群馬県内の城館跡目次
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 素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。
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1歴史・伝承  2残存遺構  3訪城記録・記念撮影  4アルバム  5交通案内  6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2018年4月5日のブログ 長井坂城 阿阻城 
所在地
 群馬県渋川市赤城町長井小川田鈩戸
歴史、人物、伝承

上杉謙信築城?との説も
 当該城館名については「棚下」の地名が付されているが、当該所在地は棚下の南に隣接する長井小川田である。この所在地表記については「マッピングぐんま」(旧/群馬県文化財データベース)に収録されている文化財情報を参考にしている。
 城館名表記自体についてもいくつかあることから、城館名と元資料について整理してみると次のようになるが、当サイトでは便宜上から「棚下の砦」と表記している。
 ◎「棚下の砦」−−−−「日本城郭大系」「群馬県の中世城館跡」
 ◎「棚下砦」−−−−−「赤城村誌」「マッピングぐんま」「発掘調査報告書第12集」
 ◎「南雲御殿」−−−−「マッピングぐんま」「発掘調査報告書第12集」
 ◎「棚下の御殿の砦」−「現地の史跡標柱」(旧/赤城村歴史散歩の会設置)
 ◎「棚下の寄居」−−−「北条景広宛上杉輝虎書状」(年未詳であるが永禄10年と推 定されている3月26日付の書状、奈良原文書/群馬県史資料編  第7巻) 
 これについては、厩橋城主北条高広の子である同人に充てた上杉輝虎(後の上杉謙信)の書状であり、この記述があることから上杉謙信との関わりを想起されているものと考えられる。なお、棚下にはこの砦以外には他に城館跡の存在は確認されておらず、この書状に記されている「棚下之寄居」が当城館これに比定されるのは当然であるように思われる。(※「戦国期城館群の景観」)

遺構の立地と現状
 赤城山西麓の利根川支流となるケヌキ沢(北)と鈩沢(たたらざわ、南)の深い谷に挟まれた細尾根の西端部に所在しており、西方の利根川沿いは切り立った断崖を形成している。直線にして北方約1.3km地点には長井坂城(群馬県史跡指定)が所在している。このため周辺には長井坂城へと向かうための案内標識が目立つが、その一方で当該城館に関する案内標識の類は現地主郭部の標柱を除き皆無である。
 遺構は主郭、馬出、東の郭、堀切(堀)、帯郭などが現存しているが、城域の東部については林道整備などにより郭、堀切などが消滅している状態にある。

歴史的な背景など 
 近代以降とは異なり、近世以前における沼田方面へと向かう主たる街道は赤城山西麓の崖上を谷筋を迂回しつつ通過していたものと推定されている。そうした背景から沼田城と厩橋城との間を繋ぐ役割を有していたとの説も提示されているが、戦国時代の永禄から天正にかけては越後上杉氏、真田氏(武田氏)、後北条氏の三者による争奪が繰り広げられていることから、寧ろ築城に関する詳細な経緯については不明であると云うべきであろうと考えられる。(※「角川日本地名大辞典/群馬編」棚下の項参照)また、寧ろ「棚下の寄居」という文言が記された上記の「上杉輝虎書状」の信憑性を信頼するとすれば、元々は当地における地侍層(宮田衆須田氏、あるいは津久田衆狩野氏などの南雲衆と称される地侍の一揆的結合)による「寄居」が改修整備されたものである可能性も考えられるのだが、他に史料も無いと云われていることもあり推測の域を出るものでは無い。
 尤も戦国期の天文年間以降についてその上位権力で捉えれば、大まかに「山内上杉氏」(上杉憲政の平井城在城中まで)⇒「越後上杉氏」(上杉憲正が越後へと脱出した天文年間から遅くも天正7年頃まで)⇒「真田氏」(天正8年を軸とした一時期)⇒「後北条氏」(天正10年末から天正18年頃廃城?まで)という流れに沿うことは長井坂城を含む他の周辺の城館と同様であるものと推察する。

確認可能な遺構
 標高約430m、比高差約170m(※利根川岸部から、林道からはほぼ無−「電子国土」)
  郭、堀、土塁、馬出ほか
文化財指定
 なし、但し「赤城村歴史散歩の会」による標柱が主郭部に所在している
訪城年月日
 2018年4月5日 午前8時45分から9時45分
訪城の記録 記念撮影

 尾根筋はどこだ?(長い前置き)
 なんと4月2日に続いて2日おきの城館探訪でした。ある程度気力と体力がありそうに感じられ、天候がまずまずであれば即座に出かけるという以外の選択肢はありません。とはいえ目的地が群馬県渋川市(旧赤城村)方面ですので、拙宅からは上武道路が延伸されているとはいえ片道約120kmであることから、一般道利用では通常約3時間半前後と予想される道程です。このため今回は朝方の渋滞混雑を避けるべく、早朝の午前5時前に自宅を出発することとしました。 今回はいちおう5か所を予定したが、うち平地の2か所は時間に余裕があれば立ち寄るというも 今回の城館探訪は、あくまでも3か所の山城が中心となります。幸いにして現地に到着したのは早朝の走行ということもあり、途中2度の休憩を挟んだにもかかわらず午前8時には現地付近に到達していました。 ところが昨年訪れた長井坂城の近くであるにも拘らず、現地ではその目的地探しに40分ほどを費やすこととなってしまいました。他の方のネット情報などにもあるように農道や高速道路の側道やらが複雑に入り組んでおり、なかなか即座には到達できにくい所在地のようです。もっとも現地の地形や高速道路の位置などに鑑み、なかばヤマ勘を働かせて訪れた当初の場所が結局のところ最も該当地に近接していたのですが、付近の道路が複雑に配置されているようでこのような仕儀となりました。無論カーナビのガイドは農道などの道路事情も正確には反映されておらず、余りあてにはできなかったこともありました。これほどに迷ったのは多分初めてのような気もするくらいです。

 ようやく本題です
 さて肝心の城跡は関越道のすぐ西側の東西に伸びる尾根筋に所在していました。定石通りに北側の尾根筋基部からアプローチしましたが、関越道東側の林道が谷筋を超えるべく大きく南西方向にカーブした個所が城跡への入口でした。しかし長井坂城のような入口の案内板などは全くありません。強いて言えば関越道西側に所在するやや小ぶりの送電線鉄塔が目印なのかも知れないのですが、遠くからでは全く目立ちません。
 車は本来の林道から西へと分岐した路肩へと停め、やや荒れ果てた感じのする舗装済の林道を道なりに約100mほど進みます。するとその林道は180度方向を変えて再び東側の関越道側へと戻ってしまいます。このためこの林道からは外れ、そのまま目の前の踏み跡程度の樹林帯を西へと前進します。なお、近年まではこの林道から真直ぐに西へと延びる踏み跡が存在していたようですが、周辺の樹木伐採によりかなり見通しは良くなっているものの、現在当該踏み跡は伐採された樹木が林道道路上に広がりそのまま進むのは困難となっていました。無論よくよく見れば2か所ほどの新しい踏み跡が確保されているので、何れかをそのまま西に進めば約50mばかりも歩くと東側の二の郭と馬出との間の堀跡に到達してしまいます。
 城館としての見どころはこの堀跡と馬出のほかに標柱の所在する主郭などがあります。なお、主郭西側下の小郭はそのまま利根川の崖線部先端となっており断崖の比高差は明らかに約100m以上を有すしています。かつては棚下不動堂方面からの登攀ルートも存在していたらしいのですが、斜度、斜面状況、足場の悪さなどから見るかぎりでは全く降りてみようという気にはなりませんでした。比高差はアプローチが林道からの下り道なので事実上ゼロであり、いくら堀跡や切岸の登りを累計しても20mには届かないというのが嬉しいものがあります ^^
( 2018/4/30 )記述
堀跡
堀跡 −画像A−
( 2018年4月5日 撮影、以下同じ )
凸いきなりその姿を現す堀跡です。いちおう山城の部類に入ることから堀切といってもよいのですが、対岸には馬出があり、その向こうに主郭部が続くという変わった形ではあります。単純に直線的な堀切ではなく尾根筋を斜め方向に掘削して、しかも半円形の馬出の存在により結果的には弧を描いた形となっています。

東郭の西端部
東郭の西端部 −画像B−
( 同前 )
凸近年の林道建設などにより一部遺構が失われてしまい、その現状からは余り工夫が感じられない東の郭ではあるのですが、主郭部にほど近い西端部になると俄かに城跡らしい普請がそこかしこに現れてきます。前項の画像Aでも堀切られた平面形状が弧を描いていますが、この西端部の北側でも東郭の一部がそのまま西側方向に細く伸びて恰も土塁状の地形を呈しています。砦跡の尾根筋は東西方向に伸びていますが、その南北には深い鈩沢やケヌキ沢の谷が所在しているため、南北方向からのアプローチはほぼ困難ではないかと考えられます。この土塁状地形の北側下方には腰郭状の削平地があり、この堀切地形はその腰郭地形の西側でやや浅めの竪堀状地形へと続くようになっています。

城 
堀切 −画像C−
( 同前 )
凸画像右側が土塁のある馬出の切岸で、左側は東郭の切岸に相当し、堀幅も広くともに深さは4mほどですが、この規模の城館としては規模の大きな堀切地形です。

主郭東側の堀
主郭東側の堀 −画像D−
( 同前 )
凸主郭東側の堀跡(堀切)で桝形のようにも見えますが、些か広すぎるようにも思える地形です。画像左側が馬出の切岸、画像右側が主郭切岸となり、二つの郭は奥に見える細い土橋状の地形により繋がっています。

馬出
馬出 −画像E−
( 2018年月日 撮影 )
凸東側堀切(画像の奥)の前面に土塁を伴った馬出と考えられている部分です。この画像からは分かりにくいのですが、削平地としての規模は小さく仮に長柄の槍を携行しているとすると多くとも数人程度が守りに着くくらいの広さしかありません。但し、堀切の対岸に正対するとともに、主郭部虎口を主郭側土塁部と両側から囲む形であることから有効な防御効果を果たしていたであろうことが想像されます。

主郭の標柱
主郭の標柱 −画像F−
( 2018年月日 撮影 )
凸「史跡」と明記されてはいますが、合併以前当時の「赤城村歴史散歩の会」により設置された標柱で、合併後現在の渋川市での史跡指定はされてはいない模様です。そうした行政上の経緯は別として、一般にはあまり知られてはいない山城跡にこうした標柱が存在していること自体がたいへん有難いものを感じます。

主郭から馬出
主郭から馬出 −画像G−
( 2018年月日 撮影 )
凸主郭部の東側土塁上から馬出とこれに続く細い土橋状の地形を眺めている構図です。今回50枚ほどの撮影のなかでは管理人が最も気に入っている画像であります ^^

利根川の大蛇行
利根川の大蛇行 −画H−
( 2018年月日 撮影 )
凸西崖下を大蛇行する利根川を俯瞰した画像です。眺望は正しく絶景ですが、この地を訪れる方は一般には余り知られていないこともありそう多くは無いものと思われます。無論安全柵や転落注意などの表示もない私有林の断崖ですので、あくまでも自己責任でおいでいただくことととなります。下記画像の16とほぼ同様の位置から撮影していますが、あと50cm進みますとそのまま崖下へと転落する恐れがありました (^^ゞ
訪城アルバム
武尊山方面
凸1 武尊山方面
 この時点ではまだ正確な所在地が判明しておらず、路肩に停車してあれこれ試案をしている最中に、城跡北方の耕作地から撮影したものです。まだこの時期は2000m級の高山方面はしっかりと冠雪していました。
 なお、自分の場合には国道17号線を北上して、棚下の砦からは北西約1.5kmに所在する利根川に架かる綾戸橋を渡りこちらへと向かうルートをとりました。

関越自動車道
凸2 関越自動車道
 画像左のカーブしている林道は大きくカーブを繰り返しながら南へと向かっています。城跡へはこの個所から右側(西側)に分岐する舗装済みの林道を歩いていきます。自分のはご覧のような軽なので、林道分岐近くに停めさせてもらいました。
 なおこの分岐した林道は、この時点では伐採樹木のために途中で車の通行は不可能となっていました。

高架下
凸3 高架下
 関越自動車道の高架下です。東日本大震災以降に所要の橋脚補修工事が行われているように見受けられますが、こうした幾何学模様にも見える無機的な構造物は結構見ていて飽きません。
 なお砦跡は画像の右方向となります。

砦跡へ向かう林道
凸4 砦跡へ向かう林道
 先ほどの林道の分岐からはこの林道を道なりに進みますが、僅か100m足らずで、この先にある大きくU字にカーブしている個所に着きます。

U字カーブ
凸5 U字カーブ
 西方向に向かっていた林道は大きく向きを変えて今度は東方向へと戻っていきますが、この時点ではご覧のような状態ですので事実上の通行止め状態となっていました。

東方向の様子
凸6 東方向の様子
 先ほど歩いてきた東方向の様子で、関越自動車道の高架橋も見えます。

砦跡への入口
凸7 砦跡への入口
 少し以前の踏み跡はこのような塩梅で通行不能状態となり、恰も坂茂木の準備中のような感じとなっていますが、比較的新しい踏み跡が確保されておりました。このルートを踏み跡に従い、木々の枝などを避けながら遺構の存在している西方向に進んでいきます。

少し藪です
凸8 少し藪です
 この砦跡に来ようなどと思われる方からしますと、藪とは云えないような可愛い藪がありますが、足元やノイバラなどの有刺植物に気を付けていさえすれば直線距離で数十メートルも歩くと堀跡の個所へと到達します。
 むろんこのような感じであることから、夏期の探訪には草木が繁茂することから向きませんので、一般には11月から3月頃までが理想ではないかと思います。ただし冬季には常時積雪はありませんが、気温はやや低めであることから途中の林道などでの路面凍結の可能性はありますので、冬タイヤやチェーンの必要を感じます。また降雪直後や極寒の時期は避けた方が良いのかも知れません。
 なお、幸いにしてこの時には出会ってはいませんが、ツキノワグマなどを含む大型野生生物はそれなりに生息しているようですので、あくまでも自己責任でおいでくださいませ <(_ _)>

東郭
凸9 東郭
 主郭の東側の郭はこのような感じて、あまり丹念には削平されているという印象はありません。元々の地形が赤城山西麓の利根川に面した細尾根であることも影響しているのかも知れません。画像奥(東側)から手前の方向(西側)にかけて緩やかな斜面となっています。

馬出北側の帯郭地形
凸10 馬出北側の帯郭地形
 帯郭というよりも、どちらかと云えば踏み跡に近いようなおぼろげな地形ですので、果たして城館遺構と判断すべきかどうか迷います。

主郭虎口付近の堀底
凸11 堀跡
 主郭虎口付近の堀底で、桝形にも見えなくもないのですが、画像左側の馬出部分の規模と対比すると大きすぎるような感じもしますがどうなのでしょうか。

主郭
凸12 主郭
 主郭部にはきたと東に笹に隠れながらも低土塁を確認できますが、郭自体の削平自体は徹底されているとは言い難い印象を抱きました。またご覧のように笹が伸び始めていますので、地表部の観察には幾分もどかしさも感じます。

凸13 標柱
 平成8年(1996年)に当時の「赤城村歴史散歩の会」により設置された城跡の標柱です。

帯郭
凸14 帯郭
 主郭南側の帯郭状の地形で、この個所をそのまま道なりに進みますと尾根筋先端部へと到達します。

主郭西端部
凸15 主郭西端部
 この画像の左側の帯郭が画像13に写っている地形です。なお背後の地形は次の画像16で、利根川との比高差約150m以上となる断崖に行き当たります。

尾根筋先端部
凸16 尾根筋先端部
 手前の白っぽい岩のある部分が尾根筋の先端部で、その先はほぼ垂直の断崖ですが、特に転落防止のための柵や注意書きはありません。あくまでも自己責任ということですね。因みに利根川の対岸に見えている山は名峰子持山の尾根筋になります。
 また強いていえば、かつては搦め手といえなくもないこの画像の左下から下るというルートが存在していたもようですが、現在ではザイルなどを併用しなければ無事には済まない断崖でありました。(※画像19参照)

主郭
凸17 主郭
 帰りがけに主郭の西側を登り元来た林道方面へと戻りました。

堀
凸18 堀
 画像の左側が主郭部の切岸、画像の右手前が馬出の切岸で画像中央部のやや上に見えるのが東の郭の西端部に相当します。こうしてあらためて縄張全体を見回してみますと、矢張りこの辺りが遺構としての見どころになるのではないかと感じました。

棚下不動堂付近から
凸19 棚下不動堂付近から
 崖下となる西麓に所在している棚下不動堂付近から崖線部を見上げた画像です。はっきりとは特定できなかったのですが、おそらくは画像の右上辺りが「棚下の砦」の西端部に相当するものと考えられます。
交通案内

※駐車場所はカーブした林道から西へと入る分岐した林道の路肩付近が無難かもしれません。
※厳冬期路面凍結注意
※クマ出没注意

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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)掲載なし
「日本城郭体系第11巻」(1980/新人物往来社)掲載あり、縄張図あり,但し些か情報が古い。
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)掲載あり、所在地情報あり
「戦国期城館群の景観」(松岡進著/2002/校倉書房) 縄張図あり(1986/11調査)
 ⇒ 「然者棚下之寄居無曲之段候哉、□□(欠損、文字数不明)小屋之義ニ候条不苦候、雖無申遣迄候、其元御堅固之備肝要候、」(超意訳/棚下の寄居は防備などに支障は無いのであろうか、□□(※「もとより」などの字句か)簡素な砦に過ぎないので気にしない、その方の防備を固めることが大事である)との記述が見られる。(「北条景広宛上杉輝虎書状」(年未詳であるが永禄10年と推 定されている3月26日付の書状、奈良原文書/群馬県史資料編  第7巻)) 松岡氏によれば永禄記末年の上杉氏による遺構である可能性も示唆されている。(52から53頁) 但し、同氏の「棚下の寄居を上杉氏方が喪失した」という見解については、「角川日本地名大辞典」が「棚下村」の項において述べているように、あくまでも「棚下の寄居に対する懸念」について述べているものであり、欠損部分もあることから即座には首肯しにくいように思われるのだが、この点については更に検討が必要であろう。

歴史・郷土史関係
「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院) ⇒ 「加沢記」に関する解題あり
「戦国人名辞典」(2006/吉川弘文館)
「日本中世史年表」(2007/吉川弘文館)
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)
 ⇒ 当城館跡の関連地名である「南雲郷」「棚下」「長井小川田」についての解説が掲載されている。
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「両毛と上州諸街道」(2002/吉川弘文館)
「真田街道を歩く 改訂版」(2015/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
 ⇒地侍(地衆)である「南雲衆」に関する記述があり、同書を記した簗瀬氏はそのうち有力な一族として宮田の須田氏と津久田の狩野氏を名を挙げているが、この別名を南雲御殿ともいう棚下の砦との関わりに関しては特に言及されてはいない。(※同書169から178頁)
「赤城村誌」(1989/赤城村)
 ⇒ 築城者、築城年代、城主等すべて不明としつつも、長井坂城の出城説を示唆し、地元では「御殿」と呼称されてい  るとしている。
「南雲御殿遺跡(棚下砦跡)赤城山西麓における戦国時代の山城 赤城村埋蔵文化財発掘調査報告書第12集」(1998/赤城村教育委員会) ⇒ ※現物未確認(要後日調査)
「群馬県史資料編第7巻」

史料、地誌、軍記物
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 ⇒諸国廃城考、諸国城主記、主図合結記を所収本
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
 「上州古城塁記」記述なし
 「上毛古城塁址一覧」
 ⇒ 「棚下の砦 赤城村棚下字御殿 (中略)長井坂城の支城」との記載あり
「史籍解題事典」(1986/東京堂出版)
「上野国志」(1910/毛呂権蔵著/1974影印本)
 ⇒ 勢多郡棚下村に所在する不動堂に関する記述はあるが、当城館に関する記述は見られない。
「上野志」記載なし

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立ち「棚下砦跡、南雲御殿遺跡」として掲載。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。
「加沢記」(国立国会図書館デジタルコレクション ※ダウンロード可能)


更新記録
・2018年4月30日 暫定HPアップ
・2018年5月 5日 参考資料に「赤城村誌」と「戦国期城館群の景観」を追加し関連記述を訂正
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