凸 猫は「根古屋」から
その名を猫山城とも。当該名称は恐らく城下の集落などを指す根古屋(根小屋、ねこや)などの音を有した集落が麓に所在し、それが近世以降「当て字」により「根古屋城」が「猫城あるいは猫山城」などへと転じたものと解されるのではないでしょうか。この日は朝方はそれほど暑くは無かったのですが、午後に入り次第に気温が上がり始めました。管理人自身は年齢の方もさることながら、元来が血中酸素濃度が低く、登りと暑さに弱い体質であることもあり、「十二宮神社」方面から登るようなことは避け、多少の藪が想定されたものの登りの少ない東側方面からアプローチすることとしました。
予想していたよりも遥かに藪は少なく、ひたすらに「藪をかき分けて足の裏で地面を確認しつつ進む」というようなことも無かったのは実に幸いでありました。この日最初の棚下砦もそうであったように、山道の斜面には小さな砂岩質の丸石が目立ちます。これに「ドングリ」の実が混じっていることも加わり、さほどの斜面でなくとも足場は滑りやすいようにも感じました。ある程度若い方ならば不要かも知れませんが、トレッキング用のストックを1本携行しておりましたので結構役立ちました。
車の方は他の訪問者の皆様方がそうしていたように、未舗装の林道入口の分岐付近にに停めさせていただきました。舗装道路から小さく分岐している、この林道はかつては猫山のピークを迂回して宮田方面へと降りるようなルートであったものと思われるのですが、現在では人は通行できるものの、車による通行はその幅員と路面の状況から見てまず不可能な印象でした。
「城跡標柱の所在がやや分かりにくいという」ような事前情報もありましたが、4月上旬という時期でもあることから下記画像のように西峰の主郭南斜面に厳然として所在しておりました。尤も元々斜面に設置されいることとに加えて、設置後20年以上を経過していることもあるらしく、ややぐらつき幾分斜面側に傾きだしておりました。ここで折角なので標柱を安定をさせるべく全体重(約88Kg)をかけてみますと、約2cmほどは沈みこんだことから、やはり風雨や降霜などの影響により少し浮き出し始めていた模様でした。もののついでなのでに周辺の土を足で踏み固めておいたのですが、正直なところこの先どれくらいの期間持つのかどうかは些か不安も残りました。
帰路はいちおう大手筋ともされている十二社からのルートの様子を調べようとしてみたのですが、思いのほか山頂部の倒木等が障害となって先に進めず結局断念をしました。なお「日本城郭大系」掲載の概要図は山頂部の小さな盛り上がりを過大評価している傾向があるように思われます。最高地点である東郭側では事実上は2段の切岸から構成され、主郭とされている西側では北辺部の腰郭が記されていないなどある程度の相違があるようにも感じられました。
また比高差は林道分岐からは下って登るものの約30mほどのようで、これに西峰でのアップダウンや帰路の分を加えても累計にして60mには届かないので頗る体には良いようです (^^ゞ
( 2018/10/18 )記述
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猫城の遠景(林道の分岐付近から) −画像A−
( 2018年4月5日 撮影 )
凸東郭までは直線で約200mほどの地点から撮影しています。また、少し藪漕ぎするようにも見えるのですが、晩秋から早春くらいの時期までならば通行にはほとんど支障は無いように思われます。この山容から見ても気がつくのですが、南北方向にそれぞれ谷筋が刻まれているとはいえ、反対側の南側と比べて画像の手前側である北麓はこのように比較的傾斜が緩やかな個所が多く、必ずしも天然の要害とは言い難い地形でもあります。
堀切 −画像B−
( 2018年4月5日 撮影 )
凸東西の郭を分かつ堀切で西郭からみてすぐ東側の部分です。崩落と埋没の影響を感じますが、目測で深さは西郭側で約1m、東郭からの尾根伝い側で約3mほどを測ります。
西郭の標柱 −画像C−
( 2018年4月5日 撮影 )
凸西郭に設置されている史跡標柱で、「本丸」の旨が記されています。おそらく「日本城郭大系4」の記述(山崎一氏による)を引用しているものと思われます。
国土地理院航空写真より編集加工 −画像D−
( 2018年4月 編集加工 )
凸画像中央部の黄色の太線で囲んだ辺りが猫城となるものと考えられます。当サイト管理人がアプローチしましたのは「登り口」と記した林道の分岐から「道」と記したルートを少し下ります。するとすぐ鞍部のような地形に出会いますのでここで二手に分かれた道の右側(斜面の方)を登って行きます。
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