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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/21のブログ 吉橋城 尾崎城 金堀城
所在地
 千葉県八千代市米本字内宿南
歴史、人物、伝承

村上氏、原氏、里見氏などに関わる拠点的な城郭
 「新撰佐倉風土記」によると「村上氏(古河公方の家臣筋か)が代々の居城としたが、永禄元年(1558)3月13日に城主である村上民部大輔綱清は自害し廃城となったとの伝承があります。また米本の旧家である加茂家には、村上氏所縁の品々等の遺品も所在するとされています。(※「日本城郭全集」より引用)」
 この点について、江戸時代の初期佐倉藩士磯部昌言が編纂した「佐倉風土記」によれば、「村上綱清の墓、米本長福寺にあり、綱清、民部大輔と称す。天文弘治年間(1532-1557)米本城主となり...(以下同文)」とも記され、実際に米本の長福寺に追善供養のものと推定される五輪塔も所在しているようです。
 こうした「落城伝承」について、「八千代の歴史通史編上」においては、綱清自身が天正3年頃までは存命していた可能性を記し、この落城伝承の真偽については疑問を投げかけています。(⇒古河公方足利義氏が天正3年(1575)6月22日付と推定される綱清に宛てた古河城に攻め寄せた小山氏の動向を記した書状の存在から推定したものと考えられます) こうした伝承が遺された背景には、米本城が文明11(1479)年の太田道灌、太田資忠らの臼井城攻略の際の最前線となった可能性のあること、さらに永禄7年(1566)の上杉謙信による臼井城攻め、永禄12年(1569)の安房里見氏の下総侵攻など同城がそれらの攻防の過程で戦火に見舞われた事情を挙げています。

確認可能な遺構
 空堀、土塁、郭、小口
文化財指定
 なし(現地解説板有)
訪城年月日
 2009年3月21日 14時00分から15時40分、2009年4月12日再訪
訪城の記録 記念撮影

 細長い城跡
 主郭と二の郭に相当するとされる遺構の南半分は、高度成長期の土取りによりほぼ消滅しております。それでも北側部分と消滅した南側部分東端には明確な城郭遺構が現存しています。とりわけ城跡南東に細長く残された土塁、切岸部分には最大比高差が20m前後の個所も所在するので、その緩やかな丘陵地帯という外見上からはとても想像できない要害性も隠されています。また後世の削平などにより、土塁幅が実質1mほどの蟻の門渡りのような地形も所在し変化に富んだものとなっています。
 なお、主郭等の部分が消滅する以前の景観が残されている壮大な空堀跡は必見です。堀幅は下記の画像のように余りに広すぎるために事実上目測が困難に近く(推定約20m前後)、主郭部分の切岸の高さは8m以上に及び然も急勾配なので取りつく個所探しに難航。
 また北側の宅地に近い部分には独立した郭が2か所の小口や周囲を取り巻く空堀と共に、形状の上ではほぼ完全な状態でに残存しているように見受けられます。北側には相当に埋まりかけてはいるものの、土橋に隔てられた空堀も現存し南東側には桝形小口と櫓台(推定)状の地形も現存しておりました。

( 2010/03/31 記述 )
米本城主郭(推定)手前の大空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
米本城空堀跡 画像−A−
( 2009/03/21 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「八千代市中世城館址調査報告」(1976)、中近世城館報告書」(正式名称は「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」/1995/千葉県教育委員会)掲載の略測図等を基本に、必要に応じて現地での印象などを加味させていただきました。
(注3)各部の名称については、「八千代市中世城館址調査報告」を元にして記述させていただきました。
米本城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
米本城西側麓(根古屋地区) ⇒ 画像クリックで拡大します
米本城 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 米本城西麓
(1-1)「根古屋」と伝わる米本城西側の麓に残存する民家入口に残存している土塁状地形なのですが、「八千代市中世城館址調査報告」に示された遺構の復元部分と対比した場合には些か整合性を欠くこととなることから、後世の宅地化等により築造されている可能性も考慮すべきなのかもしれません。
(1-2)西側麓より見上げた比高差10m前後を測る「一の堀」西側先端部
(1-3)土橋方面から撮影した「一の堀」先端部
(1-4)相当に埋没している様子が窺える「一の堀」西端部から土橋方面の空堀跡
(1-5)郭としては最も残存状態が良好と思われる三の郭北辺西側部分の土塁
(1-6)米本城北側内宿方面で目を引く地元旧家の敷地境等に遺されている高さ2mを超える土塁地形
(1-7)同じく米本城北方内宿方面の土塁の断面画像
 
凸2 米本城北部の土塁
(2-1)画像中央部分の盛り土が、文左衛門家(屋号)の南側宅地境に残存する延長50mほどの土塁地形です。
 一方画像の左側部分は、現状では一辺が凡そ50mほどの三角形状の低地(土塁との高低差約2m)を形成していますが、具体的な用途を掴みづらい地形となっています。なお、「八千代市中世城館址調査報告」の略図によりますと、井戸跡の存在を示唆するような記号が記されております。

(2-2)この時点では経年劣化が目立ち、かなり見辛い状況となっていた現地解説板

(2-3)解説板の先に残存する土塁及び櫓台の存在を想定したい人工地形
 

「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 米本城小口付近
(3-1)米本城のほぼ中央部分に所在している郭ですが、この南側から主郭部(推定)にかけて土取り(1967年)とその後の宅地化等により大きな地形改変が加えられているものと思われます。主郭及び2の郭と推定されている個所は東側と南側の一部を除き事実上消失しています。

(3-2)三の郭北東角付近の土塁乃至は櫓台状地形
(3-3)二の郭北辺東部の土塁跡乃至櫓台跡
(3-4)内郭部の土取りにより結果的に門渡り状の地形を呈することとなった二の郭北辺東部の土塁の状況
(3-5)外桝型を形成していたとも見られている三の郭東側小口付近
凸4 米本城主郭手前の空堀跡
(4-1)米本城の残存遺構中では最大規模となる主郭と二の郭を隔絶する空堀跡。画像右側二の郭は空堀からの高低差が約4mから5m前後ですが、これに対して左側の主郭部分の高低差は8m前後を測ります。
 郭内の平坦面は僅かに遺されているに過ぎませんが、で比較した場合には約3m前後の高低差を有することとなり、主郭部の高低差における優位性がしっかりと確保されています。
(4-2)崖線の地形に沿って緩やかな曲線を描く二の郭南東角付近土塁
(4-3)約8m前後の高低差と急勾配の斜面が遺されている堀底から見上げた主郭の切岸部 

主郭(推定)土塁と切岸 ⇒ 画像クリックで拡大します
米本城遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 米本城主郭土塁と切岸
(5-1)舞台のセットのような状況で紙一重となり辛うじて残存している主郭部東側土塁と眼下の切岸。
(5-2)主郭南東部に僅かに残存する土塁と郭面の一部
(5-3)城郭普請に伴うものなのかどうかも分からず、腰郭でもなく搦め手口でもなさそうで、目的不明の中途半端な地形
(5-4)後世の地形改変も想定できますが、土塁痕跡が殆ど見出すことのできない主郭部南側の状況です。10mを遥かに超える比高差に加えて、当時においては麓付近が低湿地であったこと等を考慮すれば土塁の築造は不要であったとも考えられます。
凸6 米本城遠景
(6-1)西側低地の新川(印旛疏水路)方面から撮影した米本城の所在する丘陵地帯の全景で、丘陵手前の麓に根古屋との地名が残されています。
 この方面から見る限りでは、半ば独立した丘陵地帯であるような印象も受けますが、その北東部分についてはほぼ台地続きの平坦地の状態に近いものがありこの方面の防御が大きな課題であったと考えられます。恐らくは城跡北側の現在は市道が貫通している台地狭隘部付近に、大規模な空堀を築造するなどの工夫が施されていたとも想定されます。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版

■郷土史・歴史関係
「千葉県の歴史散歩」(2006/山川出版社)、「千葉県の歴史」(2000/山川出版社)
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「八千代市の歴史通史編上」(2008/八千代市)、「八千代の歴史−資料編−原始・古代・中世編」(1991/八千代市)
「戦国房総人名事典」(千野原靖方 著/2009/崙書房出版)
「上総下総千葉一族(丸井敬司 著/2000/新人物往来社)」
「戦国の房総と北条氏」(黒田基樹 著/2008/岩田書院)
「新編房総戦国史」(千野原靖方 著/2009/崙書房出版)
「戦国合戦大事典2」(1989/新人物往来社)

■史料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 ⇒この資料集に所収されている「諸国廃城考」(明和7年−1770年編纂)の記述によると、「永禄7年鴻台の役(1月8日のいわゆる第2次国府台合戦)に北条氏康と里見義弘戦いし時、義弘遂に打負しかばこの城もまた明退ける(城主未考、蓋し里見氏の属城なり)。天正18年豊臣秀吉北条氏を滅せし時此城も又陥る(城主また未考)。」とある。

■その他
八千代市役所公式HP

・2010/04/29 HPアップ
・2019/06/24 画像ズレ補正
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