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群馬県昭和村の城館索引へ戻る 糸井の打出 糸井の打出のロゴ 糸井の打出
1歴史・伝承   2残存遺構   3訪城記録・記念撮影   4アルバム  5交通案内   6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2017年11月29日のブログ 阿岨城 森下城 加藤丹波守腹切石
所在地
 群馬県利根郡昭和村糸井
歴史、人物、伝承

経緯不詳
 片品川東岸の低位河岸段丘端に所在し、「日本城郭全集」によれば、別名を「糸井の砦」ともいう。同書および「日本城郭大系」などによれば、打出の地名が残り長慶寺付近が砦跡の中心であったとされているが、その経緯、時代背景は全く不明であるらしい。
 地理的に見るならば、阿岨城や森下城のように沼田城の支城群のひとつとして機能していたということも想定されるが、そうした伝承などは残されてはいないらしい。  また下記参考資料の北条氏邦朱印状によれば論功行賞の宛行いとして糸井の地名を見ることができるが、砦との関わりは同様に不明である。阿岨城、長井坂城などと同様に崖線部方面の防御は厳重ではあるが、台地続き方面は空堀の掘削と土塁の築造以外に有効な手立てはなく、このため後背台地方面からの攻撃に対しては大きな弱点を抱えた立地であることは否めない。後北条氏勢力による沼田城攻略のための限られた期間の臨時的な築城のひとつであったと想定することもありうるのかも知れない。

確認可能な遺構
 ほぼ消滅
文化財指定
 なし、ただし長慶寺の板碑は1979年3月22日付の昭和村指定文化財となっている
訪城年月日
 2017年11月29日 12時20分から12時30分
訪城の記録 記念撮影

 ほぼ形跡なし
 いったん昭和村役場に立寄り資料収集を行い、段丘の傾斜地でもありあまり道路事情がよくは無さそうに思えたことから、そこからは距離にしてざっと1km足らずと近いこともありそのまま徒歩にて向かうこととしました。
しかし始めにアプローチしたルートがたまたまこの日は水道管の埋設工事により全面通行止めとなっていたことにより、結局は約800mほど迂回することとなってしまいました。これが平地の迂回であれば何ほどのこともないのですが、アプローチにあたり比高差約30mほどの河岸段丘の急坂を2度登ることとなり結構疲れました。しかもたまたま工事が昼休み中であったため、工事関係者と間違われて車両通行の可否を聞かれてしまったりもしました。尤も自分の出で立ちがごく自然に工事の現場に溶け込みやすいこともあり特に珍しいことではないので致し方ないことでもあります。
概して城館跡としての痕跡に乏しく、低位河岸段丘の崖線地形が唯一それらしいということになるのですが、その崖線地形を視認するに相応しい個所がなかなか見つからないのでありました (^^ゞ
その一方で近くの長慶寺境内(たぶん無住)には元寇の時期に関連すると推定されている鎌倉期の板碑が文化財に指定され大切に保存されていました。周辺にはいちおう「打出」という城館関連地名は残されてはいました。
( 2017/12/27 )記述
糸井の打出 長慶寺に所在する鎌倉期の板碑 ⇒ 画像クリックで拡大します
糸井の打出 長慶寺に所在する鎌倉期の板碑 −画像A−
( 2017年11月29日 撮影 )

長慶寺に所在する鎌倉期の板碑解説板

訪城アルバム
野仏 ⇒ 画像クリックで拡大
段丘麓から ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 沿道の野仏
 中央の三体からなる野仏の彫像は近世の民間信仰に因んだ「阿弥陀三尊石像」のようにも思えるのですが、この分野は全く不勉強なので詳しいことは分かりません (^^ゞ
凸2 段丘麓から
 南側の方の坂道を登ってゆくと、重機の掘削作業を伴う水道工事のため全面通行止めとなっていました。このためひとつ北側のこの道から再び段丘の坂を上ることになりました。画像右上の山林が、「画像3」の山林に相当するようです。

上糸井集落センター ⇒ 画像クリックで拡大
上打出のバス停 ⇒ 画像クリックで拡大
凸3 上糸井集落センター
 あくまでも現地を訪れた個人の印象ですが、長慶寺を含むこの集会所の辺りが打出の中心部に相応しいように思えました。
凸4 上打出のバス停
 バス停の画像は、いざという時の「保険」です。まったく何の痕跡も見当たらない時に、「いちおう来ましたよ」ということを明示するお役立ちアイテムでもあります ^^
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬(「群馬県の中世城館跡1988」)」(2000/東洋書林)
「日本城郭大系 4」(1979/新人物往来社)
 巻末のその他の城郭一覧に「打出。長慶寺がある。段丘端にある簡易な砦」との簡易な記述がある。
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
 ⇒ 「糸井の砦 中打出、南打出、上打出の一帯が糸井の砦の跡であるが、いまは何ものこっていない。長慶寺付近が中心である」との記述がある。

■郷土史・歴史
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
 天正10年12月の北条氏邦朱印状によれば、真田氏の影響下に置かれていた沼田城攻略にあたり新木氏ほか200名に対して「馬上之者に10貫づづ、かちしゆ(※徒衆)ニ者3貫づつ、いとい(※糸井)、もり下(※森下)、く屋、ぬます(※沼須)の内をもってふちよすべく(※扶持を与える)候」との成功報酬を約した文書に「糸井」の地名が確認できる。

■史料
なし

■データベースほか
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース)
「日本石仏事典第2版」(1996/雄山閣)

・2017年12月27日 HPアップ
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