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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/01/17のブログ 小串城 八束城
所在地
 群馬県多野郡吉井町大字多胡字城540ほか
歴史、人物、伝承

多胡氏一族につながる戦国期の山城か
 「東鑑」にも記される鎌倉期以来の多胡氏一族を祖とする戦国期の居城と推定され、地理的に南西約2km地点に所在する「八束城」(別名を「多胡上城」とも)との関連が深いと考えられていますが、かなりの健脚の持ち主が尾根筋の最短ルートで登ったとしても少なくとも2時間以上はかかると思われます。城跡としての遺構の大半はかつての桑畑の開墾により消失しているとのことですが、資料によれば最大で東西方向120m、南北方向70mほどの単郭、逆台形状の山城と推定されています。別名を「金沢城」ともよばれ城跡の西麓には武田流軍学弓術の古文書を伝える金沢氏一族が居住されていますが、この多胡下城との関連については明確ではないようです。
 その立地条件から、比高差約80mを有する勾配のきつい東西方向の谷筋の深さと比べた場合には、明らかに南北方向の尾根筋の緩やかさが弱点であると考えられます。縄張図からもこうした地形の制約に配慮した普請の形跡が窺えますが現状の地形からはその詳細を辿ることは困難な状況です。
                (主に「中世吉井の城館跡」を参考)

確認可能な遺構
 帯郭?、平場?、切岸?、馬出?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年1月17日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/01/17 )
 手強い篠竹と枯草の藪
 上信越道のすぐ南側に所在するために、山頂が削平された独立峰であるにもかかわらず、遠方(特に北側)からは見分けがつきにくいという立地条件。しかしとくに目印がないこの場所も、運よく小串城探しで浪費した時間を取り戻すように速やかに現地へと到着。道幅は狭いものの四駆の軽なのでおそらく山頂まで行けそうな気配も。とはいえ通行不能や行き止まりになっても困るので、林道を150メートルほど入ったところの道路脇に車を止めて周囲の地形を確認しながら踏査を開始。
 真北に聳える榛名山、その東側に時々雪雲に隠れる赤城山、中腹より上がたっぷりと冠雪している浅間山と上州の名山を眺めるにはとても相応しい地形。しかし肝心の遺構の方は、地面の確認ができないほどに篠竹とこの季節にもかかわらず枯草の類が密生中。尤も資料によれば方形の単郭の周囲を取り巻く堀跡は消滅しているとの記述があり、おそらくは桑畑の開墾の際に削平されたものと推察されます。
 それでも北辺の西側には帯郭状の地形と郭状の削平地が所在し。しかし、これとても予め資料がなければただの山道と幅の広い平坦な尾根筋にも見えてしまうのでありました。



「多胡下城主郭跡」 ⇒ 画像クリックで拡大します
多胡下城の主郭中央部分(標高約225m)
榛名山(上信越道の陸橋上から)
榛名山(主郭から)
赤城山(上信越道の陸橋上から)
浅間山(奥)と妙義山(手前)(上信越道の陸橋上から)
一郷山城と八束城方面(主郭から)
( 2008/01/17 撮影 )
訪城アルバム
林道への入口
分岐と比高差のある平坦地
凸1 林道への入口
 吉井IC付近から上信越道の南側側道を西へ500mほど進むと「蛇黒跨高速道路橋」が右手に所在。その反対側となる進行方向左側の緩やかな斜面建つ高さ20mを超える大きなアンテナ(画像右側)が目印。城跡が所在する山頂部分はこの林道の入り口からおよそ600メートルほどの道程。
 ところが、この日は日没まで残り1時間前後という夕刻のため、いくらも進まないうちに急に周囲の山も谷も深みを増してくるに従い年甲斐もなく些か心許無い心境に。
凸2 林道途中の分岐(標高約207m)
 いつ頃のものかはわかりませんが、画像の正面にはおよそ50m四方の広さを有する1m前後の比高差を伴う平坦地(現在は資材置場)が所在しています。なお、左右どちらの道でも主郭へ進むことは可能ですが、未舗装の右側の道を選べば藪潜りなしに到着します。

 ⇒一郷山城の模擬?天守(牛伏山東尾根)
 この分岐の手前の大きな肥料置場の建物辺りからは、南方約1.8kmに所在する一郷山城方面を間近に眺望することができます。

「帯郭?」 画像クリックで拡大します
「北西の馬出郭?」 画像クリックで拡大します
凸3 帯郭?
 資料の縄張図上からは、左側の道を進むと主郭の中心部へ続き、右側の巻道を進むと主郭の北側から反時計回りに南側の小口?部分に到達するはずです。
 しかし右側の主郭北西部に位置する馬出郭から先の南側は酷い藪のため地表も見えない状況のため敢えて突入を断念。主郭西側には犬走り状の地形も残されていた模様ですが、とにかく道以外には地面が確認ではないところが多く、全体としてどの程度の遺構が残存しているかまさに藪の中といった趣です。
主郭東側の帯郭・腰郭?切岸?のような部分
主郭北東直下の桑畑跡(主郭との比高差は約10m)
凸4 北西隅の馬出?
 4か所ほど所在していたことが推定されている馬出の一つで現状では最も見通しが良好です。主郭との比高差が10mほどを有する西側に張り出した格好のこの地形は、南側の斜面の状態と比べて北側の現状はかなり緩やかな斜面となっているため山城の馬出としては疑問の余地もあるように思われます。またこの現状からはいったい尾根筋のどの辺りまでが馬出部分であったのかを判断する材料が見当たりませんでした。

馬出郭とその南側斜面の状況
同北側の斜面の状況
交通案内

・上信越自動車道の吉井ICの南側側道を約500m西進し、「蛇黒跨高速道路橋」左手の林道を左折。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)・「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「吉井町誌」(1969/吉井町)・「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)・「吉井町の文化財」(2000/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)・「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)

■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
■「上野名跡誌」(嘉永6年/富田永世)1976関東資料研究会による復刻本


・2008/03/08 HPアップ
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