群馬県内の城館跡目次
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 素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。
群馬県の城館索引へ戻る 猫城の遠景 猫城のロゴ 猫城の標柱
1歴史・伝承  2残存遺構  3訪城記録・記念撮影  4アルバム  5交通案内  6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2018年4月5日のブログ 棚下の砦 宮田の寄居 猫の寄居
所在地
 群馬県渋川市赤城町敷島城山1160ほか(「マッピングぐんま」より)
歴史、人物、伝承

呼称について
 城館名表記自体については主に「猫城」「猫山城」の2種類が確認され、このためか他サイトなどにおいても必ずしも一定していないようにも見受けられる。そこで当該城館名とその元となると思われる資料について整理してみると概ね次のようになる。なお当サイトでは便宜上から使用例の多い「猫城」を採用することとした。
 「猫山城」−−−「日本城郭大系4」「日本城郭全集3」
 「猫城」−−−−「赤城村誌」「マッピングぐんま」「群馬県の中世城館跡」(ただし「猫山城」も併記)「群馬県の中世城館跡」「上毛古城塁址一覧」「現地文化財標柱」

「日本城郭全集3」ではこの他に「猫屋敷」(「吾妻記」からの誤用か)ともいうとしている。しかし同書の指摘を待つまでも無く、「猫」は「根古屋」(根小屋)の転訛であると考えらることから、一般に公開されているその縄張りの特徴から「恰も猫の目」のような印象を受けるということとは全く無関係であるらしい (^^ゞ

都丸一族が拠ったとも
 「赤城村誌」の記述によれば、「加沢記」「吾妻記」などの記述から白井長尾家(関東管領山内上杉家重臣)に属した東廻十騎と称したともいわれている当地の土豪である都丸氏(戸丸氏)の居館とされる「猫の寄居」が、北北西約1kmの地点に所在しているが、「猫城」の方は現在も都丸姓の方が継承する山林であり、東西2郭を核とした遺構の残された山城である。
 「加沢記」の記述によれば、天正10年6月下旬に沼田城代である矢沢頼綱(真田氏一族で重臣)の命により、金子美濃守、中山右衛門尉らがこの猫城を囲んだが、白井城を本拠とする白井長尾氏家臣である牧和泉守らが伏兵によりこれを退けたとのことである。無論後世に編纂され先祖の武名を顕彰する傾向の散見される「加沢記」ではあるが、この天正10年(1582)6月下旬は武田氏の滅亡に続き、織田信長の横死と明智光秀の敗死があり、後には「天正壬午の乱」とも称されることとなる関東の大乱という背景もあり、豊臣秀吉による統一政権樹立以前の一時的に中央権力不在となった時期である。
 そうした間隙をぬって一躍戦国大名化を目指す真田氏の策動や後北条氏の北進政策などにより軍事的緊張関係が深まってゆくというなかでの出来事である。登場する人物などの詳細な事実関係は別としても、その当時における混沌とした上野地域の政治情勢を伝える内容であるものと考えられる。
 ただし、実際のところ「加沢記」に記された「猫城責」の記述が、「牧和泉守による伏兵という戦術」の真偽を含めて、この山城である「猫城」を指すものか、あるいは西麓の「猫の寄居」を指すものであるのか些か不明な部分も多いように思われるのだが果たしてどうなのであろうか。

確認可能な遺構
 標高約340m、比高差約110m(西麓の集落から、東側林道からの比高差は約30m)
 郭、腰郭、堀切、低土塁(一部)?ほか
 虎口は十二宮からの大手筋と推定されているが現状では不明であった
文化財指定
 なし、但し「赤城村歴史散歩の会」による標柱が主郭部に所在している
訪城年月日
 2018年4月5日 11時25分から12時20分
訪城の記録 記念撮影

 猫は「根古屋」から
 その名を猫山城とも。当該名称は恐らく城下の集落などを指す根古屋(根小屋、ねこや)などの音を有した集落が麓に所在し、それが近世以降「当て字」により「根古屋城」が「猫城あるいは猫山城」などへと転じたものと解されるのではないでしょうか。この日は朝方はそれほど暑くは無かったのですが、午後に入り次第に気温が上がり始めました。管理人自身は年齢の方もさることながら、元来が血中酸素濃度が低く、登りと暑さに弱い体質であることもあり、「十二宮神社」方面から登るようなことは避け、多少の藪が想定されたものの登りの少ない東側方面からアプローチすることとしました。
 予想していたよりも遥かに藪は少なく、ひたすらに「藪をかき分けて足の裏で地面を確認しつつ進む」というようなことも無かったのは実に幸いでありました。この日最初の棚下砦もそうであったように、山道の斜面には小さな砂岩質の丸石が目立ちます。これに「ドングリ」の実が混じっていることも加わり、さほどの斜面でなくとも足場は滑りやすいようにも感じました。ある程度若い方ならば不要かも知れませんが、トレッキング用のストックを1本携行しておりましたので結構役立ちました。
 車の方は他の訪問者の皆様方がそうしていたように、未舗装の林道入口の分岐付近にに停めさせていただきました。舗装道路から小さく分岐している、この林道はかつては猫山のピークを迂回して宮田方面へと降りるようなルートであったものと思われるのですが、現在では人は通行できるものの、車による通行はその幅員と路面の状況から見てまず不可能な印象でした。
 「城跡標柱の所在がやや分かりにくいという」ような事前情報もありましたが、4月上旬という時期でもあることから下記画像のように西峰の主郭南斜面に厳然として所在しておりました。尤も元々斜面に設置されいることとに加えて、設置後20年以上を経過していることもあるらしく、ややぐらつき幾分斜面側に傾きだしておりました。ここで折角なので標柱を安定をさせるべく全体重(約88Kg)をかけてみますと、約2cmほどは沈みこんだことから、やはり風雨や降霜などの影響により少し浮き出し始めていた模様でした。もののついでなのでに周辺の土を足で踏み固めておいたのですが、正直なところこの先どれくらいの期間持つのかどうかは些か不安も残りました。
 帰路はいちおう大手筋ともされている十二社からのルートの様子を調べようとしてみたのですが、思いのほか山頂部の倒木等が障害となって先に進めず結局断念をしました。なお「日本城郭大系」掲載の概要図は山頂部の小さな盛り上がりを過大評価している傾向があるように思われます。最高地点である東郭側では事実上は2段の切岸から構成され、主郭とされている西側では北辺部の腰郭が記されていないなどある程度の相違があるようにも感じられました。 また比高差は林道分岐からは下って登るものの約30mほどのようで、これに西峰でのアップダウンや帰路の分を加えても累計にして60mには届かないので頗る体には良いようです (^^ゞ
( 2018/10/18 )記述
猫城の遠景
猫城の遠景(林道の分岐付近から) −画像A−
( 2018年4月5日 撮影 )
凸東郭までは直線で約200mほどの地点から撮影しています。また、少し藪漕ぎするようにも見えるのですが、晩秋から早春くらいの時期までならば通行にはほとんど支障は無いように思われます。この山容から見ても気がつくのですが、南北方向にそれぞれ谷筋が刻まれているとはいえ、反対側の南側と比べて画像の手前側である北麓はこのように比較的傾斜が緩やかな個所が多く、必ずしも天然の要害とは言い難い地形でもあります。

堀切
堀切 −画像B−
( 2018年4月5日 撮影 )
凸東西の郭を分かつ堀切で西郭からみてすぐ東側の部分です。崩落と埋没の影響を感じますが、目測で深さは西郭側で約1m、東郭からの尾根伝い側で約3mほどを測ります。

西郭の標柱
西郭の標柱 −画像C−
( 2018年4月5日 撮影 )
凸西郭に設置されている史跡標柱で、「本丸」の旨が記されています。おそらく「日本城郭大系4」の記述(山崎一氏による)を引用しているものと思われます。

国土地理院航空写真より編集加工
国土地理院航空写真より編集加工 −画像D−
( 2018年4月 編集加工 )
凸画像中央部の黄色の太線で囲んだ辺りが猫城となるものと考えられます。当サイト管理人がアプローチしましたのは「登り口」と記した林道の分岐から「道」と記したルートを少し下ります。するとすぐ鞍部のような地形に出会いますのでここで二手に分かれた道の右側(斜面の方)を登って行きます。

訪城アルバム
林道の分岐点
凸1 林道の分岐点―アプローチの方法
 上越線と並行している県道255号線から旧赤城村役場(現渋川市赤城行政センター)手前の市道(郵便局の南側の市道)を東へと入り、九十九折の舗装された道をそのまま道なりにぐんぐんと距離にして約800mほど登って行きます。なお、途中の十二宮神社近くからは大手筋にあたる細い登り道もあるのですが、このあたりからですとその比高差は80m前後となりますので、今回はパスいたしました (^^ゞ
 関越道の手前約250m地点あたりに、この未舗装の林道への分岐があります。道路の進行方向右手(南側)に上記画像Aの小さなピークが目に入りますので、これが猫城の東峰(東郭)に相当し、赤色の矢印の方向に向けてこのガードレールの切れ目から徒歩で進んでいきます。(上記画像右上のうっすらと見える山が東郭で直線距離にして約200mほど)

Y字路
凸2 Y字路
 画像左のみちは宮田集落方面へと続いている里道のような林道で、城跡へは右側の尾根筋を直登しますが、山道も明確で迷うようなことは無いと思われます。
 なお舗装された市道からも近く、東側約250m地点には関越道が南北に縦断している地域ではありますが、時期によりクマなどの大型野生生物が出没する可能性はゼロではありませんので、この点はくれぐれもご注意願います。
 実際、この日の夕刻にはここから南へ約1kmに所在している不動山城で切岸をよじ登っている最中に2頭のニホンカモシカに出会いました。

尾根筋の直登ルート
凸3 尾根筋の直登ルート
 尾根筋の直登ですが、比高差は約30mほどしかないので、お若い方には楽勝かも知れませんが、そこそこ齢を重ねてしまっている管理人は直ぐに息が切れてしまいました (^^ゞ
 足元は枯れ枝などは少し散乱してはいますが、歩きやすい明確な登攀ルートでありました。

あと少し
凸4 あと少し
 残りあと比高差数mほどで息切れしたので、水分補給にあわせて小休止。この辺りまでは前方に切落し気味の地形が見えてはいるものの、ほぼ自然地形の様相でした。

腰郭地形
凸5 腰郭地形
 東郭下段の腰郭地形で主に北東側に展開していました。画像左上の斜面は東郭の中核となる2段目の郭の比高差3m前後はある切岸地形で、この辺りまで登ってくると城内の東端部になるようです。

腰郭と切岸
凸6 腰郭と切岸
 「日本城郭大系4」に掲載されている東郭の「要図」とは幾分様相が異なり、このように部分的には2段となっているようにも見えます。

腰郭の段差
凸7 腰郭の段差
 東郭の最下段となる腰郭も、手前(西)に向って段差を有しており、この角度から俯瞰してみるとかつては「横堀」(北方の防御ライン?)であったのかもしれないというような印象もありました。
 東郭には先ほどの尾根筋直登ルート経由では虎口の所在が不明であることから、あくまでも現在の地表の様子から想像する限りでは、本来はこの画像の左下辺りから入城するようになっていたのかも知れません。

東郭の上部
凸8 東郭の上部
 枯木と倒木が目立ち余り見通しは効きませんが、主郭と推定されている西郭よりも20m以上高いことなどから、山崎氏は「一城別郭」との性格付けをされています。

東郭
凸9 東郭
 東郭上にはほぼ土塁の形跡は見当たりませんが、郭の南端部にこのような土壇が築かれております。郭面との比高差は現状では1m前後と低く、積極的な防御施設であるという印象はなく、あまり目立たないことから季節によっては見過ごしてしまうような高まりです。
 なお、「日本城郭大系4」には東郭は3段の郭から構成されているように記されていますが、このやや地味な低い土壇部分を含めますと、確かに3段からなる郭を構成しているということになるようです。また、同様の土壇は西郭の主郭部にも存在していることから、この山城における縄張の特徴でもあるのかも知れません。

東郭から西郭方面へ
凸10 東郭から西郭方面へ
 東郭から西郭への移動は細尾根伝いに西へと下りますが、東郭の西側切岸は予想よりも高く本来は遥かに急傾斜であったことが考えられます。移動距離は僅かに数十メートルほどなのですが、それでも比高差にして25m前後はありますので、この日5か所目(山城3か所目)という事情も重なり、往復しますとなかなかの運動となりました。
 特に明確な道と呼べるようなものはありませんが、尾根筋は比較的開けた地形で、3分も歩けば迷うことなく西郭へと到着します。

西郭
凸11 西郭
 本丸ともいわれている山城の主郭部です。

西郭と腰郭
凸12 西郭と腰郭
 画像右側のように主郭部より一段低い腰郭状の地形が現存しています。これは北側の緩斜面地形を意識した縄張であることの証左のひとつであるとも考えられます
 なお、この地形は「日本城郭大系4」に収録されている「要図」には記されてはおりません。恐らくは、その当時は灌木が生い茂り余り見通しが効かなかったことが考えられます。

西郭西側の堀切
凸13 西郭西側の堀切
 堀切の深さは現状では画像左で1m、画像右の西郭側で2mと大分埋没しているという印象があります。

南西の郭
凸14 南西の郭
 城跡の西端部に位置する南西の郭には、その東から北側にかけて何やら低土塁らしき形跡が目視できるのですが、このデジカメ画像では全く再現できてはおりません (^^ゞ

猫城の標柱 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸15 猫城の標柱
 現地の標柱ですが、画像編集の都合上から全く説明文が見えません⇒画像クリックで拡大しますので原文をご参照願います <(_ _)>

十二宮神社
凸16 十二宮神社
 城跡へと向かう市道沿い北側に鎮座し、ここからもう少し市道を登った個所からは南の大手筋へと向かう山道の入口がありました。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)

歴史・郷土史関係
「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)
「戦国人名辞典」(2006/吉川弘文館)
「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)
「戦国武将合戦事典」(2005/吉川弘文館)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「日本中世史年表」(2007/吉川弘文館)
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
 ⇒地侍(地衆)である「南雲衆」に関する記述があり、著者である簗瀬氏はそのうち有力な一族として宮田の須田氏と津久田の狩野氏などを名を挙げている。しかしこの猫城と戸丸氏の関わりなどについては論述されてはいない。(※同書169から178頁)
「戦国大名」(2014/平凡社)
「戦国関東の覇権戦争」(2011/洋泉社)
「戦国北条氏と合戦」(2018/戎光祥出版)
「上杉憲政」(2016/戎光祥出版)
「増補改訂戦国大名と外様国衆」(2015/戎光祥出版)
「赤城村誌」(1989/赤城村)
 同書によれば、その形態について「東西約200m、最大幅50m、並郭式、尾根を数条の濠で切って、郭を形成した山城で、土居はない」との記述が掲載されている。しかし南西部の小郭には低土塁跡と思われるような形跡も確認される。
 また、歴史的経緯については、「戦国時代中期に築かれ、附近に住んだ東廻十騎の一人戸丸氏(都丸氏)の居城と思われる。地名の猫は、この城山下にあった根小屋の転訛である。「加沢記」に「天正10年6月下旬、長尾領分津久田(郷)猫□□の要害には長尾一井斎(長尾憲景か)の家臣牧和泉守、樽の要害には子息弥六郎楯籠」とあるので、天正10年(1582)頃には牧和泉守(もく/いずみのかみ)に預けられていたものであろう」との説が述べられている。これは武田氏から独立した真田氏勢力が、後北条氏に支援された白井長尾氏の領国に対して侵攻した折の状況を指すものであろう。
 戸丸氏については、この「加沢記」以外には文献には確認されないようで、地衆の一人とは想定されるもののその詳細は明確ではないようである。また牧氏については渋川市内(旧子持村)白井城の北側にに中世以来の北牧村が所在していることから、その地との関わりが想定されるのかも知れない。なお、戸丸氏の「居城」という説には戸丸氏の領主としての支配地域やその地位などに鑑みると些か疑問の余地がありそうに思われることから、居城というよりもあくまでも戦時における要害としての捉えるべきであるのかも知れない。この辺りの事情については更に考究が必要であろう。

史料、地誌、軍記物
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 ⇒諸国廃城考、諸国城主記、主図合結記を所収本
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
 「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。

「加沢記」(国立国会図書館デジタルコレクションより ※ダウンロード可能) ※当該関連個所を下記に示す
 「猫城責並中山右衛門討死、牧弥六郎礼儀之事 天正10年6月下旬、長尾領分津久田(郷)猫□□の要害には長尾一井斎(長尾憲景か)の家臣牧和泉守、樽の要害には子息弥六郎楯籠りければ頼綱公(矢沢頼綱)下知有て本備金子美濃守、恩田越前守、下沼田豊前守(以上沼田衆か)、発地左衛門五郎、中山右衛門尉(中山衆の一族か)、武者奉行塚本肥前守、高橋右馬允、都合千余騎(以下略)」との記述が見られるが、恰も「太平記」などに通じる「軍記物」としての言い回しを感じる個所も散見されることから、そのまま史実として理解するには慎重さを求められるものと考えられる。

県内各市町村の公式HPなど


更新記録
・2018年10月18日 HPアップ
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