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群馬県昭和村の城館索引へ戻る 長井坂城 長井坂城のロゴ 長井坂城
 1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影  4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2017年11月29日のブログ 阿岨城 森下城 糸井の打出 貝野瀬の砦
所在地
 群馬県利根郡昭和村大字川額字永井、渋川市赤城町大字棚下
※当該所在地については昭和村あるいは渋川市(旧赤城村)としているものがあるが、城域は両者の境界線上に所在している。各地図情報などを参照した限りでは、概ね主郭部については渋川市に、二の郭、三の郭は昭和村にそれぞれ属しているものと思われる。
歴史、人物、伝承

真田氏と後北条氏による争奪―境目の城
 長井坂城の立地は利根川とその支流である永井川の深い谷に挟まれたいわゆる崖端城であり、城跡南東端の標高は480mを越えている。また公開されている「縄張図」などでは分かりにくいのだが、城跡の地形は北西方向に突出して先端部に向けて緩い傾斜がかかっている。このため南方の高地から観望しても直ぐには城跡の位置を把握できないという地形上の特徴がある。本郭の遺構状況は良好で横堀、土塁の配置状況が分かるようにほどよく整備され、利根川方面に面した断崖の景観も息をのむほどの迫力が伝わってくる。 これに対して2の郭、3の郭方面は耕作地として利用されていることもあり、事実上見学できる範囲が限られている点がやや残念に思われた。とくに二の郭南側の大土塁(地山の削り残しを利用か?)へ向かうルートは一部耕作地の端を通過することもあり、果たして立ち入っても良いかどうか迷いを感じる部分もあった。城名の長井坂は集落名である「永井坂」に由来するという。
 戦国期のものと推定されている年未詳11月26日付の阿久沢能登守宛北条家朱印状によれば「先段長井坂番与申遣候へ共、彼地相止、阿曾之寄居番ニ定候、参拾人自身召連、来月5日阿曾へ打着、6日に番所請取」と記され、阿久沢氏(赤城山南麓の神梅城を本拠地とした上野国衆)は長井坂城の城番から阿曾の寄居にその任務が変更されたことが窺える。(京都大学所蔵阿久沢文書/群馬県史資料編7巻)真田氏と後北条氏による沼田の領有争いが繰り広げられた天正年間後半のものであろうか。また天正15年と推定される9月11日付の須田弥七郎宛猪俣邦憲充行状写によれば、「右長井坂在城ニ付而出置候」(長井坂城在城について送ったものである)として、塚本舎人分のうち15貫文を長井坂城の在城のために給付していることが窺われる。(須田文書/群馬県史資料編7巻)
 また後世の江戸時代初期に記された「加沢記」によれば、永禄3年(1560)に後の上杉謙信である長尾景虎が越山、長井坂に布陣し、沼田氏が降服したとされている。しかしこの部分については「ぐんまの城30選」など近年の刊行物では史実としては認識されていない傾向が窺える。「加沢記」にはその後の天正8年8月に真田昌幸の侵攻により、白井長尾氏傘下にあった長井坂城の津久田周辺の地衆である牧弥六郎、須田加賀守、狩野左近介、石田平左衛門らが降服して真田氏の支配下に置かれたが、天正10年10月に北条氏邦は五千の兵でこれを攻略し猪俣範直に守らせたともいう。その後一時は真田氏側の攻勢もあったが、天正18年(1590)の後北条氏滅亡の時期まで引き続いてその支配下に属していたとされている。
 

確認可能な遺構
 郭、土塁、小口、横堀ほか
文化財指定
 1981年5月6日 群馬県史跡指定、城址碑、説明板あり
訪城年月日
 2017年11月29日 8時25分から9時55分
訪城の記録 記念撮影

 たまには名の知られた城跡へ
 天正年間に真田氏と後北条氏の間でその領有が争われたある程度は名の知られている城跡であり、大分以前から訪れたかった本日唯一の目玉でもありました。
次の寒波が襲来しないうちに、 小春日和の天候なので、 せっかくこの方面に馴染んできたので、 関越道を使えばゆっくり走っても片道2時間足らずなので、 この歳になると来年、再来年があるかどうか分からないので・・・ などと、いろいろ理由をこじつけ、この日も3日前と同じく群馬方面へと向かうことになりました。とはいうものの前回の探訪から間2日しか空いていないこともあり、いくぶん遅めの午前6時30分自宅発となりました。
関越道を順調に北上し、ほぼ予定通り午前8時前に赤城ICで降りました。次に 赤城西麓広域農道伝いに約8kmほど北上し、途中から細い農道に入り城跡を目指すことになりましたが、要所要所に分かり易く丁寧な案内標識が設置されていることから、よほどのことが無い限り道を誤ることは無いように思われました。普段はこうした整備の行われていない場所ばかりなので、まことに有り難い配慮であります。
しかし二の郭北側の横堀が埋戻しなどにより事実上は消失していることもあり、その分3の郭との境が分かりにくくなっているようにも感じました。こうしたことから、立入の可否を含め現況に即した縄張図を含む解説版などが設置されると見学者にとってはありがたいように思われました。そして何分にも耕作地に囲まれていることから、今後の文化財としての保護と活用の観点からもその辺りの対処が求められるように思われました。むろん当該城跡遺構が渋川市と昭和村にまたがっているという事情などもあるのかも知れません。 なお付近には専用の駐車スペースはありませんが、ご迷惑をお掛けしないように農閑期でかつ限られた時間ならば便宜的に農道脇などを利用できるのかもしれません。
( 2017/12/29 )記述
長井坂城 二の郭から主郭方面 ⇒ 画像クリックで拡大します
長井坂城 二の郭から主郭(画像中央部)方面 −画像A−
( 2017年11月29日 撮影 )

長井坂城の航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大します
長井坂城の航空写真(国土地理院航空写真より編集加工)
 戦後間もない時期に当時の在日米軍により撮影されたもので、やや方位には誤差を生じてはいるように思われますがが、二の郭を中心とした土塁と横堀などの縄張りが確認できます。なお、赤枠の中心部が二の郭(折れのついた土塁と横堀の位置関係が明瞭)でその左側が主郭(土塁、横堀のほかに東側の喰違い虎口も確認できます)、同右側が三の郭(南辺の土塁と横堀が明瞭)に相当するようです。

訪城アルバム
子持山 ⇒ 画像クリックで拡大
関越自動車道 ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 子持山
 利根川を挟んで赤城山の西方に所在する標高1296.4mを測る上州の名峰で、ハイキングなどでも有名で、山頂部から画像やや左に下りた尖った岩は大黒岩のように思われます。因みに子持山の麓に見える林の向こう側が片品川の渓谷で比高差にして200mほどの断崖が連なっています。
凸2 関越自動車道
 画像は左側が下り新潟方面、右側が上り東京方面で、城跡の直下を関越自動車道の長井坂トンネルが南西から北東方向に貫通しています。下りトンネル出口の上方約40mの城跡北東部辺りから撮影したものです。

二の郭 ⇒ 画像クリックで拡大
谷筋 ⇒ 画像クリックで拡大
凸3 二の郭
 三の郭北東部から二の郭の北辺辺りを撮影したものですが、上記の航空写真と比較しますと二の郭の北東部は堀跡が近年の耕作などにより徐々に埋まってきているように見受けられます。
凸4 谷筋
城跡北部の「馬出し」とよばれている小郭北西の利根川へと通じる谷筋のひとつで、登ことも下ることも不可能な比高差約200m前後の絶壁です。この注意喚起の掲示が無くとも枯れ葉の山道は滑りやすく余り近寄りたくない景観でした。

 ⇒ 画像クリックで拡大
主郭北辺土塁と馬出し ⇒ 画像クリックで拡大
凸5 馬出し付近
 城跡北部の「馬出し」近くの断崖の様子で、谷筋は画像中央の岩の間を通り利根川へと落ちています。
凸6 主郭北辺土塁と馬出し
 画像左側が主郭北辺部の土塁で土砂の流失などによりいくぶん目立ちにくくなっていますが、主郭の他の土塁と同様に元々は郭内からでも2mほどの高さを有していたものと考えられます。画像右端は横堀を挟み馬出しの小郭です。

主郭東辺土塁 ⇒ 画像クリックで拡大
主郭南部と横堀 ⇒ 画像クリックで拡大
凸7 主郭東辺土塁
 画像左側が旧沼田街道で、右側が主郭内部で、主郭内部側での土塁の高さは約2mほどを測ります。
凸8 主郭南部と横堀
 この辺りでの横堀の幅は10m前後を測り主郭への接近を困難にさせてはいますが、二の郭側に比してやや防御性の低さを感じます。

主郭南部の横堀 ⇒ 画像クリックで拡大
主郭南部の小郭 ⇒ 画像クリックで拡大
凸9 主郭南部の横堀
 地形全体は画像左側から右側方向に向けて緩い傾斜がかかっていますが、防御性を高めるべく画像右側の主郭側の土塁は、堀が埋まっている現状でも約4mほどの高さに盛り上げられていることが分かります。(※「画像10」参照)
凸10 主郭南部の小郭
 画像奥の土塁は主郭南側のものです。なお標柱には三の丸(西)と表記されていますが、三の丸(三の郭)とは東側で横堀と近世の旧沼田街道とされる道により分断されているように見受けられ、むしろ二の郭から続いているようにも感じました。いずれにしても主郭の南部を防御する重要な個所には違いがないようです。
旧沼田街道 ⇒ 画像クリックで拡大
城址碑と解説板 ⇒ 画像クリックで拡大
凸11 旧沼田街道
 主郭と二の郭の間を通過している近世の旧沼田街道と推定されている山道で、画像正面のV字形の個所は旧街道により破壊された土塁跡に相当するようです。
凸12 城址碑と解説板
 二の郭北西角に設置されている城址碑と解説板です。。

馬出し ⇒ 画像クリックで拡大
 ⇒ 画像クリックで拡大
凸13 馬出し付近
 画像右側が「馬出し」(標柱設置)で、横堀を挟み画像左側が主郭北辺部分の土塁です。
凸14 二の郭南の大土塁
 高さ最大8mは有ろうかと思われる二の郭の南側に横堀を挟み隣接した巨大な土塁で、一説には櫓台が置かれていたという考え方もあるようです。画像右側は城外に接する横堀です。この二の郭側の防御に比べますと主郭側の方の南側の防備が弱いようにも感じられます。

二の郭 ⇒ 画像クリックで拡大
遠景 ⇒ 画像クリックで拡大
凸15 二の郭
 二の郭東側を三の郭東部から撮影したものです。画像左側の盛り上がった個所は画像手前(東側)に突出した「横矢」部分に相当するはずです。
凸16 遠景
 南東方向からの城跡の遠景で画像中央付近の送電線の鉄塔の奥が城跡に相当するはずなのですが、現状ではこのように木々に囲まれて殆ど判別できなくなっています。400年以上前の往時には、眺望を確保すべく周辺の木々はある程度伐採がなされ、大土塁に設置された櫓台がその存在を誇示しつつ南方への睨みを利かせていたものなのでありましょうか。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
※駐車専用のスペースは無い

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬(「群馬県の中世城館跡1988」)」(2000/東洋書林)
 ⇒ 地図上の位置を確認するには役立つが、解説部分は概して簡略である。
「日本城郭大系 4」(1979/新人物往来社) ⇒ 基本的な資料ではあるが、近年に刊行された資料も参照すべきであろう。
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「関東の名城を歩く 北関東編」(2011/吉川弘文館) ⇒ 出版年も比較的新しく縄張図が掲載されている。
「ぐんまの城30選」(2016/上毛新聞社) ⇒ この時点では最も出版年が新しく縄張図も掲載され、前項の資料と共に併読し ておくと役立つ。
「群馬の古城 全3巻」(山崎 一 著/2003/あかぎ出版) ⇒ 所在地住所表記にやや誤りがあり、情報もやや古くなっている。
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)

■郷土史・歴史
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「両毛と上州諸街道」(2002/吉川弘文館)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店) ⇒ 棚下村、川額村の項が参考となる。

■史料
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「戦国軍記事典―群雄割拠編」(1997/和泉書院) ⇒ 「加沢記」に関する解説が掲載されている。

■データベースほか
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。
「加沢記」(国立国会図書館デジタルコレクション ※ダウンロード可能)
 ⇒この長井坂城に関しては、天正年間の後半に真田氏一族である沼田城代矢沢氏と後北条氏側の抗争の舞台のひとつとして登場するが、両者抗争の末期には事態は概ね兵力に優る後北条氏側の優位に推移し、後の名胡桃城奪取に関わったとされる猪俣邦憲が城番を務めていたともいわれているが、真田氏側の立場に基づく軍記という性格上から矢沢氏の武勇を脚色する傾向が感じられ、その全てを史実として受け取ることは難しい部分があるようにも思われる。
「昭和村HP」

・2017年12月29日 HPアップ
・2019年3月2日 chrome対応のためタグ等を修正しました。 
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