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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/01/05のブログ 多胡砦 多胡下城 八束城
所在地
 群馬県多野郡吉井町大字長根字上野場2ほか
歴史、人物、伝承

戦国期長根氏(小河原氏)の居城
 南北朝時代末期至徳元年(1384)の銘が刻まれた板碑等の遺物から、その築城時期の古さを窺わせるものがありますが文献記録などから検証できるのは16世紀中期の戦国時代からのようです。天文から天正年間末期の長根城は児玉党の流れを汲む小幡氏の一族である長根縫殿助(本姓は小河原氏−「上州古塁記」より−)の居城とされ、上杉氏、武田氏、後北条氏と周囲の軍事情勢の推移に従いその帰属を変え(−「上州古塁記」より−)、天正18年(1590)の後北条氏滅亡により長根氏はそのまま土着帰農しその後廃城となったものと考えられています。
 近世に編纂された「上毛古城記」「上州古城塁記」などによれば、小河原氏(長根氏)は石倉城の合戦、箕輪城の合戦、長篠の合戦、膳城の合戦、神流川の合戦に右馬助、雅楽助、縫殿助等としてその名をとどめるととのことですが、これらの人々が同一人物であるか否かを含めてその詳細については必ずしも明確ではありません。また、永禄10年(1567)の信州上田生島足島神社の起請文には、同じ長根衆の神保小次郎昌光との花押血判による連名で小河原右馬助重清の名が残されています。
 主郭は堀跡部分を含め東西約100m、南北約80mの規模を有し、その西から南にかけて主郭の2倍近くの規模を有する2の郭、南側には常光院境内までに及ぶ外郭、北東には搦め手と考えられる笹郭(長根神社)などを伴う広大な縄張りとなっていますが、もとより天文年間当初からのものではなく、永禄から天正年間における武田氏、後北条氏の勢力を背景とした改修を想定すべきかもしれません。

確認可能な遺構
 土塁、空堀、笹郭ほか
文化財指定
 吉井町指定史跡 1987年8月20日指定
訪城年月日
 2008年1月5日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/01/05 )
 城跡の東西に遺構が残存
 二の郭の一部分に明確な土塁と空堀が現存。ただし民家の敷地内なので西側の畑の隅の方からそっと拝見。主郭の小口部分の土塁は墓地となって辛うじて残されているという印象...と思っていたら、本来の小口はもう少し西側の集会所付近とのことで、恰も小口のように見える土塁の切れ目は後世の地形の改変によるものとのこと。その土塁の上から城跡遺構全体をざっと見渡した限りでは、寧ろ東側の笹郭と考えられている東側の長根神社方面の土塁と空堀地形が最もよく往時の面影を残しているという印象がありました。
 欲を言えば町指定史跡文化財としての現状と城跡を示す石碑の微妙なアンバランスが何処か気になる城跡でもありました。そして何よりも当方の全くの準備不足のため、相当に大雑把な遺構の確認に止まってしまったことを真摯に反省し、南側の外郭跡、主郭北側の遺構を含めた周辺の状況などを再調査すべき必要性を痛切に感じたのでありました。



画像「長根城笹郭付近」クリックで拡大します
長根城笹郭付近の地形
( 2008/01/05 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで拡大します
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凸1 長根城の遠望(たぶん...)
 鏑川南岸の丘陵地帯は何処も酷似しているという印象が強く、残念ながら明確な位置判断ではありません。
 とりあえず国土地理院の地形がを参照しつつ、あくまでも撮影地点と牛伏山、八束城、天引城などとの位置関係から漠然とその所在地を推定したものです。このため往々にして見当違いである可能性も多分にありそうです。
 さて、「上野国志」によれば長根氏は1万6千石を領し、「甲陽軍鑑」では後閑勢を含めて60騎との記述があるとのこと。(「大日本地名辞書」「上野名跡志」より)この点について、鏑川南岸に広がる豊かな水田地帯をその経済力の基盤としても、その最大動員兵力は400人前後が限度と思われます。これに対して堀跡を除く主郭二の郭に限った郭の総面積だけでも1万5千平方メートルを超える規模を有していますので、西毛地域に一定の勢力を保持していた小幡氏の一族とはいえども些か広すぎるという印象を感じました。
 
凸2 二の郭西側付近
 画像左側の畑の中の段築は、縄張り図と照合した限りでは城跡関連のものと思われますが確信ははありません。 右端のやや黒っぽい木立の根元の個所が二の郭の土塁遺構の遠景で、長根氏の後裔と同姓の民家脇には堀跡と共に見事な高さ約2m、長さ約15mの土塁が現存しておりました。 ⇒同じ遺構をアップで撮影
 二の郭への登り道の途中からは冠雪した名峰浅間山がくっきりと眺望できる標高以上に見晴らしの良い台地先端地形であることを実感できます。 城坂との古地名がのこる至る古い登り道ですが、主郭と二の郭の間に挟まれた谷筋のため両側の上方から横矢を受ける構造となっているように思われます。 二の郭東側斜面は坂下に降りるに従い、その比高差は次第に大きくなり天然の要害としての条件を備えていたことを示していました。

画像クリックで拡大します
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凸3 主郭跡の石碑
 指定文化財の解説版も設置され、城跡の石碑もたいへん立派な御影石製(たぶん)ですので、ついつい過剰な期待を...然し後世に作られたとされる上記画像の土塁を分断する道をすすみ主郭へと向かうと、目の前には削平された一面の畑が現れて暫しのあいだ茫然自失。
 これらの経緯について、天正18年(1590)以降と推定される廃城後の江戸時代初期において、主郭部分には城跡山不動院光光寺が創建され、その後明治8年から長根学校(長根小学校)が設置されましたが、明治42年には吉井尋常小学校に統合され廃校。更にその跡地は次第に耕地化され、藪の中に所在した堀跡は戦後に開墾されたとのことによるものと知ったのは、このページの編集作業の最中ことなのでありました。
それでも性懲りもなく石碑の個所をズームアウトしたりして何とか城跡らしくならないものかなどと無駄な抵抗を試
みたのであります。
 なお、この土塁の高さについては、5m(「日本城郭全集」)、4m(「吉井町誌」)、3m(「日本城郭大系」「中世吉井の城館跡」)と数値がやや異なっていますが、現状から観察する限りでは3mから3.5mほどの規模と考えられます。これらの記述の相違については、おそらくは土塁周辺の堀跡の消失などの事由によるものと推定されます。
 上の場公民館
 主郭南側のこの小さな公共的建物に小さな梵鐘が吊るされているのは、昭和60年まではかつてこの場所に不動堂が所在していたことの証で、この建物のあたりが主郭南側小口であったと推定されています。
凸4 笹郭跡の土塁
 茫漠とした主郭跡に些か衝撃を受けトボトボと主郭東側の道路を北へ進むと茫然としていましたので、ほぼ間違いなく城郭遺構との関連が窺えるこの地形が遠くから見えた時には、まさに神仏に救われたような心持になったのであります。 文字通りこの場所は長根神社の社殿が所在する境内地の一画そのものでした。
 さらに神社裏には土塁跡と思しき連続した盛り土も現存し砂漠の中で偶然オアシスを見つけたような心境に。 加えてこの笹郭と推定されている個所からは、主郭東側堀跡の形状と規模が明確に俯瞰眺望できるという絶好の観察ポイントでもありました。堀跡の深さは深い個所でも3mから4mほどですが、堀幅は15mを超えるような規模を有しています。
 ⇒東側堀跡
 ⇒東側堀跡

 ついでに気持ちよさそうに昼寝をしていたところを突然邪魔されて恨めしげな表情をしている堀跡のネコの姿も撮影するという幸運に恵まれ、「城跡好き+ネコ好き」の初老オヤジとしては至福のひと時を過ごすことに。

 こうなってくると、俄然城郭遺構病のスイッチが作動し長根神社東側の段築状の地形、長根神社東側の急斜面なども城郭関連遺構であるように思い込み始め、平地比高差約30mを測る長根城北側斜面の景観などを撮影して城跡としての要害性を説明するには恰好の画像を獲得できたなどと一人悦に入るのでありました。

交通案内

・国道254号線南側、長根神社(笹郭跡)が目印

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「多野藤岡地方誌」(1976/多野藤岡地方誌編集委員会)
「吉井町誌」(1969/吉井町)・「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)
「吉井町の文化財」(2000/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社)
「北武蔵・西上州の秘史」(川鍋 巌 著/2006/上毛新聞社)
「多野藤岡地方誌」(1976/多野藤岡地方誌編集委員会)

■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒ 高崎城大意、上州古城塁記上毛古城記上毛古城塁址一覧を所収
■「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店) ⇒ 上野志、上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収
「上野名跡誌」(嘉永6年/富田永世)

・2008/04/19 暫定版アップ
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