凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)
■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)
→所在地についての詳細な記述はなく、「富塚の集落の北東数百mの山林の中にある」とのみ記されています。
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
→「白井市富塚字中下」という所在地(凡そのマーキング情報含む)、現況「山林・畑地」、時代「中世」、関連地名として「桝形」、城跡の別称が「奥山城」などの情報が示されているが、字中下(なかしも)には低地が多く城跡に相応しい台地地形に乏しいという問題を無視できないものと考えられ、またそのマーキング位置は「向山」の山林付近を示しているという問題もある。
また「桝形」の地名については、「白井の地名」によれば、寛保3年(1743)「下下新畑差出帳」ほかに見られる畑地の地名とし、開拓耕地の形状を示すものであり近世以降の地名として考えられていると記されている。
■郷土史・歴史関係
「白井の中世を探る」(平成12年度企画展解説資料/白井市郷土資料館)
「白井のあゆみ」(2005/白井市郷土資料館)
→天正10年(1582)原豊前守胤長は富塚村を含む11か村について、千葉邦胤に「印西外郷」として守護不入権を認めさせている(「根津嘉一郎氏所蔵文書」)。なお、同様に小金高城氏も「白井領」として支配したことを伝えている(「高城古下野守胤忠知行高附帳」より)。この点については原氏−高城氏という上下関係を示すものであるのか、並立関係を示すものであるのかその判断は難しい。
「白井村誌 大正4年版」(2002翻刻版/白井市郷土資料館)
「しろいの散歩みち」(白井町役場)
→「冨塚城のはなし 字大下(おおしも)の台地に昔出城があって、沼南町藤ヶ谷(城跡あり)と戦いをしたとき、弓矢の交戦が激しく藤ヶ谷と冨塚の境の川(※金山落)に矢が重なり埋まって橋になるほどだったという。そこから矢の橋の名がついたとのことである...。」との地元に伝わる伝承が掲載されている。
この伝承によれば冨塚城の所在地は大下となることから、仮にそれらしい台地を求めるとすれば太子堂西輪寺北東約100メートルの舌状台地付近という説も想定されることとなる。
「白井の地名」(2005/白井市郷土資料館)
→白井市内の小字一覧とその領域、名称の謂われ、文書に記された時期などが示されています。
「白井の伝説と文化財」
→「小田原の戦いで海東八郎延高という武士が、南相馬(沼南町付近の武将の平胤吉の軍勢に滅ぼさた。そこで延高の14歳になる村雨丸延乗が敵討の旅に出たが、矢の橋で病に倒れた。そこに胤吉の一団が現れ事情を尋ねたところ村雨丸の恨みは消えて川に身を投げた。残されたお守り復路には平貞盛の子孫とあった。その後胤吉は仏門に入り、村雨丸をねんごろに供養し海東父子のため法華経を書写し納経した」という「村雨丸伝説」が記されている。
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
→「富塚地内中下には中世の富塚(奥山)城址がある」と記されています。
「千葉県東葛飾郡誌」(1923/千葉県東葛飾郡教育会/復刻版)
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)
「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房)
→原胤長の事跡について詳しい論考が収録されている。
「戦国期東国の大名と国衆」(2001/黒田基樹/岩田書院)
■史料
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■その他
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・2010/08/29 HPアップ
・2019/06/22 画像ズレ補正
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