群馬県内の城館跡目次
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 素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。
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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2018年4月5日のブログ 長井坂城 阿阻城 猫城 棚下の砦
所在地
 群馬県渋川市赤城町見立二城、このほか城域の一部は樽、宮田にもまたがる
歴史、人物、伝承

呼称について
 当該呼称について整理すると概ね次のようになり、以前には見立城と呼称している事例も多かったが、最近のものではその多くが「不動山城」と表記していることから当サイトにおいてもこれに従うものとした。

不動山城−−「ぐんまの城30選」「マッピングぐんま」「現地解説板」「赤城村誌」「角川日本地名大辞典」などに記載されている。また別名として「日本城郭大系4」「群馬県の中世城館跡」「日本城郭全集第3巻」にもこの記載がある。

見立城(みたちじょう)−−「日本城郭大系4」「群馬県の中世城館跡」「群馬の古城 中東毛編」「日本城郭全集第3巻」

二城(にじよう)−−「現地解説板」「赤城村誌」「群馬県の中世城館跡」「群馬の古城 中東毛編」「日本城郭全集第3巻」などに別名として記載されている。

樽城(たるじょう)−−「日本城郭全集第3巻」、このほか(多留とも)の要害、田留城などとも記された「天正8年3月14日の北条氏政による戦国期の感状」(東大史料編纂所所蔵猪俣文書)、「石川忠総留書乾」なども伝わっている。

歴史的経緯
 これについては白井長尾氏、真田氏(武田氏)、後北条氏、上杉氏などを含めて争奪が続き、その支配した勢力の変遷が相当に複雑であると感じる。この点について、「ぐんまの城30選」の「不動山城」の項を執筆されている飯森康広氏の解説が最も分かりやすく纏められているものと考えられることから、大筋はこれを軸として抜粋・引用して次に示させていただくこととした。

◎築城時期は地衆である見立権太郎の居館が存在したとの伝承があるが、その真偽と当該所在地も含めて定かではないものと考えられる。
 ※「角川日本地名大辞典」見立(村)の項より

◎永禄3年(1560)長尾景虎越山の折に景虎が不動山の寄居を取りたて、当時勝保沢城主であった斉藤加賀守を城代としたともいわれている。
 ※「長井権兵衛書状」(「赤城村誌」より)

◎永禄10年(1567)3月、武田氏によりその居城である白井城を追われた上杉方の長尾憲景(白井長尾氏、かつての守護代家、上野上杉家家宰、上野の有力国衆)がこの不動山城へと移った。(「双林寺伝記」より)
 しかし、武田氏・後北条氏側についた厩橋城主の北条高弘(きたじょうたかひろ、元越後衆)が沼田攻略を目指し利根川東岸部を北へと侵攻したことにより、長尾憲景は越後長尾氏を頼り越後方面へと退去した。
 ※なお、長尾憲景はその後は天正6年3月の上杉謙信死去までの間、永禄12年には常陸に転戦し佐竹氏と共に小田氏治を攻めるなど、概ね上杉方として行動していた可能性が高いとされている(「増補改訂 戦国大名と外様国衆」白井長尾氏の研究(2015/黒田基樹/岩田書院)より)

◎永禄12年(1569)、越相同盟(上杉氏と後北条氏の軍事同盟)締結の機運により、北条高広が上杉方に帰参し、長尾憲景もこの不動山城へと回帰したが、別に八崎城を築城して、重臣である牧和泉守(もくいずみのかみ)にこの不動山城を譲った。(「石川忠総留書乾」より)
 ※上野に戻った際には八崎城あるいはこの不動山城に居城して白井城の奪回を窺っていたという見解もある(前掲の黒田氏論考より)

◎天正6年(1578)3月、上杉謙信の急死により「御館の乱」が勃発し、八崎城の長尾憲景は後北条方に与したが、翌年5月には後北条方となっていた川田重親が御館の乱での論功行賞としてだろうか、後北条氏からこの不動山城を入手することとなった。しかし、川田重親自身は不動山城へ移ることなく厩橋に留まったが、同年8月には北条高広とともに上野での攻勢著しい武田勝頼方に転じたために不動山城は同じ武田氏方となった牧氏へと再び戻された。

◎天正8年(1580)3月、後北条方の女淵城主富永助盛(猪俣邦憲)が不動山城(樽城)を攻め、牧和泉守の次男など数多が討取られた。(前掲の黒田氏論考より) このため、不動山城にはその当時は後北条方であった南雲衆(上野地衆)が在城したという。

◎同年秋には武田勝頼の重臣である真田昌幸が沼田城を奪取したのち、利根川東岸を南下し不動山城へと攻寄せたが、劣勢である南雲衆は城を明け渡して利根川西岸へと後退した。
 ※この攻防について、「加沢記」によれば、この時の真田勢は約4千から5千とされ、不動山城にはすでに武田氏側であった牧和泉守が立て籠もったとされている。なお、「加沢記」では、南雲衆が立て籠もっていたのは「長井坂城」であると記す一方で、1年後の論功行賞においては「不動山乗っ取りの際」と記すという記述の矛盾も確認される。

◎天正10年(1580)3月、織田信長の甲斐侵攻に伴い武田氏が滅亡し、八崎城の長尾憲景は白井城への復帰を果たしたが、この不動山城は厩橋城主北条高広に奪取されたともいわれている。しかし、6月には織田信長が明智光秀の謀反により死亡し、その重臣である滝川一益が神流川合戦において敗北すると、白井城には後北条勢が侵攻して長尾憲景はこれに服属した。北条高広は後北条氏に従わず厩橋城から追われた。これ以後は後北条氏の城番が置かれ、白井長尾氏もこれに加わったらしい。

 以上のようにこの不動山城は中世沼田街道や樽の利根川の渡しに近く、当時における交通、軍事の要衝であったことから、いわゆる「境目の城」となることが多く、こうした武田、後北条、上杉氏などの争奪の地となった。

確認可能な遺構
郭、虎口、腰郭、堀(堀切、横堀)ほか
 利根川方面からの比高差は約100m、南東の解説板の個所からの比高差は実質約20m
 大型哺乳類の出没注意(クマ、カモシカなど)
文化財指定
 渋川市指定史跡
訪城年月日
 2018年4月5日 13時30分から14時35分
訪城の記録 記念撮影

 藪とカモシカ
 城跡南端部付近の道路脇の目立つ場所には城跡の標柱と解説版が設置されています。この場所から竹林内部に道が続いており、そのまま道なりに進めばいちおう主郭とその北東に接する郭辺りまでは見学できるのですが、それ以外の部分については真竹やアズマザサ等が著しく繁茂しており暗く見えにくく立ち入りは難しく感じました。
 また事前に入手していた幾つかの縄張図などからは余り想像ができなかったのですが、主郭、二の郭北西部は「棚下砦」西端部のような崖線部ではないにしても、平均50度前後というかなりの急斜面であり、断崖といっても良い状況であるようにも思われました。特に主郭部の僅か比高差5mばかりの斜面部分ではありますが、踏み跡が崖線部に近いこともあり斜面の登攀の場合はともかくとしても、下りの方については少し大げさな言い回しとなりますが、もしも滑る方向を誤った場合には比高差約100m以上ゴロゴロと滑落して利根川の急流に飲み込まれることとなる可能性も皆無ではないような恐怖さえ感じました。現地にはだいぶ以前に設置された木竹制の簡易な安全柵やロープなどが設置されておりましたが、既に劣化をしており、この時点では全く役立ってはおりませんでした。もっとも予めトレッキング用のストックを携行していたこともありまして、結果的には大きな問題とはなりませんでした。
 城跡巡りのうち特に中世城館跡については最近流行の「自己責任」であるとはいっても、近年の「城跡ブーム」に鑑みますと、文化財標柱やその解説板が設置されている市の指定史跡でもあるという点からも、私有地であるという事情などを加味したとても、ある程度の安全策を継続的に行うことも必要ではないかとも感じた次第です。
 当城については比高差は丘陵上からのアプローチであるという事情もあることから、殆ど無いに等しく城内でのアップダウンを加味しても全体にして20mほどとなりますでしょうか。そろそろ古希前という年代の人間にとっては誠に有難い山城なのでありました。

 帰宅は早めに
 この日は朝から山城3か所と平地の城館2か所の合わせて5か所を巡り、時刻は車の駐車場所まで戻った時点で未だ午後3時前ということもあり、当所の予定ではこの後渋川市の図書館へ赴き資料を収集するという選択肢も想定していました。しかし何分にも早朝の午前5時前からの運転作業に加えて、夜間の運転走行は結構疲れることは昨年2017年11月の青森八戸方面遠征(※移動距離約1400km)において嫌というほど体験していることから、この際大人しくそのまま帰宅することといたしました。なお途中帰路である上武道路にて初心者マークの方が時速50km走行(※バイパスなので一般的には制限速度は毎時60km)を遵守されていたことから、いくぶん渋滞する状況に立ち至ったものの、結果的には午後7時前に自宅へと帰着しました。往路約3時間、復路約4時間、およそ合計240kmほどの一般道走行でありました。
 流石に4月上旬というこの暖かさゆえ、そろそろ草木の成長が目覚ましくなってきました。今回は前回、前々回の伊勢崎市内の平地から緯度、標高を少し上げてみたので、草木の成長は余り気になるような場面は感じられなかったのですが、次回以降さらにこのまま探訪を続けるとすれば、もう少し標高を上げる必要を感じましたが、そうなると登攀する比高差が大きくなるので、とても体が持たないということになりこの点が悩ましく感じたのでありました (^^ゞ
( 2018/10/28 )記述
城跡東側大手とされる辺りの解説板
不動山城東側大手とされる辺りの解説板 −画像A−
( 2018年4月5日 撮影 )
凸現状では「追手」(大手)と記されている個所から横堀を渡るルートはほぼ通行できるような状態ではなく、まず土橋状の地形確認等も困難であるように感じられました。

不動山城搦手付近
不動山城搦手付近 −画像B−
( 2018年4月5日 撮影 )
凸この山道をそのまま道なりに進むと主郭南側の腰郭部分に到達するのですが、足元の道も極めて良好で腰郭までは僅か200mほどの距離しかありませんでした。なお、史跡としてある程度整備されているとはいえ、あくまでも足元が無論スニーカーなどの場合をいうのでありまして、中世城館の場合には街中で履くような普通の革靴やハイヒールなどは向いておりませんのでくれぐれもご注意を願います <(_ _)>

不動山城の主郭
不動山城の主郭 −画像C−
( 2018年4月5日 撮影 )
 主郭(画像上)と腰郭(画像手前)の様子ですが、主郭部の虎口についてはこちらの西側では確認できず、竹藪のある画像の無右側奥であると考えられているようです。 (⇒下記の画像F参照)


不動山城の主郭切岸
不動山城の主郭切岸 −画像D−
( 2018年4月5日 撮影 )
凸現状では腰郭から主郭へと続くルートはこの利根川沿いの崖線脇を通過しています。見学者に配慮したと思われる細い支柱と虎ロープとが設置されてはおりましたが、ほぼ破損しているというような按配ですので、ストックなどを携行していれば寧ろ木の枝などに掴まり切岸を直登した方が安全なのかも知れません。( ⇒ あくまでも2018年4月5日現在での感想です)


主郭直下の腰郭
主郭直下の腰郭 −画像E−
( 2018年4月5日 撮影 )
凸南西方向に続く主郭直下の腰郭と細尾根で搦手のような印象もありましたが、既にこの時点で5か所目ということもあり疲労のため足元がふらついており先端部は未確認です (^^ゞ


不動山城主郭の虎口か
不動山城主郭の虎口か −画像F−
( 2018年4月5日 撮影 )
凸主郭部(本丸)を東西に分ける窪み地形で、「ぐんまの城30選」などでも、南側腰郭からの虎口と推定されている模様です。腰郭付近からの入口は竹藪が目立ちますが、より安全に主郭部へとアプローチするにはこちらのルートもそれほど悪くは無いように感じました。


二の郭枠東部の切岸
二の郭枠東部の切岸 −画像G−
( 2018年4月5日 撮影 )
凸主郭東側の郭2とその北東部の郭を隔てている堀切で、この城の見どころのひとつのはずなのですが、残念ながら真竹の叢生により画像左側の堀跡をすすむことは困難でした。堀の深さは郭2側でも3m以上で、画像左側の北東部切岸の高さは5m以上はありそうに見えました。
 このあと切岸を這い上がり、いちおう郭面の地形だけでも確認しようと試みたのですが、ストックを使用しても藪に阻まれ進退が窮まっている最中に下記のカモシカに出会い敢え無く撤退しました。このため宮田不動尊方面の尾根筋も未確認です。
 なお山崎一氏が作成されたと思われる縄張図には、この地点から北西方向に向けた長大な竪堀が描かれておりますが、自然地形の谷を過大に評価している可能性を感じ、いちおう現地を確認しようと考えておりましたが、生憎下記画像に示す2頭のニホンカモシカと遭遇し、結果的にその確認作業を阻まれることとなりました (^^ゞ


三の郭斜西側切岸付近で佇むカモシカ
三の郭斜西側切岸付近で佇むカモシカ −画像H−
( 2018年4月5日 撮影 )
 三の郭方面への移動中、トレッキング用のストックを使用しても登攀に難儀しているという真っただ中に出会ったカモシカ (特別天然記念物ニホンカモシカ)です。この画像ではこの1頭だけしか映っておりませんが、少し手前から廻りこんで観察したところ仲良く2頭でじっとこちらを凝視していたのでありました。斜面であがいている最中にふと視線のようなものを感じたので、ストックを斜面に刺して体を安定させ左手前方を眺めたところガッチリと視線が合いました (^^ゞ 
 このカモシカの背後は斜度約50度前後、比高差約100mの急崖でしたが、流石にカモシカだけあってバランスも良く悠然としておりました。無論クマやイノシシではないので、「驚かすような行動をとらない限りはこちらに向かってくるようなことはない」旨を耳にしてはおりました。そうはいうもののこちらの方も足元が余り良好ではなく、体重の比較ではこちらの方が約2倍ほどはあるにしても、彼我の距離が約5mほどとかなりの至近距離であったこともあり、できるだけ刺激をしないようにゆっくりと撤退することとなりました。


国土地理院航空写真より編集加工
国土地理院航空写真より編集加工 −画像I−
( 2018年10月24日 編集加工 )
凸「堀跡遺構」の「い」(外側の堀)「ろ」(直角に曲がる堀)「は」(主郭と郭2の間の堀、主郭部は「は」の文字の下あたりと推定)については現在でも概ね確認ができます。終戦直後の画像であるため現在は竹林となっている個所は耕作地として開墾されている様子も窺われます。


訪城アルバム
ソメイヨシノ
凸1 ソメイヨシノ
 不動山城の東側で撮影したものなのですが、既に廃校となった刀川小学校の隣接地ということもあるのか、ちょうど満開の時期を迎えて青空に淡いピンクの花色が生えるという晴れがましい景観にもかかわらず、何処かしら寂しさを漂わせておりました。
 あとから調べましたところ、同様に廃園となった旧赤城村立刀川幼稚園の園庭に植樹されていたソメイヨシノでありました。いまでは既に可愛らしい園児の声は聞こえるようにこともなく、加えてこうしたこうした桜の風情を愛でるいう人々さえまでもが少なくなってしまったようにも思われました。
 なお、この幼稚園の廃園時期は市町村合併直後と早く、旧赤城村の津久田幼稚園、南雲幼稚園、刀川幼稚園、三原田幼稚園の4幼稚園が統合されて、平成18年(2006年)4月に赤城幼稚園として開園したということも後から知りました。(⇒「ふるさとあかぎ」さまのサイトより、本園に関する統廃合の経緯について一部引用をさせていただきました)
 ※この画像の左右方向に関越自動車道が南北に縦断していますが、幸いにして城跡そのものには直接の影響は無かったようです。

大手付近の空堀
凸2 大手付近の空堀
 画像右端が「大手」ともいわれているルートですが、次の画像3からも分かるように芽吹きの直後とはいえ竹林やアズマザサを含めた藪が茂り先を見通すことができませんでした。
 現状での堀幅は約12mで、深さは画像左側で約2m、右側で約3.5mほどを測ります。

大手付近
凸3 大手付近か
 半ば消えかけている感じもする現地案内板の縄張図(上記画像A参照)をよく見てみますと、この辺りが大手口付近のようにも思われるのですけれども、肉眼ではどうにか地表観察ができるもののデジカメ画像ではこうした仕儀と相成ります (^^ゞ

旧刀川小学校
凸4 旧刀川小学校
 旧赤城村からの小学校なのですが、詳細は把握してはおりませんが、おそらくは地域人口の減少と財政難等を背景として、残念ながら2017年3月末をもちまして閉校されたようです。午前中に訪れた「棚下の砦」の西麓にも閉校となった木造の校舎が所在しており、はからずもこの日は閉校した学校めぐりともなりました。
 こうして校庭の端の方から拝見をいたしますと、ふと元気な子どもたちの歓声や校内放送に混じり、ピアニカ音などが今でも聞こえてきそうな錯覚にとらわれ、その森閑とした現実との隔絶に暫し呆然としておりました。あらためて人口の偏在する都市化がもたらす厳しい地域社会の実情をまざまざと認識することとなりました。
 中世の城跡めぐりをしておりますと、けっしてこのような廃校となった小中学校跡を見ることは珍しくはありません。地方における教育や文化活動の拠点/象徴/伝統が失われることの影響の大きさについて真摯に受け止めねばならないものと感じます。平成の大合併がもたらした負の側面のひとつなのでしょうか。

搦手付近の解説板
凸5 搦手付近の解説板
 大手方面よりも、こちらの解説板の方が1年だけ新しいもののようですが説明の字句は全く同一でした。大手の東側は南側の公道からは遠く、夏になると藪などに隠れてしまうこともあり、どうせならば同じようにこちらにも「縄張図」表示していただけると有難いと思うのでありました。

搦手付近か
凸6 搦手付近か
 城跡の東側に設置されていた解説板の縄張図(略図)によれば、この画像の左手辺りから搦手とされるルートが存在していた模様なのですが、何分にも頑強そうな真竹が生い茂っており地表部分の観察を拒んでおりました。

搦手のルートか
凸7 搦手のルートか
 本来のルートであるのかは不明ですが、真竹の竹林を貫く主郭南部へと続くルートがありました。如何にも直線的で些か単純に過ぎるという感があり、むしろ画像西側の腰郭を迂回させるなどの方法も考えられることから、元々のルートそのものではなかったのかも知れません。

「現地略図」では三の曲輪、「群馬の城30選」では2の郭南部の郭
凸8 「現地略図」では三の曲輪
 「ぐんまの城30選」では2の郭南部の郭とその切岸で、現地の略図では東側の大手方面から空堀(横堀)を2本越えて、この郭の画像の真ん中よりやや上辺りにルートを設定しているようです。この郭の手前側は普通に歩けそうですが、その向こう側の空堀方面は物凄い竹藪となっておりほぼ視界が効きませんでした。

ゴミは持ち帰りましょう
凸9 ゴミは持ち帰りましょう
 主郭南側の腰郭付近に散乱していたコピーで、「ぐんまの城30選」および「県別マップル(たぶん)」をコピーしたもののようです。
少し風雨にさらされていたらしく、カラーコピーが幾分色褪せており、たぶん数日間は経過していたものと思われます。
 恐らくは同好の志の方が落としていったものと思われますが、私有地もあることも念頭に置き、文化財保護の観点と今後の見学者への影響も考慮して、「ゴミは捨てない」という最低限度のマナーだけは守りたいものですね。

利根川方面
凸10 利根川方面
 西麓を大きく蛇行を繰り返しながら南流する利根川で主郭上から撮影したものです。画像の左側が南方向となり大きく湾曲した左手の沿岸部が「樽」地区(※この「樽」については、利根川の急流が小瀑をなしており、瀑の古語であるタルミに由来するともいわれています ⇒「角川地名大辞典」より)の集落となります。また、この画像には撮影角度の関係で含まれてはいませんが、有名な白井城は利根川の対岸に所在し、この画像の左外れ方面となるはずです。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)
「関東の名城を歩く 北関東編」(2011/吉川弘文館) ⇒ 出版年も比較的新しく縄張図が掲載されている。
「ぐんまの城30選」(2016/上毛新聞社) ⇒ この時点では最も出版年が新しく縄張図も掲載され前項の資料と共に併読しておくと役立つ。
「群馬の古城 全3巻」(山崎 一 著/2003/あかぎ出版) ⇒ 所在地住所表記にやや誤りがあり情報もやや古くなっている。
「関東一円古城址ハイキング」(2016/新ハイキング社)
「信濃をめぐる境目の城と館 上野編」(2015/戎光祥出版) ⇒ 類書の少ない宮坂氏の労作。

歴史・郷土史関係
「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)
「戦国人名辞典」(2006/吉川弘文館)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「戦国大名家辞典」(2013/東京堂出版)
「日本中世史年表」(2007/吉川弘文館)
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店) 
 中世田留(村)に関する引用のうち「天正6年3月14日 北条氏政による戦国期の感状」(東大史料編纂所所蔵猪俣文書)については近年では黒田基樹氏などの指摘により「天正8年3月14日付」として解釈されている。
 また「加沢記」からの引用として、「天正10年の真田氏の不動山攻略が記されている」という部分についても、あくまでも「天正8年」の誤記(誤植か)であるものと考えられる。
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
 ⇒地侍(地衆)である「南雲衆」に関する記述があり、著者である簗瀬大助氏はそのうち有力な一族として宮田の須田氏と津久田の狩野氏を名を挙げ、真田氏の不動山攻略に寄与したとされるこれら南雲衆に関する記述がある。
「戦国大名」(2014/平凡社)
「戦国関東の覇権戦争」(2011/洋泉社)
「戦国北条氏と合戦」(2018/戎光祥出版)
「増補改訂戦国大名と外様国衆」(2015/戎光祥出版) 白井長尾氏に関する論考及び牧和泉守に関する「石川忠総留書乾」の抜粋などが収録されている。
「両毛と上州諸街道」(2002/吉川弘文館)
「真田街道を歩く 改訂版」(2015/上毛新聞社)
「赤城村誌」(1989/赤城村)
「戦国期上杉・武田氏の上野支配」(2010/岩田書院) 本書を執筆した栗原修氏と上記の簗瀬大輔氏の間では、南雲地衆らの論功行賞として与えられたとされる「信州積」に関して、次のような見解の相違がある。
 栗原修氏については「積」は散在している信濃における知行地を集めるとの解釈を採用している。これに対して簗瀬大輔氏は「上野の戦国地侍」において、「信州積を悪銭ではない正貨として解釈し、相当分の段銭、掛銭などの公事の減免」を指すものであるとしている。

 なお、これとは別に、沼田城攻略の時期については様々な説がある。栗原氏は天正8年における真田昌幸による東上野侵攻に関連して、沼田城攻略を天正8年秋とし、不動山城の攻略については、それ以前の天正8年正月から8月の間として捉えている。
 しかし、一方「ぐんまの城30選」において、不動山城について解説されている飯森康広氏によると、「天正8年秋に真田昌幸が沼田城を奪取し、利根川東岸を南下して不動山城に攻寄せたので須田氏を筆頭とする南雲衆は同城を明け渡して利根川の西岸に退いた」と記している。これについては、文献史料の選択と解釈の相違、或いは真田氏による想定される侵攻ルートの違いなどがその背景に存在するのであろうか。

「真田氏三代」(2009/ミネルヴァ書房) 真田氏による天正7年から天正9年にかけての上野支配の経緯が略述されている。前項の問題について、本書においては当該著者である笹本正治氏によると「天正8年4月、真田昌幸は自ら吾妻衆と旗本を率いて沼田城を攻め、籠城していた沼田地衆の金子美濃守泰清、渡辺左近允、西山市之丞らが投降し、5月4日には沼田城代である藤田信吉も沼田城を昌幸に明け渡し投降した」との旨を記している。

史料、地誌、軍記物
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
 「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)
「上野国志」(毛呂権蔵著/毛呂権蔵著/1974影印本)
「上野志」(上野志料集成1/1917歓呼堂本店※旧世良田小学校蔵書第63号)

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、この不動山城の事例のようにある程度その当時の地形を把握できるという場合もある。
「加沢記」(国立国会図書館デジタルコレクションより ※ダウンロード可能) 天正7年から天正9年までの項に関連する記述が散見される。


更新記録
・2018年10月29日 HPアップ
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