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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2017年11月29日のブログ 阿岨城 加藤丹波守腹切石
所在地
 群馬県利根郡昭和村大字森下字寄居356ほか
歴史、人物、伝承

沼田城の支城
 別名を鎌田城、あるいは鎌田の要害、天神城ともいう。 沼田領は永禄3年(1560)の長尾景虎(※のちの上杉謙信)の越山以降、天正5年(1578、※謙信の死去)頃まで関東管領となった越後上杉氏の関東における戦略の拠点として重要な役割を担った。永禄8年と推定される上杉輝虎書状によれば、「猿京、小河、森下の用心、不可有油断候」と記され、武田氏による上野侵攻に対する警戒を指示するなかに森下の地名が見えている。(双玄寺所蔵文書/埼玉県史資料編6巻)ただし、この文言がそのまま森下城を指しているのかは必ずしも明確ではないが、そうした可能性も考えられると見るべきであろう。また永禄6年(1563)の武田信玄による岩櫃城侵攻に対して森下を含む沼田領の上杉方在番衆に対して警護の強化を命じている。
 その後、真田氏の事跡に詳しい近世初期に編纂されたとされる「加沢記」によると、天正8年(1580)8月武田氏の意を受け真田昌幸は上野東部に侵攻したが、その際に鎌田(森下)城主である加藤丹波守が降服して真田勢に加わったという。しかし武田氏滅亡、織田信長死去後の天正10年(1582)10月には沼田領に後北条氏が侵攻し赤城山西麓の長井坂、阿岨、鎌田の各城が落城し鎌田城主加藤丹波守は壮烈な切腹を遂げたとしている。
 以下、このくだりを引用する。  「(10月)22日に鎌田の城へ須田加賀守押寄、二重三重に取巻き責めければ加藤丹波、命をかろんじ義を重んじ、木戸をかためて弓鉄砲にて防、攻入れては追出し、数刻の戦に弓おれつき、入れかわる勢はなし、是迄成りとて腹十文字にかき切りて失にけり」(加沢記/第4巻長井坂鎌田阿岨の要害合戦の項より)
 ただし「関八州古戦録」「上州古城塁記」には森下三河守の居城とし、三河守討死の様子を克明に記している。この加藤氏と森下氏の食い違いも気にかかるが、天正8年5月に沼田衆の一人である森下又左衛門に対して真田昌幸名での「宛行状」が発給されており、森下城主三河守との関連性が窺われる。その一方で加藤丹波守に関しては同時代の記録は見当たらないように思える。両者が同一人物である可能性を含めていろいろと謎の多いエピソードである。
 同時期の天正10年12月の北条氏邦朱印状によれば、新木氏ほか200名に対して「馬上之者に10貫づづ、かちしゆ(※徒衆)ニ者3貫づつ、いとい(※糸居)、もり下(※森下)、く屋、ぬます(※沼須)の内をもってふちよすべく(※扶持を与える)候」との成功報酬を約している。また、天正11年2月の須田加賀守宛北条氏邦判物写には、「去年10月28日、向倉内(※沼田)相働、於森下敵10人為討取候」とあり、その軍功が賞されている。(上毛伝説雑記/群馬県史資料編7巻)これらのことからも森下城をめぐる攻防があり森下城が後北条勢により落城した可能性はあるように思われる。しかし天正13年9月の原豊前守宛北条氏直書状によれば真田氏が信濃出陣中に沼田城を攻略するために森下城を攻落したことが記されているように、真田氏と後北条氏の間で幾度となくその奪い合いが続いていたらしい。(東京国立博物館所蔵文書/群馬県史資料編7巻)

確認可能な遺構
 堀跡?、郭跡?
文化財指定
 1979年3月22日指定 昭和村史跡
訪城年月日
 2017年11月29日 11時10分から11時25分
訪城の記録 記念撮影

 有り難い標柱
 「日本城郭大系」などによりますと、森下城が所在する河岸段丘は長年にわたる片品川の急流に浸食されて本来の城地の大半が崩落してしまったとのことです。現在は片品川からは比高差約20mほどの高さを有する崖線端に標柱と解説版が設置されていますが、周辺部の耕地化と宅地化などにより城跡としての形跡を感じにくい状況となっていました。しいて言えば堀跡の一部ともいえなくもない比高差2.5mほどの段丘斜面などが見受けられるものの、その周辺は宅地化と耕地化がすすみその旧情は把握しがたいものとなっています。このため城跡の標柱と解説板が所在しなければ、城跡であることに気が付かないこともありそうに思われました。この地を初めて訪れるものにとっては誠にありがたい存在です。
  なお、南側を通過する県道からは民家などの陰に隠れたやや探しにくい場所に所在し、しかも付近には駐車スペースがほぼ存在していませんので注意が必要です。県道自体は交通量も少なくないことから、周辺の 路駐は避けて多少歩いたとしても予め周辺の公共施設など確実な駐車場所について調べておく必要があるのではないかと痛感をいたしました。
( 2017/12/09 )記述
森下城 ⇒ 画像クリックで拡大します
森下城 −画像A−
※解説板の文字が少し薄れていたので下記に書き起こしてみました。
 「史跡 森下城跡 天神城、鎌田城とも呼ばれ沼田城団の一つとして作られたといわれる。後に真田、北条氏によって前衛の砦として利用された。天正十年(1582)北条氏に攻められ、加藤丹波守が奮戦した模様は沼田元祖記(※沼田根元記の異本、類書か)にくわしい」
( 2017年11月29日 撮影 )

森下城の航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大します
国土地理院航空写真より加工編集 −画像B−
( 2017年9月6日 編集加工 )
訪城アルバム
森下城の堀跡? ⇒ 画像クリックで拡大
森下城の堀跡? ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 森下城の堀跡?
 「日本城郭大系」に掲載されている略測図やいくつかの航空写真画像から推定しますと、南側の堀跡付近の段差のようにも思われますが詳しいことは分かりません (^^ゞ
凸2 同  前
 元々の河岸段丘の一部なのか、あるいはその後の宅地化などの造成によるものなのかなど色々な可能性も想定されますが、略測図に記されている堀跡の位置に符合はしておりました。

城跡北東部の段差 ⇒ 画像クリックで拡大
片品川 ⇒ 画像クリックで拡大
凸3 城跡北東部の段差
 3m弱の段差ですが、堀跡の名残なのかその後の耕作地の開墾に伴う地形なのか悩みます。
凸4 片品川
 城跡のすぐ西側を南流している片品川です。河原付近からの比高差は約20mほどを測り文字通りの断崖が形成されています。なお、画像中央やや右に写り込んでいる白い煙は、すぐ傍の畑の農作業によるものです。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬(「群馬県の中世城館跡1988」)」(2000/東洋書林) ⇒ 一覧表に掲載
「日本城郭大系 4」(1979/新人物往来社) ⇒ 解説あり
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社) ⇒ 解説あり

■郷土史・歴史
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「戦国史 上州の150年戦争」(上毛新聞社)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「戦国期東国の大名と国衆」(2001/岩田書院)」 ※上杉謙信の越山(関東侵攻)に関する論考が掲載されている。
「信濃真田氏 論集戦国大名と国衆13」(2014/岩田書院)

■史料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)  ※諸国廃城考、諸国城主記、主図合結記を所収
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店)  ※上野志、上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収
「戦国軍記事典―群雄割拠編」(1997/和泉書院)
「上野国志」(1974/関東史料研究会)

■データベースほか
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース)
「国土地理院航空写真」より航空写真画像を編集加工した
昭和村HP

・2017年12月9日 HPアップ
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