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千葉県船橋市の城館索引へ戻る  金堀城遠望 金堀城 金堀城の堀底道
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/21のブログ 小野田城
所在地
 千葉県船橋市金堀台字殿山
歴史、人物、伝承

小金城主高木氏の支城のひとつか
 戦国時代後期に千葉氏、臼井原氏の影響下にあった小金城を本拠地とした高城氏(高木氏)の支城のひとつと考えられているが当時の文献などによる傍証はなくその詳細は不明とされている。
 なお吉橋城(八千代市に所在)城主である高木伊勢守胤貞の支配下に置かれていたという里伝のみが残されている。

確認可能な遺構
 土塁、空堀、帯郭
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月21日 10時50分から11時25分
訪城の記録 記念撮影

 堀底道と帯郭
 地名の読み方というものは実に難しいものがあり、別途「かなほり」「かなぼり」「かねぼりなどと読んでも必ずしも間違いではなさそうにも思えますが、「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」「奈良文化財研究所遺跡データベース」によると、その読み方は「かねほりじょう」と表記されているのでこれに従っています。因みに、「日本城郭体系」では「かなぼりじょう」とルビが付いています。
 近世には現在のように共通語もなく、まして国語審議会などというものはなく、方言の発音そのものに様々な漢字を宛てることが珍しくは無く、例えばJR山手線の駅名でもある「日暮里」(にっぽり)は、「新堀」(「しんぼり」或いは「にいほり」)が転訛して「にっぽり」となったとも。この例に倣えば、仮に「かねっぽり」「かなっぽり」などと読んでも、あながち間違いでもないような感じもします(笑)
 主郭部の大規模な削平に伴い、東辺から北辺にかけて僅かに土塁と堀底道(空堀跡)が残存しています。それでも北東辺の堀底道から見上げた崖線の高さには瞠目するものがあります。一見したところでは台地続きの殿山と呼ばれる外部(外郭部)よりも、台地先端部の郭内側の地表の方が標高自体が低そうな印象があります。しかし郭内そのものが宅地開発が盛んであった1970年頃に大きく削平されていることからその旧状が判然としないのでその詳細は不明です。尤も、削平される以前に作成されたと推定される「金堀城跡実測平面図」(「船橋市史前篇」1959/船橋市刊)を見る限りでは、郭側土塁の高さは台地の地表と同等に記されていることが窺えます。また同図には内郭の北辺と北西角に小規模な出桝型土塁も記されています。
 なお東辺土塁の一部(本来は帯郭と推定)には、櫓台跡のようにも見える高まり部分も見受けられますが、無論後世における地形改変跡の可能性も想定され、この点はあくまでも限りなく願望に近いものかもしれません。   

( 2010/03/26 記述 )
金堀城の空堀と土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
金堀城の堀底道 画像−A−
( 2009/03/21 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「東葛の中世城郭」掲載の現況等を基本にして、必要に応じて現地での印象などを加味させていただきました。

金堀城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
金堀城東側からの遠望 ⇒ 画像クリックで拡大します
金堀城南東部の空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 東側からの遠望
 画像下側の低地部分は、コンクリートの用水路となっている城跡の東麓を南流する桑納川の支流となる金堀川の流路。
 かつてはこの一帯も水田を含む印旛沼方面へと続く低湿地が広がっていたものと推定されます。
⇒支谷が入り込むことにより台地幅が狭まっている様子が窺える北側方向からの遠景
⇒主郭への小口が存在していたとものと推定されている金堀城南側の遠景
 
凸2 南東部の空堀
 「金堀城跡実測平面図」(「船橋市史前篇」1959/船橋市刊)によりますと、画像の右側が東側を南北方向にのびる帯郭状地形の南端部で、中央のやや左側が空堀跡とされる堀底道、さらにその左側が主郭部の土塁跡に相当するものと考えられます。
 現状の堀底道からの見かけ上の高さ(深さ)は、郭の土塁側で約1.5m、帯郭側で約1.2mを測り、見方によっては横堀と二重土塁の組合せのようにも思えます。
南東部空堀の上方の様子
 

金堀城の空堀と土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
金堀城東側の帯郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 空堀と土塁
 北辺部分の堀底道から下方に向けて撮影したもので、画像左側の深さ(高さ)は目測で約5m、右側の郭側は約1mを測ります。
⇒台地本来の標高を有していると推定される殿台とも呼ばれる北側台地続きの耕作地ですが、その北西の台地続きの字松葉(⇒的場の転訛と推定される)には土塁の残欠や腰郭跡なども所在していたということです。
⇒以前は画像左の郭側にも高さ5m以上の土塁が存在していたとは俄かには信じがたい、比高差にしておよそ8m以上を有する竹林の斜面となっている郭内の様子。
 ただし、堀底道自体は南東の角から北辺にかけて緩やかな上り勾配をともなっていることから、これに伴い主郭内の削平面が緩やかに南側へと傾斜していたのか、或いは比高差数mに及ぶ切り立った土塁内壁を形成していたのか等の具体的な形状については詳細不明です。
凸4 東側の帯郭
 東側斜面中腹には一見すると土塁のように見えてしまう南北に細長い「帯郭」状の遺構が残存し、またその北端部付近には、このように櫓台のようにも見える地形の高まりも確認することができます。
 画像右側の堀底道との比高差を考慮すれば、二重土塁の外側部分と考えることも可能と推定されるような地形ですが、近世以降の民間信仰などの石祠を祀っていた名残りであるという可能性も否定できません。
 しかし、堀底道に沿った形で恰も「舞台の書割」のように現存している遺構の現状からは、当時の様子を偲ぶには些か困難な要素も多いというのが実情であるというべきなのかも知れません。
 
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)・
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「船橋市史 原始・古代・中世編」(1991/船橋市)

■史料


■その他
奈良文化財研究所遺跡データベース

・2010/03/27 HPアップ
・2019/06/23 画像ズレ補正
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