このため、肉眼ではおおむね視認できますが、デジカメではこのような画像と相成りました。館跡の北西付近の景観には殊更歴史的な趣が感じられるのですが、堀跡が見えるような見えないような... この日は生憎不調のため、枯草を掻き分けてすすむ気力がなく。
 北側小口(「吉井町の文化財」では裏門と表記)付近の南北方向にのびる土塁
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)⇒「縄張り図」および館跡の規模についての記述に誤りがあるようです。
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)⇒「植松城」と「多胡館」が事実上混同されているようです。
「吉井町誌」(1969/吉井町)・「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)・「吉井町の文化財」(2000/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)・「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)⇒「多胡館」と「多胡砦」を一体のものとして捉えています。
「多野藤岡地方誌」(1976/多野藤岡地方誌編集委員会)
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)・「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
 ⇒ともに多胡館の築造時期にかかわる天仁元年(1108)の浅間山大噴火に関する記述が簡潔に記されています。
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)・「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「保元・平治の乱を読み直す」(2004/元木泰雄/日本放送出版協会)⇒源氏の内訌である大蔵館合戦の背景を詳述。
「源平合戦事典」(2006/吉川弘文館)

■「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店) ⇒ 上野志、上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収
■「上野名跡誌」(嘉永6年/富田永世)1976関東資料研究会による復刻本


・2008/04/29 HPアップ
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