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千葉県八千代市の城館索引へ戻る  吉橋城の二重土塁 吉橋城 吉橋城の石碑
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/21のブログ 尾崎城 金堀城
所在地
 千葉県八千代市吉橋字尾崎、花輪
歴史、人物、伝承

高城氏関連の城郭か
 詳細な経緯は不明な模様ですが、大正期に編纂された「千葉郡誌」によれば千葉氏の流れを汲む高城伊勢守が城主とされ、吉橋、麦丸、坪井、楠ヶ山、大穴、金堀などの桑納側流域を支配したが、天文5、6年(1536-1537)に入り後北条氏の侵攻を受けて落城したことが伝わっています。
 この高城伊勢守は戦国時代後期に臼井原氏の傘下から半ば独立し、小金城を本拠として有力な地域権力を確立したとされる高城氏との関わりの深い人物と推定をされています。(「八千代市の歴史通史編上」などより)
 また「八千代の歴史」「日本城郭体系」などによれば、別名を香取城(かんどりじょう)とも。

確認可能な遺構
 土塁、空堀、縦堀、櫓台、小口ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月21日 11時55分から12時50分
訪城の記録 記念撮影

 壮大な2重土塁
 さほどの期待をもって臨んだわけでもなかったことから、下記画像の壮大な二重土塁との遭遇には率直に感動しました。また郭内にひっそりと設置された城跡の石碑の存在にも感動を。その傍らでゲートボールに興じるお年寄りのグループとの取り合わせもなかなか対照的で味わい深いものがありました。
 なお 「城郭大系」等では南側の貞福寺境内を主郭と推定していますが、「八千代市の歴史」(2008)および「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」などが示唆しているように、壮大な二重土塁の存在を始めとして竪堀、坂小口、切岸等が良好に残されている北側の郭の方を主郭とする見解に親近感を覚えました。

( 2010/04/3 記述 )
吉橋城の二重土塁と空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
吉橋城の二重土塁と空堀 −画像A−
( 2009/03/21 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「中近世城館報告書」(正式名称は「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」/1995/千葉県教育委員会)掲載の略測図等を基本に、必要に応じて現地での印象などを加味させていただきました。

吉橋城の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
吉橋城方面の遠望 ⇒ 画像クリックで拡大します
吉橋城石碑 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 北西方向からの吉橋城の遠望
 県道61号線沿いの水田脇から撮影したものと記憶しており、恐らく画像の中央付近が吉橋城の北郭辺りに相当するのではないかと思われます。
 なお既に一年以上前の探訪なので元々細い記憶の糸が途切れ途切れとなっており、寧ろ道に迷って方位を確認し県道を行ったり来たりしたという記憶の方が明確で...
凸2 吉橋城址石碑
 城址の石碑は以前から存在していたものを修復したたような印象がありました。このためさほど古いものとは思えなかったのですが、下総台地の城跡ではこうした石碑自体を余り目にすることができないこともあり、文化財であることを示す貴重な存在です。
吉橋城北郭の東辺土塁(2-2)
吉橋城北郭の南東角付近の様子(2-3)
 

吉橋城縦堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
吉橋城の二重土塁と空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 小口・堀切・縦堀状地形
 北郭東辺土塁を分断するV字型小口乃至は堀切状の掘削地形ですが、現状は土取りなどのためにそのまま画像の向こう側の宅地側(比高差10m以上)に切れ落ちている恰好となっています。小口の改変と同様に太平洋戦争中における軍事的な地形改変の影響なのかも知れません。
⇒延長約25mを測る南郭東側の土塁南端部分(3-2)
⇒崖線に沿って残されている吉橋城北郭低土塁(3-3)
 
凸4 北郭東側の2重土塁と空堀
 画像右側が北郭の高さ6m前後を測る切岸で、画像左側は高さ3mから4mを測る外部土塁。空堀の幅は上面で10mから15mを測ります。
同上(吉橋城の最大の見どころ)(4-2)
同上(吉橋城の最大の見どころ)(4-3)
東側の外部土塁(4-4)
空堀と縦堀の上部(4-5)
 

吉橋城腰郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
吉橋城土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 櫓台状地形から腰郭状地形へ
 南郭南辺の中央部の一力大明神の祠が所在する基壇から南側へと続く腰郭状に地形改変されている細長い稜線部分。
北郭の南西土塁(5-2)
⇒かつては坂小口を成していたという北郭の小口(5-3)
⇒空堀跡を連想する貞福寺への参道階段(5-4)
南郭北辺土塁(5-5)
凸6 南郭土塁
 貞福寺の境内地と墓地が過半を占めている南郭のなかで僅かに土塁の存在を示している南側の土塁残欠部。
 「八千代市の歴史通史編上」によりますと、城跡はかつては南西に続く県道61号線沿いの台地辺縁部付近まで広がっていたという旨が記されておりますが、この折にはそこまで足を延ばして探訪する気力と時間が無く未確認のままです。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「八千代市の歴史通史編上」(2008/八千代市)、「八千代の歴史−資料編−原始・古代・中世編」(1991/八千代市)
「戦国期東国の大名と国衆」(黒田基樹/2001/岩田書院)
⇒臼井原氏と高城氏の関係についての論考を掲載

■史料


■その他


・2010/04/03 HPアップ
・2019/06/24 画像ズレ補正
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