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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/01/05のブログ 峯山城 小串城 多胡下城
所在地
 群馬県多野郡吉井町大字多胡字城21ほか
歴史、人物、伝承

戦国期の砦跡か
 「日本城郭大系」には柳沢氏が居住したとの表記がなされていますが、その委細は不明な模様です。砦としての役割については、塩の産出に関連して西側大谷川対岸に所在する「高の砦」との関係を重視する山崎一氏の見解が有力視されているものと思われます。然し、その地理的な条件から砦跡のすぐ南側に隣接する歴史的経緯の古い著名な多胡館との関連も一概に否定できないものと考えられます。築城者とその時期については、明確な資料が見当たらないようですが、戦国時代の鏑川南岸を拠点とした中小規模の在地領主階層を想定することが無難であるように思われます。
 名称については関係資料により異なり、
「多胡城」(「日本城郭大系」)
「多胡城山」(「吉井町の中世城館跡」)
「多胡砦」(「吉井町の文化財ガイドブック」)
「多胡の砦」(−山崎一氏の寄稿による仮称−「吉井町誌」)
などと表記されています。

確認可能な遺構
 準備不足のため踏査確認未済
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年1月5日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/01/05 )
 事前調査は不可欠
 舌状台地の先端部に所在していることから眺望そのものは良好であったものと推定。独立した城砦というよりも多胡館とほぼ近接していることから、居館と砦という密接な相互関係があった時代も想定されるような立地条件。然し殆ど平地と同様の城館跡であるにも拘らず、極度の息切れを伴う体調不良に加え、事前に資料などを全く入手していなかったことが大きく災いし、さらにこのあとのスケジュール並びに南側に隣接する多胡館の方が気になっていたという事情から、かなりの見落としを伴う結末となり果てたのであります。
 周辺の河岸段丘先端に所在する多くの城館跡の相対的な配置状況をふくめて、吉井方面の地理にが全く頭の中に入っていないことを痛感。素通りしてしまった丘陵北西側の確認作業を中心にして、後日時期を改めて再訪する必要性を痛切に感じたのでありました。(※2019年5月末現在再訪未済)


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多胡砦の主郭跡
( 2008/01/05 撮影 )
訪城アルバム
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凸1 台地先端部
 砦跡が所在する舌状台地の先端部は、宅地化のために大きく削平されている模様でしたが、それでも4mから5mほどの比高差を有していました。この折も殆ど平地の城館跡であるにも拘らず、僅かこの程度の崖を攀じ登って見ようなどという体力も気力もなく。

⇒鏑川付近の水田地帯から遠望した多胡砦方面ですが、撮影した時には殆ど無意識な行動で、その時点では何処がなにやら皆目見当がつかなかったというのが真相。
凸2 城跡南境の堀切跡?
 南北にのびる舌状台地を東西方向に一直線断ち切るような形態で続いている延長距離約80m、高さ1.5m弱の地表の段差。故山崎一氏によれば堀切跡外縁部の残片との推定をされています。向かって右側が砦跡で左側は畑を介して「多胡館」へと続いています。
 小さな谷を挟んで砦跡の北東方向に所在するとても名称が気にかかる公園で、鏑川方面の見晴らしは抜群。ほぼ同様の地形であることから、砦跡先端部からもこのような眺望を得ることができたものと考えられます。
 また、砦跡の南方には多胡下城と牛伏山(一郷山城)を間近に眺めることができます。
交通案内

・吉井町立中央中学校西側の台地

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)・「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)・「吉井町誌」(1969/吉井町)中世城館の記述は山崎一氏の論考
「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)・「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)
■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)所収の「上毛古城塁址一覧」

・2008/04/13 HPアップ
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